「あの、お届け物です」

機動六課隊舎の広いロビーに、青年の声が響き渡った。三階建ての、少しばかり古い建物だ。
すぐ傍に海が広がっているため、風が吹くたびに潮の香りが鼻腔に流れ込む。そこに僅かながら香ばしい匂いが混じっているのは、ちょうど昼食の時間だからだろう。

「はーい、すみませーん!」

声に応じて、部屋の奥から出てきたのは、管理局の制服に身を包んだ女性だった。
艶やかな栗色のサイドポニーの先端が、腰の辺りで揺れる。見覚えのある顔だった。
といって直接の面識があるわけではなく、雑誌やテレビでちらりと見ただけだが。

高町なのは。
若くしてエースオブエースと呼ばれる彼女を知らない者は、余程の世間知らずだろう。

(本人か。ちょうどよかった)

同僚がこの有名人に会える可能性に羨望の目を向けてきたが、青年としては、あまり管理局に積極して関わることはしたくなかった。仕事だから仕方がないと諦めたが、できる限り早く立ち去りたい。
衣類の入ったダンボールを床に置き、ズボンのポケットから伝票を取り出す。

「ここに判子かサインをお願いします」
「じゃあサインで……あっ」

サインペンを握ったなのはの手が止まる。
見開かれた目は、青年を見つめていた。
またか。初対面の相手は、いつもそうなる。
ミッドチルダでは、青年の黒髪はよほど珍しい物らしい。

(地球……日本出身なら、そう驚くほどのもんじゃないだろうに)

顔には出さず、内心で嘆息する。それでも表情から漏れ出す何かがあったか、なのはは慌てて伝票にサインペンを走らせた。
その後、青年が出会ってきた人々と同じような詮索をしなかったのは、彼の高町なのはに対する評価を僅かながら上昇させた。詮索屋は好きではないし、出自を問われるには、経歴がちょっとばかり後ろ暗い。

「では、またのご利用を」

仕事用の作り笑顔を顔に貼り付け、心にもない言葉を置き去りに、青年は外に出た。
建物近くに停めてあった浅黄色のオートバイに跨り、ヘルメットを被り、急いで機動六課隊舎を後にする。
びゅうと潮風が、横合いから青年に吹き付けた。オートバイと同色の制服の右胸で、ネームタグが揺れる。
そこには、黒い文字で「コウタロウ・ミナミ」と書かれていた。

(……ちゃんと、昼飯食べてるかな)

首都クラナガンのアパートで、自分の帰りを待っている一人と一匹を思いながら、青年―――南光太郎はオートバイを加速させた。
空は、雲一つ無く蒼い。

南光太郎は、改造人間である。

秘密結社ゴルゴムに捕らわれた彼は、ニューヨーク地下の研究所から逃げ出した後、仮面ライダーBlackとしての戦いを決意したのだった。

(……仮面ライダー、か。俺は、そんな大層な奴じゃなかったよ)

風切り走るオートバイ。
ヘルメットの内側で、光太郎は苦笑を浮かべた。英雄が人々に救いをもたらす存在ならば、自分にその名はあまりに似合わない。
守るためにある筈の腕は、襲い来る怪人を引き裂き、時に親しかった人さえも貫いた。正義の使者の所業ではない。
ふと頭に湧いた「魔王」という言葉が、光太郎の心をひどく苛んだ。

1999年、滅びかけた日本。
遥か未来の世界を統べるゴルゴム首領、「魔王」との戦い。勝利したのは、光太郎だった。
超破壊エネルギーに砕かれ消えてゆく、自分と同じ姿をしたモノ。光の奔流に飲まれた光太郎が意識を取り戻した時、彼はクラナガンの路地裏で倒れていた。

(結局……世界は救われたんだろうか?)

無辜の人々が、平和に生きる未来を迎えたのか。
「魔王」の言ったとおり、ゴルゴムの瓦解と共に滅びたのか。
見届けることなく、光太郎はミッドチルダに来てしまった。あの地球出身だというエースオブエースの壮健が、彼が戦った結果なのかも知れないが。

(………未練、だな。くだらない)

あの光の奔流が、記憶の一切を焼き尽くしてくれれば、こんなことを考えずに済んだだろう。
光太郎は歯を食いしばり、腹の底から込み上げる何かを噛み殺した。口中に、得体の知れない苦味が広がる。
あの世界が栄えたにせよ、滅んだにせよ………南光太郎が生を許される場所は、何処にもない。

それは確信だった。
人類の歴史を思い出すがいい。肌の色が違うだけで迫害するというのに、人類ですらない者をどうして許容することができる?
一部には、サムやケイト達のように受け入れてくれる人々もいるだろう。だが、力の無いマイノリティに未来はない。
どのような形にせよ、光太郎があの世界から消えるのが、誰にとっても最良の選択だった。

―――お願い、もうどこにも行かないで。

そんな、妹分の言葉が耳に蘇り、胸を痛ませることもあった。だが、どうあっても戻るわけにはいかない。
この世界に飛ばされて三年。光太郎は……自分の半身と呼べる存在と出会ってしまったのだ。

 

光太郎が全ての仕事を終え、クラナガンにあるタチバナ運輸の営業所に到着したのは、空の茜が黒に塗り変えられつつある頃だった。
数台のトラックの近くにオートバイを停め、脱いだヘルメットを抱えて営業所に入る。
昼間に寄った機動六課隊舎を数倍大きくしたような、白い建物だ。

「おおコウタロウ、帰ってきたか」
「どうも親父さん。ただいま戻りました」

奥の机で、書類を片付けていた初老の男性が顔を上げた。顔に幾筋かの皺こそ刻まれているが、髪は黒々としていて、がっしりと力強い体は四十五という年齢を感じさせない。
タチバナ運輸の社長で、光太郎が親父さんと呼んで慕う人物だ。

「で、どうだった? エースオブエースってのは?」

見かけによらずミーハーのところがあり、手元にある雑誌の表紙で、高町なのはが純白のバリアジャケットを纏って微笑んでいた。
光太郎はポケットから伝票を出しながら答えた。

「どうだったって、ちょっと会っただけですよ? 話なんてしてませんし」

「なんだつまらん……ま、ずっと話してて仕事忘れられるよりはいいわな」

豪気な笑い声が、営業所内に響き渡る。
釣られて、光太郎も控え目に笑った。

親父さんと出会ったのは、光太郎がこの世界にやってきてすぐのことだった。
路地裏で目覚め、そこがどこかも分からず混乱していたところを、偶然通りかかった彼が助けてくれたのだ。

―――うちに来るか?

