「南光太郎の追跡」


(…………おかしい)

南光太郎は、眉間に皺を寄せて思い悩んでいた。
ここ数日、キャロの様子が妙に余所余所しいのだ。
瞳を合わせようとせず、会話も少ない気がする。何か気に障ることでもしたのだろうかと記憶の海に潜ってみたが、何も得られずに終わった。
もしかしたら、記憶にも残らないような些細なことなのかも知れない。
そこで光太郎は朝食後、仕事に出かける前に思い切ってキャロに聞き訪ねてみた。

「なあキャロ。何か俺に、隠し事をしていないか?」

特に何かが無くなったという訳でもなく、昔おねしょをした時だって、キャロは顔を真赤にしながらも白状したのだ。疑う余地などなかったが、何かの糸口になるかも知れない。
そう思っての問いだったが。

「なななな何もありませんよ!?」

ある。絶対にある。
首を高速で横に振り、裏返った声で否定されても、それは肯定と同じだった。しかし、内容まではさすがに分からない。
南光太郎は改造人間である―――が、さすがに読心術までは使えなかった。

素直なキャロが、ここまで必死に隠さなければならないこと。とは、おそらく性別に関わることだろう。
キャロももう十歳。同じ女性には言えても、男には言えないという事柄も多々ある筈だ。
一つの可能性として、光太郎は思い付きを口にした。

「………キャロ、もしかして赤飯を炊く必要があがあああっ!」

後頭部をフリードにがぶりと噛まれ、光太郎は床を転げ回った。その傍らを、顔中をトマトのようにしたキャロが容赦ない罵倒を残して寝室に駆け込んでいく。

「コウタロウさんのバカ! えっち! もう知らないっ!」


「………反省してます。いくらなんでもデリカシーが無かったなって」
「あたりまえだ馬鹿野郎」

タチバナ運輸の駐車場。
輪留めに腰掛けた光太郎の頭には、痛々しく包帯が巻かれていた。その横で、親父さんがぷかりと巻き煙草の煙を浮かせる。
白煙の輪が、雲一つ見当たらない青空に向かって、高く高く昇って行った。

「俺だってなぁ、娘にそれ聞くために何枚もオブラートに包んだんだ。それをお前直球じゃあ、キャロちゃんだって怒るさ」

地面に落とした煙草の火を靴底で踏み消しながら、親父さんが言った。体験から来る話は、妙に生々しい。
光太郎は重い溜息を吐いた。

「でも、心配なんです。もし変な病気とかで、俺に気を使って言い出せない内に手遅れになったら、って」
「コウタロウ………」
「もしそうだったら、俺は何でもやります。金が要るなら銀行を襲ったって、医者を脅したって、管理局を敵に回してもいい。あの子は、俺の全てだから」

訥々とした光太郎の語りに、嘘はない。
キャロには、できることならずっと好きでいてもらいたい。傍から居なくなってしまうなど、想像するだに恐ろしかった。
だがそれらを超えて光太郎を怯えさせるのは、キャロの死だ。あの笑顔を声を、永久に喪失することだ。
キャロが生きるためならば、全ての次元世界を滅ぼしたって構わない。ゴルゴムにおける新世界の魔王にだってなってやろう。
光太郎の世界は、キャロを中心に廻ってると言っても過言ではなかった。

強い想いは、親父さんにまで伝わったらしい。困ったように皺の刻まれた額を掻く。
親父さんから見れば、過去の無い男の、心の拠り所に対する執着といったところだろうか。それだけに、無下な言葉は吐けないようだった。
やがて、思い悩んだ末の冗談らしきものが口から出る。

「ま、そこまで心配なら、キャロちゃんのこと一日中見張ってるんだな。何かわかるんじゃねえか?」

光太郎ははっとして顔を上げた。神に攻めよとの天啓を受けた王者の面持だった。
親父さんが驚いて目を丸くするのにも構わず、薄い笑みを浮かべて呟く。

「………その手があったか」

次の日、光太郎はキャロには内緒で有給休暇を取った。


「それじゃあキャロ、行ってくるよ」

ジャケットを羽織りながら、光太郎は水道の流しで食器を片付けているキャロに声を掛けた。
家事は当番制で、朝はキャロ、夜は光太郎となっている。光太郎は一人でやると言ったのだが、お世話になってるから、という彼女の強い申し出により、今の制度に収まった。

「行ってらっしゃい。気をつけてくださいね」

三脚の椅子の上に乗った花柄エプロン姿のキャロが、頬に小さな泡をつけた微笑みを向けてくれた。これが、光太郎の何よりの馳走だった。
一日、仕事を頑張ろうと思う。もっとも、今日頑張るのは別のことだが。
それを胸の奥に押し隠し、笑顔を返そうとした光太郎は、奇妙なことに気づいた。

キャロの向こう、台所の壁に画鋲で留められたカレンダーの今日の日付に、赤丸がつけられている。
今日は特に予定がある訳ではない。最寄のスーパーのバーゲンセールかと思ったが、記憶によるとそれは明後日だ。
そもそも光太郎は、そんなところに赤丸をつけた覚えはない。

「キャロ、今日は何かあったっけ?」
「えっ?」

虚を突かれたキャロの手から、泡まみれの皿が滑り落ちた。流しの中の食器とぶつかって騒々しく音を立てる。
どうやら、何かの引っ掛かりを掠めたようだった。明らかに動揺している。

「キャロ?」
「何もないですよ!?何もないですったら!!」
「でも赤丸……」
「キュクルー!!」

突けば出るものがあるのは間違いない。しかし一人と一匹がかりで何もないと押し切られてしまっては、数の上で不利な光太郎は退き下がる他なかった。
とはいえ、これは戦略的撤退だ。
無理に攻めて警戒を強めるよりも、一度退いて油断させ、そこを突いた方が良い。きっと孫子もそう言っている。

追及したい気持ちを抑え、光太郎は外に出た。
後ろ手に扉を閉めると同時に、光太郎は一跳びでアパートの屋根に上った。
このアパートは屋根が平らになっているため、中央に座すれば下から姿を見られる心配はなかった。通報されると厄介な身分、万事に気を張って挑まねばならない。
屋根の上に胡坐を掻き、光太郎は首を捻った。
青空を流れる綿雲が、「何だこいつは」とでも言いたそうに彼の頭上を行き過ぎていく。

(キャロの隠し事は、あの赤丸と繋がっているは間違いない。普通に考えると、今日何かあるということだが……)

皆目見当のつかない光太郎だった。
昨日に引き続き、記憶の海に船を漕ぎ出してみるが、何一つ浮かんではこない。勘が鈍いだけ、では断じてなかった。
キャロの誕生日、キャロと出会った日、キャロがピーマンを食べれるようになった日……キャロが関わる出来事を、光太郎が忘れる筈がないのだ。
とは、やはり光太郎には関わりのない、キャロにのみ大切な日なのだろう。視野を広げる必要があった。

(待てよ。これは、あの時と同じじゃないか?)

はたと気づき、光太郎は意識を過去へ過去へと飛ばした。
まだ、世に蠢く邪悪など知らず、平和な日々を享受していた頃。
信彦があゆみとデートをする日は、必ずカレンダーに赤丸で書き込まれていた。それに当て嵌めてみると………まさか、キャロに好きな人ができたのか?
まさかとも思うが、光太郎もキャロの一日の動きを全て把握している訳ではない。可能性は十分に在り得るのだ。

知らず眉間に皺が寄り、毛穴から汗が滲む。
いくら天気が良いとはいえ、太陽よ、暑すぎる。青空に向けて怒鳴り声の一つでも放ってやりたい光太郎だったが、汗ばむほどの身の暑さは、全て彼自身から生まれたものだった。
熱源は、不安と恐怖、だった。