笑いながら向けられたあの言葉は、今も耳の奥で響いている。
元より行き場もなく、何より声の優しさに惹かれた光太郎は、一も二もなく差しのべられた手を取った。人と関わってはいけないと思っていても、突き上げる衝動はどうしようもなかった。

それから、光太郎はタチバナ運輸の社員として働いている。親父さんを含めた周囲には、記憶喪失で名前以外は覚えていないと伝えていた。
恩人にまで嘘をつくのは心苦しいが、話せばどうなるかは目に見えている。それに………心のどこかに、忌わしい過去全てを切り離してしまいたい、という思いがあるのかも知れない。

「おっと、そうだそうだ。コウタロウ、今日はバイクの掃除終わったら、もう上がっていいぞ」

親父さんが、ぱんと手を叩いて言った。
配達こそ終わったが、今日預かった荷物の仕分けはまだしておらず、伝票のチェックも売り上げ計算も終わっていない。光太郎は小首を傾げた。

「お前、ここしばらく休み無しじゃないか。がんばってくれんのはうれしいけど、あんまり無理すると倒れるぞ」
「無理だなんて、そんな。明日なら、明日取ってますし」

改造された肉体は、光太郎に無尽蔵と言ってもいい体力を与えてくれる。
そうでなくとも、一生を尽くしても返しきれない恩があるのだ。出来る限りのことをしなければ、申し訳なくて目も合わせられない。
そんな光太郎の思惑を撥ねて、親父さんは首を振った。

「それにな……お前のちっちゃい奥さんが来てるんだよ」

光太郎がその言葉の意味を理解する前に、休憩室から一人の少女が姿を現した。
電灯から降る光を受けて煌めくピンクの髪に、草原の色をして緑のワンピース。華奢な肩には、猫ほどの大きさの白い竜が乗っていた。

「キャロ、フリード? 何でここに?」
「コウタロウさん!」
「キュクルー!」

顔中に喜色を浮かべ、キャロ・ル・ルシエが走り寄ってくる。肩から離れた子竜フリードリヒが、光太郎の頭に飛び乗り、耳をがじがじと甘噛みした。
本来、アパートで光太郎の帰りを待っているはずの、一人と一匹だった。彼らのじゃれあいを微笑ましいものとして眺めながら、親父さんが説明を加える。

「入り口からその子が顔出してた時はびっくりしたよ。話を聞いてみりゃあ、明日ひさしぶりに二人……と一匹で出かけるから、待ち切れずに向かえに来たって言うじゃないか」

親父さんは物知り顔で数度頷くと、光太郎の肩に手を置いた。今は亡き養父のように、温かい手だった。

「あんなかわいい子泣かしたら、俺の男が廃れちまうよ。だから、今日は行ってやれ。明後日からまたがんばってくれればいいさ」

それで、光太郎の喉から否の言葉は掻き消えた。
これ以上拒み続ければ、親父さんの温情を踏み躙ることになる。それに、キャロの期待に満ちた瞳もあった。

「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。キャロ、すぐ終わらせるからもう少し待っててくれ。晩飯を食べに行こう」

数十分後、オートバイの清掃と点検を終わらせた光太郎は、キャロとフリードを伴って営業所を離れた。制服から着替えた彼は、白いジャケットとズボンという簡素な出で立ちだった。
ゴルゴムとの戦いに身を置いてからは、服装にあまり頓着したことはない。何を着ても、改造人間との戦いですぐに破れてしまうからだ。

「―――だけどキャロ。フリードがいるからって、こんな時間に外に出たら危ないぞ。最近は、ガジェットとかいうのも出るらしいからな」

高層ビルの谷間、雑踏に紛れて隣を歩くキャロを窘める光太郎を、人はどう見るのだろう。年の離れた兄か、はたまた若い父親か。
しかし二人の間柄は、そのどちらでもない。

「すみません……でも明日が楽しみで、部屋でじっとしてられなかったんです」

声が弾むのを抑えようともせず、キャロは腕に抱いたフリードの頭を撫でた。子竜が、心地よさそうに目を細める。
光太郎にも、キャロを強く咎める意図はなかった。夜の一人歩きは褒められたことではないが、そうさせた自分にも非はあるのだ。

(このところ、忙しくてあまり構ってあげられなかったからな)

キャロとの出会いは去年、日々冷たさを増す風が冬の到来を告げる頃。
ある夜、彼がその日の仕事を終え、晩の食糧を求めて外出した時のことだった。

 

量販店の傍、狭い路地の前を通りかかった光太郎の耳が、人間の息遣いを捉えた。
付近には、彼以外の歩行者は見当たらない。
しかし改造により鋭敏化された聴覚に、聞き間違いはありえなかった。精神を集中し、音の元を辿る。

(そこか)

視線の向かう先は、路地裏の奥だった。
そこには、暗がりの中に幾つかのゴミバケツが置かれているだけだったが、息遣いは間違いなくそこから聞こえてくる。

いつもの光太郎なら、面倒を避け、そのまま通り過ぎていただろう。しかしその夜に限り、彼は憑かれたように路地裏の中に足を踏み入れた。
なぜそうしたのか、今になっても答えは出ない。光太郎は、気配と足音を消して一歩一歩慎重にゴミバケツに近づき、そっとその向こう側を覗き込んだ。

「―――女の子!?」

光太郎はぎょっとして叫んだ。
そこには、壁に寄り掛かるようにして一人の少女が眠っていた。年齢は十代前半。
特徴的なピンク色の髪と、白いローブが夜闇に映える。しかしそのどれもが埃に塗れて汚れていて、少女が逃亡者であることを光太郎に教えた。
そうでなければ、こんな場所で隠れるように眠っている説明がつかない。

「ふぇ……?」

光太郎の大声が、眠りを覚ましてしまったのだろう。少女の瞼がうっすらと開いたが、起き抜けの意識は判然としていない。
何かを求めるように四方八方に首を振り、やがて光太郎の顔と出会った。視線と視線が合わさる。

「…………」
「や、やぁ」

とりあえずの挨拶。
少女の目が見開かれた。

「きゃあああああ!!」

甲高い悲鳴が、駆け上って夜空を衝く。
同時に、ローブの中から白い小さな影が飛び出し、光太郎に飛び掛かった。鼻に激痛が走る。

「いてててて! な、何だ!?」

光太郎は顔に覆い被さる何者かを掴み、力任せに引き剥がした。
白い、猫ほどの大きさの翼竜が、背中を抓まれて暴れている。これが、鼻に噛みついていたのだ。

「キュウッ! キュウウッ!」

竜が鋭い牙を噛み鳴らして光太郎を威嚇する。
小さい体は、元気の塊のようだ。しかし子供とはいえ竜など、このミッドチルダでもなかなか見られるものではない。
それが何故、こんなところに?
その時、横合いからジャケットの裾が引っ張られた。