「いつか、こんな日が来るとは思ってたが」

口の中で呟く。早過ぎるだろう、さすがに。
光太郎の中で、キャロに恋人が出来たという推測は、既に正解として動かなかった。
たしかに、それなら恥ずかしくて光太郎には言い難い。必死に隠そうともするだろう。
わざわざカレンダーにデートの日をチェックしても、何ら不思議ではない。
欠けていたパズルのピースが、次々と嵌まっていく。その度に光太郎はひどい酩酊感に襲われ、何時しか仰向けになって倒れていた。

認めたくない。だが、認めなくてはならない。
相反する感情が、胸の内で静かにせめぎ合う。好きになるとは、心を相手に差し出すことだ。それはつまり、光太郎への依存度の薄まりを意味する。
嫁に行く娘を見送る父親、もしくは古くなり新製品と入れ替わりに捨てられる家電製品は、きっとこんな心境なのだろう

呟きのとおり、いつかこんな日が来るとは予想していた。来なければいいのに、とも。
だが、キャロは女の子だ。異性への興味が、恋という形で発現するのは避けられない。
白く輝く太陽が、まるで光太郎に腹を括れと言っているかのようだった。

「忘れ物ないよね、フリード」
「キュー」

下方からのキャロの声に、光太郎は鬱々とした思考から抜け出した。屋根の端に寄り、こっそりと頭を出す。
キャロがフリードを伴って玄関から出て来る。教えた通りに鍵を締めるのを見て、錠が落ちる音と共に光太郎は数度頷いた。
やはりキャロはいい子だ。そこではたと思い当たり、階段の下に消えてゆく背中を目で追った。

(……まさかデートか? デートの時間なのか?)

何となく足取りが弾んでいた気がする。ちらりと見えた顔は、何かにこやかではなかったか?
疑念は瞬く間に成長し、確信として実を結ぶ。自由恋愛は結構。だが、保護者としては、その相手を知っておく義務がある。
こんな所に座っていることなどできなかった。ふわりと跳躍し、羽毛のように音もなく地に降り立つ。一階の住人が驚いて腰を抜かした。

「どこの誰だか知らないが、そう簡単にいくと思うなよ」

自身、訳のわからない言葉を呟き、光太郎は駆け出した。原動力の大半が妄想であるとも気付かずに。


クラナガンの中心ともいえる地上本部から少し離れると、彼方のビル群を背景に広がる下町がある。
八百屋あり、魚屋あり、その他雑多な商店あり。地球、それも日本と文化様式を同じくした地域だ。
日が落ちかけ夕日が差したならば、遠い日信彦と肩を並べて歩いた商店街そのままになる。

帰りたいわけではない。
帰ったところで、一体何が待っているというのか。故郷はすでに、流し流された血で穢れている。
だが、ここは違う。世界の違いではない。
違うのはないことだ。光太郎に故郷を感じさせながら、それでいて嫌な思い出がない。
あるのは、キャロと過ごした穏やかな日々だけ。だから、光太郎はここが好きだった。
それに―――高い建物が少ないため、尾行がしやすい。

「やあキャロちゃん。今日は一人かい?」
「はい。コウタロウさんはお仕事ですから」
「キュクルー」

魚屋の店長とキャロが、にこやかに談笑している。その向かい側の建物の影に、光太郎は潜んでいた。
伊達に中国奥地の秘境で仙人に師事したわけではなく、ちょうど昼時で道行く人の数が少ないこともあったが、誰一人その存在に気がつかない。

(魚屋さん……違うな、いくらなんでも)

そう判断するだけの思考能力は残っている。光太郎はゆるゆると首を振った。
第一、彼には連れ添って三十年の奥さんがいる。子供は十八歳の娘が一人。
色々と複雑な時期だから、父親として頑張ってほしい。