「フリードをいじめないで!」

ピンク色の髪の少女だった。瞳に必死を湛え、光太郎の腰にしがみ付いている。
この竜は、どうやらフリードという名前らしい。どちらかと言えば、いじめられていたのは光太郎の方だったが。

「………いじめたりなんかしないよ。ほら」

そう言って、光太郎は地面に膝をついた。
暴れるフリードを少女に渡し、真正面から瞳を覗き込む。疲弊の色が在り在りとしていた。
思えば裾を引っ張った力も、幼いことを抜きにしても弱かったように感じられる。
彼女が何に追われているのかは知る由もないが、碌に休む暇もなかったのだろう。

「だけど、せめて事情は教えてくれないか? 君は、何から逃げてるんだい?」

今の自分が、どれほど力になれるかはわからない。だが、こんな年端もいかない少女が塵埃に塗れて逃げ回らなければならない理不尽を、見過ごすわけにはいかなかった。

「………っ」

しかし、少女はフリードを胸に掻き抱くと、そのまま口を閉ざしてしまった。
考えあぐねているのだろう。目の前の男に打ち明けてしまっていいのかを。
光太郎に胸内で、怒りが燃え上がる。何が、ここまで彼女を追い詰めているのだろうか。

「だいじょうぶ。俺は、君の味方だ。……絶対に」

一句一句を、耳朶に刻みつけるかのような力強さで、光太郎は言った。信じて欲しいという思いから紡がれた言葉に、決して嘘はない。
それきり光太郎は黙し、少女の返答を待った。
伝えたいことは伝えた。これで駄目ならば、自分はその程度の男なのだ。

「………ぅぅ」

俯いて顔の見えない少女から、か細い声が上がる。華奢な肩が、小刻みに震えていた。
不思議そうに主を見上げるフリードの鼻先に、一滴、輝くものが落ちる。すぐに二滴目が落ち、三滴、四滴を呼び、止むことなくフリードの顔を濡らして、服の袖に染みを生んだ。

「………」

光太郎は、少女を抱き締めた。
何故そうしたのか。それで何がどうなるかなど、彼自身分からないまま震える少女を包み込んだ。
自分の半分もない小さな体は、氷のように冷たい。光太郎には、それが気温の低さによるものだけではないように思えた。

「我慢なんて、しないでいい」

胸の中の少女に、そっと囁きかける。それが少女の耳朶を撫でた時、震えが止まった。

「ぅぅ……ぅぅぅ……うわああああああああん!」

ジャケット越しにも、胸元が濡れる感触がある。涙も泣き声も、光太郎は全て受け止めた。
こんな子供が、何故泣くことすら我慢しなければならない? 怒りと悲しみが、渾然一体となって荒れ狂った。
だが、それを問うのは後でいい。光太郎は抱き締める腕に力を込めた。
今はただ、止め処ない嗚咽と涙を受け止めてやるしかなかった。

少女の名は、キャロ・ル・ルシエ。
泣き止んだ後、涙を拭いながら教えてくれた。
年齢は九歳と、思っていた以上に幼い。
何故追われていたのか。何に追われていたのか。
それは、彼女の生い立ちにまで遡らなければならなかった。

そもそもキャロはミッドチルダで生まれたわけではなく、光太郎と同じく別の世界の人間なのだという。といって地球ではなく、管理局が第6管理世界と呼ぶ世界だ。
キャロは、そのアルザスという地方に住む、ル・ルシエという少数民族に生まれた。

ル・ルシエは、竜と共に生きる者達。それ故何より先んじて教えられるのが、竜の召喚だった。
それについて、キャロには天稟とも言うべき資質が備わっていたのだろう。彼女は幼くして、二体超えてもの竜を召喚することができた。

白銀の飛竜、フリードリヒ。
光太郎に噛みかかった小さな竜で、キャロが卵から孵化させたらしい。まだ幼いが、その真の姿は十メートルにも及ぶ。
そしてもう一体、漆黒の巨竜ヴォルテール。
アルザスにおいて、大地の守護者と呼ばれる存在だという。

その二体がキャロの呼び掛けに応じ、少女の守護竜として契約を結んだのだ。
だが、なんという皮肉だろうか。キャロを守護する存在が、これから彼女に降る悲の原因になるとは。

―――――部族からの追放。

それが、ル・ルシエの長老が下した命令だった。強過ぎる力は災いを呼ぶのだと。
平和に慣れ過ぎた彼らは、平和を壊すかも知れない存在を恐れ、平和のためと銘打って、平和に生きたかった少女を排除する。
恐怖に駆られた衆は、人から転げ落ち獣を超えて愚かになるのだろうか。

それでも、キャロは首を縦に振った。
自分が居ることで、人々に不安を与えることを望まなかったのだ。
まだ親に甘えたい盛りの少女には、とても見合わない決意。しかしその裏で、彼女は血涙を流したことだろう。
かつての仲間に追い立てられ、子竜フリードのみを友とした旅が始まった。
その果てに倒れたキャロを保護し、このミッドチルダに連れてきたのが、管理世界を見回っていた時空管理局だったという。

「じゃあ、君は管理局から逃げてきたのか? だが、いくらなんでも君みたいな子供に危害を加えるような真似はしないと思うが……」

光太郎は湧いた不可思議に首を捻った。
しかし現に、キャロは眠るためにゴミバケツの裏に隠れなければならなかったのだ。それが、瑣末な勘違いによるものとはとても思えない。
話は、いよいよ核心に迫りつつあった。

力尽きたキャロが目覚めたのは、四方を真っ白な壁に囲まれた部屋だった。

(どこ、ここ……?)

天井に設置された光る物体に目を細め、キャロは身を起こした。
掛けられていた毛布が二つ折りになり、胸の上で眠っていたフリードがその中でもがく。
どうやら、自分はベッドに寝かされていたらしい。

荒野で倒れていたのを、誰かが助けてくれたのだろうか? しかし、部屋の中に人はいない。
外を覗こうとしても窓さえなく、左方に金属製の扉が一つあるだけだった。生活のために作られた空間ではないようだ。

……………牢獄。

頭の片隅で不吉な言葉が首をもたげたのを、キャロは首を振って追い出した。
自身が持つ人々に災禍を与える危険性は、ル・ルシエの部族しか知らない。最近はフリードの力を使うこともなかった。
牢獄に閉じ込められる謂われはない。

とはいえ、ここが何処なのかくらいは知りたい。
キャロはフリードを胸に抱き、ベッドから降りた。服はそのまま、サンダルも傍に揃えてあったため、助けられただけで他に何をされたという訳でもないようだ。
踏み締めた白い床は、サンダル越しにも冷たい。足の裏で感じる質感は、木でも土でもなかった。
改めて周囲を見回せば、部屋を構築する全てが、キャロにとっての未知だった。

石や鉄に似ていてそのどれでもない、部屋の壁は何で出来ている?
天井で光る、ランプでも蝋燭でもない物は?
場所を問わず香った、草木の瑞々しい匂いはどこに?