「おっそうだ。ちょうどキャロちゃんが探してたやつ仕入れたんだよ」
「本当ですか!?」

キャロの様子が一変する。強い喜びの感情が伝わってきた。
ならば、悪いことではないのだろう。だが、キャロは何を探していた?
魚屋に依頼したということは、当然魚なのだろうが………わざわざ探してもらうほどの品とは?
残念ながら、ここからではキャロに遮られて見えない。

(彼へのプレゼントにしては……いささか奇抜過ぎるな)

謎を解き明かしに来たというのに、また一つ謎が増えてしまった。
どうやら自分に探偵の才能は無いらしい。あるとすれば、とびきり悪質なストーカーの才能だろう。

そんなことを考えながら、光太郎は八百屋の壁面を駆け上った。キャロとフリードが、魚屋から離れたのだ。
一階建の建物なら、灰色のざらざらとした壁に一度足を突き立てるだけで屋根に上がれる。
姿勢を低くし、光太郎は人々の視線を避けて建物から建物へと移動した。
並行して、意識を集中し、商店街の賑やかさに紛れるキャロの声を拾い上げる。
道行く人々の赤、青、金の髪がパレットの上の絵の具のように混在する中でも、少女の明るいピンク色の髪は目立って見えた。

「えーっと、次は乾物屋さんだよね、フリード」
「キュウ!」

キャロが尋ね、肩のフリードが答える。
その図はとても微笑ましいが―――乾物屋?
光太郎は首を傾げた。普段はあまり利用しない店だ。
茶、スルメ、ジャーキー等、思いつく物はどれも今要り様ではない。プレゼントにするとも思えなかった。

(いや待てよ、彼氏に料理を振る舞うということも……ん?)

光太郎は眼を細めた。先ほどから、キャロの背をさりげなく、そして執拗に追う男がいる。
鏡に映った自身ではない。赤や黄の明るい柄のYシャツを着て、軽薄さを前面に押し出した茶髪の男だ。

昨日新聞に載っていたニュースを思い出す。この付近に、幼気な少女を甘言を吐いて騙し、攫おうとする輩が出没すると。
立ち振る舞い、口元に張り付いた薄ら笑いを見ると、どうやら犯人はこの男のようだった。
まだ世慣れないキャロは、絶好のカモだろう。
………その無駄に鋭い鼻ごと叩き潰してやる。
拳を握り固め、光太郎は屋根から路地に飛び降りた。

野暮ったい娘だな。騙しやすそうだ。
男はそんな軽い気持ちで、キャロの背中に声を掛けようとした。

「ねえそこの」

最後までは言えなかった。恐ろしく強い力に、男は背後の路地に引き摺り込まれた。
埃っぽくて薄暗い路地の地面に、ゴミ袋でも扱うような雑さで放り投げられる。背中を打ち、苦鳴を漏らしながら立ち上がろうとしたが、その必要はなかった。
電光の速さで伸びた腕が、男の胸倉を掴み強引に立たせたからだ。連続する暴力に眩む目と薄闇が重なり、腕の先の本体は判然としない。
ただ、それが男性であり、その瞳が今まで見たことのない殺気を湛えていることだけは理解できた。心臓が未だに脈打っていることが信じられない。

「地獄の鬼に攫われたくないなら、相手を選ぶんだな」

直後に顎を凄まじい衝撃が襲い、男は呆気なく意識を手放した。

光太郎は男を手近なゴミ箱に放り込むと、穢れを落とすように手を払った。これで懲りてくれることを祈ろう。
普段ならこの倍は叩きのめして陸士に突き出すところだが、今は他に優先すべきことがある。何事もなかったかのような顔で、光太郎はそっと路地から出た。

しかし、やはり彼に探偵の才能はないようだった。
肝心のキャロが消えてしまっていたのだ。左右を見渡し目を凝らし、それでもピンク色の髪は発見できなかった。
何か他のトラブルに巻き込まれたか、それとも早々と彼氏に出会ったのか。二種類の焦燥が、混じり合って胸の内から光太郎を焼いた。
もはや隠れながらなどと悠長なことをしてはいられない。脇目も振らず、光太郎は駆け出した。
当面の行先だった乾物屋の中を覗いたが、何処にもいない。道中出くわさなかったということは、既に用事を済ませて先に進んでしまったのだろう。