「……怖いよ、フリード……」

胸元の子竜に、ぽつりと呟きが落ちる。
自分が無知なだけで、アルザスから遥か遠くの都会では、これが普通なのかも知れない。
それでも、キャロにとっての未知であることに違いはない。
山と降り積もる不安に、前に進む足取りは重くなるばかりだった。だが、このまま部屋で思考を巡らせていても、不毛なだけで何も変わらない。
固唾を飲み込み、キャロは扉を押そうとした。

「―――それで、あの女の子と竜はどうなんだ?」

少女の動きが止まる。
前方に伸びかけた手が、当て所なく彷徨った挙句に引っ込んだ。扉の向こうから、話し声が聞こえてくる。

「ああ、あのピンクの髪の。疲れてただけで怪我一つなかったからな、その内起きるだろ。竜の方は元気だったし」

内容は、キャロとフリードのことだった。
盗み聞きをするつもりはない。しかし声が硬質な靴音と共に迫り、自分が話の種では、耳の背けようがなかった。

「あの子も魔導師になるのか?」
「なるというか、するんだろ。何せこの人手不足だ。俺達みたいな低ランクが戦力に数えられないくらい、な」

溜息が語尾の後に続く。
よくわからない話だった。だが、声に滲む感情は、決して良いものではない。
…………胸の深いところで、未だ癒えない傷口が、疼いた。

「たしか、竜使役の特殊技能持ってるんだっけか。また、ぽっと出に階級越されちまうのかね」
「……つらい話だけどな。管理局は実力主義だ。平凡な能力しか持たない奴の出る幕なんてないのさ。脳味噌が魔力でできたようなの率いられるのはまっぴらだがね」

耳を塞いでも、声は擦り抜けてキャロに届く。
床に落ちたフリードが、主人の身を案じて見上げてくる。

声には妬みがあった。

―――あんな子供が、何で二体もの竜を!?

声には嫌悪があった。

―――強い力は災いを呼ぶ。悪いが、出て行ってくれんか。

幾十、幾百の言葉が、記憶の海より這い出てキャロの古傷を抉る。
それまで優しくしてくれた人々が、掌を返して悪意を吐きかけてくる苦悶。防ぐ術は、少女にはなかった。

「もう、やめて」

キャロの膝が崩れる。
切実なる懇願は、しかし誰にも届かなかった。
投げ槍な声が、扉に向こうから聞こえてくる。

「竜だの何だの………なんであんな化け物どもがいるのかね」
「まったくだ」

それが最後だった。
その後はどうなったのか、記憶は朧げで定かではない。ただ、窓から黒煙を吐き出す建物を背に、フリードを抱えて必死に走ったことだけは覚えている。
しかし、所詮は子供の体力。疲労が完全に回復していなかったこともあり、キャロは休憩地として、暗くて狭い、人が寄り付かなさそうな場所を選んだ。
光太郎と出会う、一日前のことだ。

「それで、こんなところで寝ていたのか」

光太郎は渋面を作った。
昨日営業所のテレビに医療センターで火災が起きたという速報が流れていたが、まさか彼女が原因だとは思わなかった。
管理局員の言葉も、遣る瀬の無い気持ちから生まれたものだろう。しかし無自覚にとはいえ、少女の心を傷つけて良い理由にはならない。

「これから、どうするんだ?」

「………」

キャロは口を閉ざした。愚問だった。
行くあてのない、それ故の流浪。ミッドチルダの要である管理局には追われる身。
このままでは、野垂れ死にを待つ以外にどうすることもできない。

(この子は、俺だ。ゴルゴムと戦っていた時の、俺だ)

いや、それより遥かに酷い。光太郎にはまだ、受け入れてくれる人がいて、帰る場所もあった。
それでも、孤独感は止め処なかった。人の中にありながら、暗闇の中にたった独りで取り残されたような気がした。
ならば、真に独りであるキャロの悲しみは如何ばかりか。
フリードがいるとはいえ、本来なら家族の庇護を受けていなければならない年齢。それが、望まない力を持ってしまったために故郷を追われ、天地の何処にも居場所がない。

出会って一日さえ経っていないというのに、光太郎には他人事とは思えなかった。もしも親父さんに拾われていなかったのなら、立場は逆転していたかも知れないのだ。
あの時、信彦がゴルゴムに捕らわれ、光太郎だけが逃げ出した時のように。

「キャロ、だったっけか」

「は、はい」

一つの決意を胸に、光太郎はキャロの両肩に手を置いた。
自身、無謀であると思う。だが、このまま見捨てていくことは、どうしてもできなかった。

「君がよければ、だけど………俺の所に来ないか?」

 

―――それからは、色々なことがあった。

まず最初にして最大の難関である親父さんに事情を説明したが、しっかりやれよと言われただけで、簡単に認めてくれた。
もしかしたら、彼も過去に何かあったのかも知れない。
住居も社員寮からアパートに移った。
もともと何を贅沢する訳でもなかったため、溜まっていた貯金の良い使いどころとなった。管理人が動物好きの――少なくとも少し大きいトカゲがその範疇に入る――アパートを探すのは、少しばかり骨が折れたが。

(……あれから、もう一年か。早いもんだな)

光太郎の意識が、現在に回帰する。
二人と一匹の生活は、一つばかりの憂慮を除けば、然したる問題もなく続いていた。
当初は光太郎に気を使い、借りてきた猫のように身と心を固くしていたキャロだったが、最近では年相応の無邪気を見せてくれるようになった。
フリードも前は隙あらば喉笛を食い千切ろうとしてきたのに比べ、今では指といわず耳といわず甘噛みをしてくる。これは、できれば控えて欲しかったが。

(管理局も、今はガジェットとやらの対応に忙しいらしいしな)

ただでさえ人手不足の管理局だ。
いつまでも一人の少女に拘泥している暇はないのだろう、捜査の手がこちらまで伸びることはなかった。
しかし、それがキャロの孤独をより強調するようで、光太郎の胸に一抹の悲しみを落とす。
魔法の国も、一部を除けば人に対する冷たさは東京とあまり変わらなかった。

「コウタロウさん? どうしたんですか?」

声の方に目を向けると、キャロが怪訝そうに光太郎を見上げていた。
一度思考にのめり込むと、他のことに気が回らなくなる。光太郎の悪癖だった。
不自然ではない程度の笑顔を作り、キャロに向ける。

「いや、明日はどこにいこうかな、と思ってね。廃棄都市での特訓ばかりじゃつまらないだろ?」

心配顔が見る間に笑顔に変わった。
自分の深奥を無防備なまでに明け透けにした笑顔。少しばかりの悲しみならば、これで容易く消し飛んでしまう。

「キャロの行きたいところにしよう。服も買おうか。そのワンピースも、ちょっと痛んできたみたいだ」

今キャロが着ている緑のワンピースは、光太郎が彼女に初めて買い与えた物だ。ル・ルシエの衣装は、街中を歩くには目立ち過ぎる。

「そんな、いいですよ。これもまだ着れますし」

そう言って笑みを絶やさないキャロだが、ところどころに見える不格好なほつれは隠しようがない。大切にしたい、という気持ちもあるのだろう。
だが、光太郎はキャロを甘やかしたかった。
わがままだって、いくらでも言って欲しい。
今までずっと我慢してきた分を、取り戻してやりたかった。

「いつも寂しい思いをさせてるからな。その埋め合わせくらいはさせてくれ」
「寂しくなんて、ないです。フリードもいてくれるから」

それに、と言って、キャロは光太郎の手を握った。

「あの時、コウタロウさんが私を見つけてくれなかったら……もっと寂しくて、寒くて、死んじゃってたと思います」

握る手に、軽く力が込められる。
軽くというのは光太郎の体感であり、実際はキャロの渾身であるのかもしれない。

「それに、コウタロウさんはどんなに遅くなっても、一緒にご飯食べてくれるじゃないですか。もう、二度とそんなことできないって、思ってたのに……」

声音に、湿った色が混じる。涙の前兆だった。
過去を思い出してか、それとも感極まってか。
とりあえずとして、光太郎はキャロの手を握り返した。小さくて柔らかくて、気をつけなければ、潰してしまいそうだった。

(それは俺のセリフだよ、キャロ)

言葉にはせず、光太郎はただ胸中で呟く。彼も、以前はキャロと同じ思いを抱えて日々を過ごしていた。
魔法が飛び交い、幾多の使い魔が住むこのミッドチルダでさえ、光太郎は異形の存在なのだ。
人と無暗に親しくすれば、何が糸口となってこの身に宿る秘密が露見するかもわからない。
たとえ恋し恋されようとも、人でない体は必ず相手を傷つける。
親父さんにさえ、記憶がないと嘘をつき、決して越えさえない境界線を引き、必ず一歩離れたところで接していた。

そこに、キャロが現れた。
以前、改造人間としての姿と力を見せてなお、私と同じですねと、優しく微笑みかけてくれた少女が。
それで、光太郎を苛んでいた思いは消えた。
親父さんが恩人ならば、彼女もまた恩人だった。いくら感謝を重ねても足りないのは、自分の方だ。
話題と気分を変えるため、光太郎は思いつきを口にした。

「……そうだ。昼間に新しい食堂を見つけたんだ。今日はそこにしてみようか?」
「はい。私は、どこでも」

ビルの窓から漏れ出る光が、二人に落ちて陰影を深めた。
食堂は光太郎達がいる位置から、ビル群を挟んだ向こうにある。人気の多い大通りを沿って行くと二十分はかかるが―――

「少し、近道しようか」

キャロの手を引き、人波から外れて路地裏に入る。営業所近隣の裏道は、大体把握していた。
外に出る仕事をしていると、自然と頭に染み込むものだ。
やがて、四方をビルに囲まれた、矩形の広い空間に出た。壁にはボールらしきの痕が見受けられ、昼間は子供達の遊び場となっているらしい。
その中心に足を進めたところで、光太郎は舌打ちした。

「………くそ、平和ボケし過ぎたな」
「え?」

キャロが何事かを尋ねる間もなく、前方の通路から一人、暗闇から湧き出るように男が現れた。同時に背後に一つ、荒々しい気配が出現する。
年齢は二十代も半ば。眉間に寄った皺と顎の無精髭が、男の性根を物語っていた。
無骨な手には、金属製の杖のようなもの―――デバイスが握られている。

「よう、兄ちゃん。ここを通るには通行料がいるんだ。知らなかったか?」

全く予想を裏切らない文句に、光太郎は自分の愚かさを呪った。彼らは違法魔導師だ。
時空管理局に迎合することができず、一般人に馴染むこともできなかった魔導師。中でも魔力が低い者は、こうした一般人相手の強盗などに身を落とすことが多い。
光太郎自身幾度かちょっかいを出されたことがあり、都市にはこういった輩が出没するのを知っていたが、失念していた。

「そこのガキに怪我させたくねぇだろ? おとなしく払った方がいいぞ」

背後の男が、纏う雰囲気そのままの声を出す。
ちらりと目を遣れば、彼もまた手に金属製の杖を持っていた。

「コウタロウさん……」
「大丈夫だ」

不安げに見上げてくるキャロを抱き寄せ、光太郎は改めて状況を確認した。
どうやら男達はこれが初犯ではないらしく、魔法を使えるという利点を生かし、飛び掛かられても十分に返り討ちにできる距離を保っている。それに標的の前後からなら、どちらかが倒されても残った方が襲うことができる。
明らかに常習犯の手口だった。
出口は前後で二つ。どちらも塞がれている。

それでも、光太郎一人ならば問題はない。
訓練されたドーベルマンを遥かに凌ぐ身体能力ならば、変身せずとも掠り傷一つ負わず無力化できる。
だが、傍にはキャロがいた。光太郎には当たらなくとも、流れ弾が彼女に及ぶかも知れない。無茶はできなかった。

「どうした? さっさと財布出さねえか」

前方の男が、苛立ってきたのか建前も捨てて歯を剥いてくる。これ以上長引かせると、向こうが何をしてくるかわかったものではなかった。

「わかった。金は出すから、何もしないでくれ」

そう言って、光太郎は懐に手を入れた。
だが、本当に渡すつもりはない。財布を渡してしまうと、明日から生活ができなくなる。
彼らが手慣れているのは、あくまで強盗の手筋だ。一応獲物の抵抗を考慮しているとはいえ、自分達の能力を超えた者と戦ったことはないのだろう。
滲む気配の荒みに似合わず、杖を構える姿はどこもかしこも隙だらけだ。注意すべきは魔法だけで、それは使わせなければいいだけのことだった。