「あのー……どうかしたんですか?」

道の真ん中で右往左往していた光太郎は振り返った。声の主は、青い短髪の少女だった。
年齢は、十代半ば。タンクトップとホットパンツに包んだ肢体は、若く溌剌とした精気を放っていた。
どうやら何らかの鍛えがあるらしく、纏った筋肉は薄くしなやかで、例えば格闘技をしていれば手強い相手と思われたが―――今の光太郎には心底からどうでも良かった。

「家族とはぐれてしまったんだが……竜を連れたピンク色の髪の女の子を見なかったかい?」
「その子なら、たしか……向こうに行きましたよ」

少女が通りの先を指さす。具体的ではなかったが、今はそれに頼るしかない。

「あ、ホンダ豚の串団子が売ってるお店って知ってます?」
「それなら、あそこを右に曲がった先にあるよ。看板があるからすぐにわかると思う」

身振り手振りでそう教えると、光太郎は矢のようにその場から離れた。

「……変な人だなあ」
「スバル、場所わかった?」
「あ、ティア! あっちだって、行こ!」


見開いた眼で周囲を睨みつけながら駆ける光太郎は、道行く人には怪訝なものに映っただろう。
慄いた子供が泣く声、様々な感情が込められた視線を、皮膚の上で感じる。だがそれら全てを、彼は微風と受け流して進んだ。
正直なところ、キャロと誰かしらの会合に立ち会ってどうするのか、光太郎自身わからないままだった。

今の光太郎は、まるで操り人形だった。どこからか伸びる糸に手足を動かされる、操り人形。
抗うつもりはなかった。今さら抗ったところで、得るものが何もないとわかっている。
かといって今のまま何を得ようとしているのか、それはやはりわからなかった。

しばらく来たところで、光太郎は立ち止った。いつも来ている、スーパーマーケットの前だった。
ガラスの自動ドアが、唸るような音を立てて左右に開き、人の群れを吐きだす。その中に、光太郎はキャロとフリードを見つけた。
向こうはまだ気付いてはいない。当初の目的さえ失念し、光太郎は声を掛けようとした。

「キャ―――」
「不審者というのは貴様か?」

低く潰れた声に、光太郎は硬直した。今度は振り返らなかった。
後ろから肩に手を置かれる。節くれ立った、ごつい手だった。
思考が急速に冷えてゆく。手足を操っていた糸が緩んだ気がした。

「まさか、貴様が件の」
(人違いだ!)

叫びは肉声ではなかった。声だけでも、追う手掛かりを与えてはならない。
全身の強化筋肉に活を入れ、跳躍。買い物を終えた人々の頭上を飛び越し、スーパーの屋根に着地する。
陸士の男は、容疑者を見失ってしばし首を振っていたが、

「そこか! 待てっ!」

光太郎は一顧だにせず駆け出した。ざわめきが背中を追ってくる。
幸い顔は見られなかった。ほとぼりが冷めるまで逃げ回ればいい。
キャロに気付かれたらきっと大目玉だろうな、と光太郎は思った。

気付けば日は傾き、夜の帳が舞い降りんとしていた。道々に点在する街灯の光を浴びながら、光太郎は黙然と帰路についていた。
あの後陸士数十人を巻き込んだ大逃走劇にまで発展したが、どうにか逃げ切れた。その代わり、キャロの逢瀬を見届けることはできなかったが。

「何をやっているんだ、俺は」

本来キャロのために使うべき有給休暇を無駄に消費し、犯罪者のように付け回した挙句がこれだ。
月よ見ろ、この世一間抜けな男の姿を。儚い月明かりとともに、笑声の一つでも降らしてくれ。
光太郎は夜空を仰いだ。物言わぬ星達の向こうに、せめてキャロの笑顔でも透かし見たい。