まず、取り出した財布を男の顔面に投げ付ける。バリアジャケットを纏っていない相手なら、意識を奪うまでではいかなくとも怯ませることができるだろう。
間を置かず後ろに跳んでもう一人を気絶させ、戻って前方の男を片付ければいい。経験上、五秒もかからない作業だった。
キャロにもほとんど危険はない。

(キャロの前で暴力を振るいたくはないが、仕方ない)

言葉で退かせることのできる相手ではなかった。
それに光太郎の疾駆は、キャロの知覚が及ぶような速度ではないのだ。何もわからないまま、男達が地に伏すのを見ることになるだろう。
決意を固め、光太郎が行動しようとした、その時だった。

「キュアッ!」

怯える主人を守るためか。
光太郎の思惑など知る由もないフリードがキャロの胸元を飛び出し、前方の男の腕に噛みついた。小さな牙が皮膚を突き破り、血の滴を地面に落とす。
手から離れた杖が、乾いた音を立てて転がった。

「何だこいつは!?」

悲鳴を上げ、男は腕を振り回した。
所詮は子竜の力。動きに耐え切れず、宙に放り出されたフリードが壁面に叩きつけられる。

「フリード!」
「動くな、ガキ!」

駆け寄ろうとしたキャロに、後ろの男が杖の先端を向けた。やはり獲物の抵抗を受けたのは初めてらしく、喚き声に平静は感じられない。

「キャロ、危ない!」

キャロの小さな体を引き寄せ、胸に抱く。直後、光太郎の背中を灼熱が襲った。
歯を食いしばり、苦鳴を噛み殺す。ジャケットの繊維と肉が焦げる匂いが鼻を突いた。

「光太郎さん!」

背中は見えなくとも、光と匂いで何が起きたのかを悟ったのだろう。見上げてくるキャロの顔は、恐怖で塗り潰されていた。
これは、まずい。光太郎の頬を冷や汗が伝う。
痛みのせいではなかった。最悪の事態が脳裏を過る。
前方では腕から血を流した男が、拾い上げた杖を二人に向けていた。怒りと殺意が、混じり合って全身から放出されている。

「てめぇら、妙な真似しやがって……ぶち殺してやる」

殺す。
その言葉で、キャロの肩が大きく跳ねた。限界まで見開かれた眼に、みるみる涙が溜まっていく。

「いやぁ……いやぁ……いやぁ……」
「キャロ、大丈夫だ。キャロ!」

うわ言のように呟き、首を振り乱すキャロに、必死の声は届いてはいないようだった。
光太郎の胸に焦燥が募る。最悪の事態が脳裏を抜け出し、現実にてその猛威を振るおうとしていた。

「お前ら、何ごちゃごちゃと―――」

言い掛けた言葉ごと、男達は不可視の力に吹き飛ばされた。同時に、キャロを抱きかかえていた光太郎も宙を舞う。

「くっ」

体勢を整え、両の足で地に降り立つ。遅れて男達が、先ほどフリードにした罰のように、前にいた者は前の、後ろにいた者は後ろの壁面に叩きつけられた。

「あああああああああああああっ!!」

迸る絶叫は、矩形の空間の中央に立つキャロが発しているものだった。目に正気の光はなく、ピンク色の髪がワンピースの裾が、突風に煽られているかのように激しく棚引いている。
統一されず形の取れない魔力が、嵐のように荒れ狂っていた。

「暴走か……っ」

見据えながら、光太郎は苦々しく呟いた。
キャロに眠る力は、たしかに極めて強い。だがそれを扱う彼女自身は甚だ未熟で、激情に駆られた時、その力に飲み込まれてしまう。
最近は無人の廃棄都市で行う訓練の積み重ねにより、滅多に起こらなくなっていたが―――

「キュゥオアアアアアアァ!!」

絶叫に咆哮が重なった。視線を移すと、気を失っていたフリードが、両の翼を猛々しく広げていた。
小さな体が燐光を纏う。キャロの髪の色と同じ、ピンクの光。
主の暴走に、呼応しているのだ。

「駄目だ! キャロ、フリード!」

光太郎の制止の声は、光の爆発に飲み込まれた。全身に襲いかかる凄まじい圧力を、両足に力を込めて耐える。
光が消え、夜闇が戻った時、そこには巨大な竜がいた。その体色から白銀の飛竜とも呼称され、物語に登場するワイバーンを思わせる、フリードの真の姿だった。
空間の半分を占める巨体を器用に動かし、キャロの傍に寄ったフリードは、ワンピースの背を咥えて少女を広い背中に乗せた。

「うわああああっ!」

恐怖に駆られた男が、杖を放り出して路地に向かう。だが、それより速く風を切り、男の胴を打ち据えたものがあった。
大樹が如き、フリードの尾だ。

「ぐあっ!」

口から吐瀉物を撒き散らしながら、人形のように軽々と飛んだ男は、今まさに逃げようとしていたもう一人の背に激突した。絡み合って転がり、どちらの逃亡も阻止される。
フリードの怒りに満ちた視線が、呻く男達を射抜く。生かしておくつもりがないことは、容易に知れた。

「やめるんだ、フリード」

だが、南光太郎はそれを許さない。怒り狂う竜の前に、真っ向から立ちはだかる。

「おぉ、お前何で」
「あの子の手を、血で汚させないためだ」

間接的であれ、人の血は手に粘り付いて離れない。心優しい少女の手の白を、おぞましい赤で塗り潰してなるものか。
フリードの牙の隙間から、唸り声が漏れて辺りを流れる。標的を、光太郎に変えたのだ。
怒りに曇った目では、個人の判断も覚束ないのだろう。
ならば、言葉では止めることはできない。

(許せ、フリード)

内心のみで呟き、光太郎は上着を脱ぎ、矩形の空間の端に投げた。ついでシャツがその上に重なり、上半身が露わとなる。
突然の脱衣を怪訝そうに見ていた男達は、彼の身に眠る秘密を目の当たりにすることになった。

両目が、複眼状に拡大される。色は、黒から赤に変わっていた。
額の皮膚が破れ、二本の触覚が伸びる。
半開きの口からは、鋸のような歯が覗いた。
全身に血管が浮かび、そこから色素が染み出しているかのように、肌が緑色に変色してゆく。
光太郎の肉体を構成している細胞が、その配列を変えているのだ。
すなわち―――人間から、飛蝗へ。
悪夢のような光景に、背後の男達の心拍数が急速に上昇していくのが感じられた。

「ひっ、ひぃいいいいいっ!」

恐怖の悲鳴に彩られ、光太郎の変身が終わる。
頭骨の形状そのものが変わり、複眼もより巨大になっていた。口は、もはや人のものの原型を留めてはいない。
飛蝗の頭部、そのものだった。
残ったズボンと靴が脱ぎ捨てられる。全身は緑色の装甲で隈なく覆われ、脇腹には折り畳まれた節足までが備わっていた。
人と飛蝗の、忌わしきハイブリット。
魔法が存在する世界の住人にさえ恐怖される、光太郎の真の姿だった。

複眼の多重視界全てにフリードが映る。白銀の巨体が纏うオーラが、猛々しい生命の証として燃え盛った。

――――殺せ。

変身によって目覚めた光太郎の中の獣が囁く。外見の変形に伴い、薄まった人としての理性に、牙を爪を立てた。

(黙れ。引っこんでいろ)

内心に浮かべた一言で、獣を捻じ伏せる。目前の相手がゴルゴムの改造人間ならば、喜んで従ってやっただろう。
だがフリードは、キャロは家族だった。家族を引き裂くのは、一度きりで十分だ。
ふと、背後の男達が気絶していることに気付いた。丁度いい。
下手に逃げたところをフリードが追って、大通りで立ち回りをさせられずに済んだ。

「オオオオオオッ!」

目の前の存在が自分を超える怪物であると感じたか、フリードが咆哮を上げた。
巨体を旋回させ、太い尾を鞭のようにしならせる。先ほど男にしたよりも遥かに強い一撃が、壁面を削りながら光太郎に迫った。

轟音。大気が弾け、発生した風に触覚が揺れる。
ただ、それだけだった。
本体は、両足を開き、胴に受けた尾の衝撃に倒れないよう丹田に力を込めた姿勢で微動だにしない。
光太郎はその場から、一歩たりとも退いてはいなかった。

「無駄だ、フリード。知っているだろう?」

廃棄都市での特訓。暴れるフリードを止めていたのは、他の誰でもない光太郎だった。
加えて、場所が彼の味方をしていた。屹立する四つのビルに囲まれた空間は、それなりに広いとはいえ翼長約十メートルにも及ぶ翼を広げるには狭過ぎる。
飛竜であるフリードの真価を、ここで発揮することはできない。
それら全てを踏まえて、光太郎は無駄と断じたのだ。

だが、フリードもまた背水の陣で戦っていた。
自分が倒れれば、次は主が襲われる。彼の中でその図式が出来上がっている以上、実力の差などという瑣末な問題で牙剥くことを止められはしない。

フリードの顎が開く。洞穴のような喉奥から、赤々とした炎の塊が撃ち出された。
背後の男二人をも包み込んで余りある火球が、飛蝗型の改造人間に直撃する。
爆音が、幾重にも反響しながら夜天に駆け上った。闇が焼き払われ、代わって真紅が空間を支配する。
轟と燃え立つ火柱に、勝利を確信したフリードが勝鬨を上げようとした。
だがそれを制止する、強い響きを持つ声がある。

「それも、俺には効かない」

炎の中から、黒い影が滲み出る。鎧を漆黒に染めた、南光太郎の異形だった。
彼は本来、飛蝗男と呼称される筈の改造人間だ。
それが、次世代のゴルゴム首領として他の改造人間と分けられるのは、体内に埋め込まれた賢者の石故だった。
この石が持つ超作用により、光太郎は緑から黒に変わる。身体能力は倍以上に引き上げられ、本来持ちえない筈の超能力の駆使が可能となる。
フリードの火球を防いだのもそれだった。額にある第三の目から、千分の一に弱めた超破壊エネルギーを障壁として放ったのだ。
背後の二人はおろか、光太郎にさえ届いてはいない。

地面にへばり付く火球の残滓を照り返し………漆黒の鎧が、まるで黒い太陽のように輝く。
びゅう、びゅうとビルの谷間から風が吹き込み、炎を全て浚って行き過ぎた。代わって闇が舞い降りて、それで全て元通りだった。
フリードが狼狽する気配が伝わってくる。必殺の、必殺でなければならなかった筈の火球が及ばなかったのだ。

決着をつける頃合いだった。
最前から、光太郎はこちらに近づく多数の気配があることを感じていた。おそらく、通報を受けて出動した陸士の部隊だろう。
到着までには、ここから逃げ出さなければならない。もちろん、キャロとフリードを連れて、だ。

「クォオオオオン……!」

フリードが吠える。しかしそれは先程のように威に満ちたものではなく、明らかなる怯えの産物だった。
ならば、次に来るのは破れかぶれの一撃以外にはない。
再び顎が開かれる。効かない火炎を連ねるのかと思いきや、フリードは長い首を伸ばして光太郎に迫った。
頭を噛み砕くつもりなのだろう。楕円を描くように並ぶ鉄杭のような牙なら、それはたしかにできるかも知れない。
だが、所詮は恐れが生んだ後先を考えない一撃。
飛蝗を人間大に拡大した超絶的な身体能力と、人間としての理性に基づく英知を併せ持つ光太郎に、届く道理はない。

フリードの顎が閉じる。だが、そこに光太郎はいなかった。
齧りとった虚空に戸惑いながら、フリードは消えた敵を探した。だが、逃れる場所など一つしかないことに気付き、上空を見上げようとした時には、何もかもが遅かった。

漆黒の流星が、二条の赤い光を引きながら降ってくる。
真紅の瞳を輝かせ、南光太郎が降ってくる。左足が内側に折れ、右足が伸び、それは飛び蹴りの体。

「眠れ、フリード!」

大気の壁を突き破り、天空からの蹴撃が翼竜の頭部にぶち当たる。
衝突の勢いのままフリードは下顎を地に沈め、小さく呻き声を上げて気を失った。幾分か手心を加えていなければ、彼の頭は肉片と化していただろう。
連動して、キャロの身体からも力が抜け、広い背の上に倒れた。フリードの体が、先程と同じように発光する。
光太郎は腕を伸ばし、気を失ったキャロを、鉤爪で傷つけないように注意して抱き寄せた。

次いで脱ぎ捨てた衣服を回収すると、それで光太郎とキャロがこの場所にいたという証拠はなくなった。唯一の懸念は、未だにのびている物盗りの二人組だが………わざわざ叩き起こして口封じをしている時間はない。
それにきっと、その必要もないだろう。

腕に家族を抱え、光太郎は跳躍した。ビルを軽々と飛び越え、夜空を舞う。
大都市の薄い闇に、闇よりもなお黒き鎧は、かえって浮き上がって見えた。


高町なのはが現場上空に到着したのは、担当の陸士部隊が現場検証を行っている時だった。
四つのビルに囲まれた矩形の空間を、茶色の制服を纏った陸士達が忙しく行き交っている。
下降し、地に降り立ったなのはは、一人の男性隊員に声を掛けた。

「機動六課の高町一等空尉です。不可解な魔力反応があったとの報告ですが……」

話を聞くと、それほど大した事件ではなかった。
以前から被害届けが出ていた軽傷の違法魔導師二人と、高熱で溶け崩れた杖型のデバイス。発見されたのはそれだけで、仲違いの末の共倒れといったところだろう。
他に怪我人もなく、地面のところどころに火炎魔法を使ったと思わしき焦げ跡があったが、延焼はしていない。
一日に少なくて五件は起こる、平凡な事件だ。
不可解と聞いてレリックが関係しているのかと思い、なのは自ら調査に赴いたが、どうやら勘違いのようだった。

「しかし、どうも妙な点があるんです」
「妙な点?」
「はい。観測された魔力の反応はAランクを超えていたのですが、違法魔導師二名はどちらもDランク。どうやったって、Bランクにさえ届きません。それに……」

こちらへ、といって男性隊員が案内したのは、捕らえた違法魔導師二名の前だった。バインドにより自由を奪われており、そうでなくともエースオブエースの敵ではない。
しかし、なのははひっと息を呑んだ。首筋を冷たい汗が伝う。

男の一人は、ひどく怯えていた。
顔は死人のように青く、眼は血走り、全身の震えは絶え間ない。気味の悪いうわ言を、涎と共に垂れ流していた。

「あああれは……何、何だあの……虫虫虫虫……」

もう一人の男はずっと押し黙っているが、時折、耐えきれない恐怖の噴火のように叫ぶ。

「あいつを殺せぇ! あんな悪魔、この世に生かしておくなぁっ!」

泣き、喚き、叫び、狂気が飛び交う。
嫌悪に込み上げる吐き気を抑え、なのはは顔を背けた。人間としての、それは正常な反応だったろう。
直視し続けていると、自分の精神までが侵されてしまいそうだった。
顔を顰めた男性隊員が横合いから詳細を伝えてくる。

「薬物や酒類は検出されず、幻影魔法か何かの効果と推測されますが、実のところは不明です。これから医療センターに運び、精神的治療を施す予定ですが、効果はあまり期待できません」
「そうですか……ご協力、ありがとうございました」

レリックが関わっていないのなら、長居する理由はない。何より、これ以上この場所に居たくなかった。
はやてに事の次第を報告し、それで今日の仕事を終わらせよう。
再び夜空に舞い上がろうとした、その時だった。視界の端で、緑色の小さな何かが跳ねる。

「………バッタ?」

暗闇に目を凝らすと、それは確かに飛蝗だった。クラナガンのような都会では、滅多に見られない生き物だ。
それが何故、こんな所に?
なのはの疑問に答える筈もなく、飛蝗は二度三度あちこちに跳ねると、背中の羽を広げ、何処かへ飛び去ってしまった。

 

アパートの部屋に到着した光太郎は、電灯さえ点けずに寝室に向かった。
一歩一歩進むにつれ、変身が解け、飛蝗から元の人間の姿に戻っていく。衣服を着るのももどかしいと居間に放り、寝室の扉を蹴り開ける。

眠るキャロとフリードをベッドに寝かせ、自分はその傍らに座り込んだ。そこで初めて、光太郎の全身から力が抜けた。
反動としてか、どっと疲労が押し寄せてくる。久方ぶりの変身と戦闘は、強靭な肉体にも少しばかりこたえるものがあった。

――――いつまで、この生活を続けられるのか。

加えて、そんな不安が光太郎に重く圧し掛かる。
先程の暴走はどうにかあの矩形の空間の中で治まったが、一歩間違えれば大騒ぎになっていた。
前に比べれば頻度は確実に減ったとはいえ、完全になくなった訳ではない。
時折廃棄都市で行う訓練は、力の使い方をある程度までは教えることができる。だが、本来魔法に関して門外漢である光太郎では、いつか必ず限界がくるだろう。

今日のような、危険な場所には近づかないようにするか。
それは当然のことだ。しかし最近出没するようになったガジェットを思えば、真に安全な場所など存在しない。
キャロに、部屋から絶対に出るなとでも?
馬鹿げている。
薄闇の中で、光太郎は大きく息を吐いた。
キャロもフリードも、よく眠っている。不安など、微塵も感じていない安らかな寝顔だ。
それを守るために、自分は何をすべきなのか。

一つの答えは出ていた。
力の使い方を、正式な魔導師の下で学ばせる。
つまり、時空管理局にキャロの保護を申し入れるのだ。
追われる身とはいえ、管理局は懐が広い。キャロ程の資質があれば、快く受け入れてもらえるだろう。
ともすれば、同い年の友人だってできるかもしれない。

彼女の将来を考えるのなら、その方が良いに決まっていた。こんな、何時人でない身と知られ、石もて追われるかわからない男と居るべきではない。
そう思っていてなお、光太郎がそれをしなかったのは――――キャロが傍からいなくなることに、彼自身が耐えられないからだ。

居場所のないキャロを庇護することで、この世界での居場所を確立する。
その上、彼女は自分と同じ傷と不安を抱えていた。同じ苦痛を共有することで、負担を少しでも和らげることができる。
だが、キャロが自立すれば、彼女にとって光太郎は不要となる。
だから、しなかった。吐き気がするようなエゴだ。

(………ああ、わかってるさ。全部、俺の自分勝手だ)

光太郎は両手で顔を覆った。自覚していて、それでもやめられないところに罪深さがある。
月明かりさえ差し込まない闇の中に、キャロの笑顔が浮かんだ。その幻影さえも明るくて、純粋で、愛おしく、そして苦しかった。

ほんの少し前までは、自分を想ってくれた女性さえ突き放すことができたのに、何故今また心を殺せない?
また独り、自分と周囲の全てに怯える生活に戻るのを恐れているのか?
何時から、こんなに弱くなってしまったのだろう。

「………コウタロウさん」

小さな声に、光太郎はびくりと震えた。
耳をくすぐる寝息は、最前と全く変わらない。瞼も下りていることから、キャロは未だに夢の中だろう。
ただの寝言――――

「……捨てないで……ずっと、一緒に……」

じわりと、視界が歪む。ベッドの端から垂れた小さな手を握り、光太郎は泣いた。
自分が改造されたと知った時も、義兄弟と戦う宿命を負った時も流れなかった涙が、眼尻から流れて止まらない。

「それも、俺のセリフなんだよ、キャロ」

嗚咽を漏らし、震える光太郎は、魔王でも英雄でもなく、ただの人間だった。

 

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最終更新:2008年11月14日 18:42