(……結局は、俺が子供だった、ということだ)

キャロを独占してしまいたいという、子供のような我侭。今日一日、光太郎の手足を動かしていた繰り糸だ。
光太郎なら、できるかもしれない。黒き神、魔王と呼ばれた光太郎なら、それもできるかもしれなかった。
だが、それが何になる。
手折った花より野に咲く花の方が美しいし、籠の鳥より空を自由に舞う野鳥の方が優雅に決まっているのだ。
キャロが自身に眠る力への恐れを克服し、誰かと袖を触れ合わせようとするのなら、光太郎はそれを心から祝福しなければならない。

―――この胸に焼き付く痛みを押し隠しても。

「………着いてしまったか」

立ち止まり、光太郎は首を戻した。見慣れ住み慣れたアパートが、今は忌まわしき場所であるかのように深く息を吐く。
帰らないわけにはいかなかった。キャロが寂しがる。
まるで錆び付いた機械のようにぎこちない動きで光太郎は階段を上り、部屋に向かった。道すがら、キャロに何事も悟られないように表情を整える。一歩、二歩、三歩………刻む足取りは、ひたすらに重い。
やがて扉の前に着いた。
少しの逡巡。ノブを握り、捻る。

「……ただいま」
「おかえりなさい!」

蚊の鳴くような声でも、それほど広くはないアパートの一室には十分だ。すぐに軽い足音が近づいてくる。
さほど間を置かず、キャロがピンク色の髪を揺らしながら現れた。料理でもしていたのか、今朝と同じくエプロン姿だった。
花の様に可憐な少女。どう話を切り出したものか、光太郎は奥歯を噛んだ。
しかし、彼が言わんとする言葉を思いつく前に、小さな手がその腕を引く。

「キャロ?」
「来てください! きっとびっくりしますよ!」

声はやたら楽しげだった。引っ張られるまま靴を脱ぎ捨て、部屋の奥に進む。
途中、フリードが光太郎の頭に飛び乗った。何があるというのだろう。

「これです!」

居間に入り、キャロが食卓の上を指差した。そこにあるのは、一枚の大きな丸皿だった。
それに山と盛られている物は………

「おにぎり、か?」

食卓に寄り、一つを手に取る。
丸く握られた白米に、その表面を覆う海苔。中身はわからないが、たしかに握り飯だった。
日本ではごく有り触れた食べ物だが、ミッドチルダでは居酒屋やレストランのメニューにも載る、そこそこに珍しい品だった。
今日一日のキャロの不審にも説明がつく。握り飯の中身は魚類が標準で、海苔は乾物屋に売っている。
つまり、デートなどではなかったのだ。一から十まで、光太郎の愚かな妄想だった。
しかし、新たに解せないものが生まれる。何故今日なのか?

「コウタロウさん、今日が何の日かって聞きましたよね?」

尋ねようとした言葉が、キャロの確認に阻まれる。
光太郎は頷いた。答えは、やはりそこにあるようだった。
キャロは、しばらく迷うように目を瞑り、大分勿体をつけてから口を開く。

「今日は……コウタロウさんの誕生日なんです。ミッドチルダの暦の上では、ですけど」

一瞬、光太郎は呼吸を忘れた。胸がずきりと痛む。
光太郎にとって………誕生日とは、忌わしい日だった。無論、ずっと昔からそうだった訳ではない。
十九歳の誕生日、運命の日。南光太郎は人ではなくなった。
血の一滴さえも呪われた、醜悪な怪物となった。肉親に等しい親友と殺し合う宿命を負った。
光太郎にとって、誕生日はもはや祝うべき日ではない。記憶の海に留めておくことさえ嫌だった。
忘却して、当然の日。
その時、背中にほんのりとした温かみが生じた。白い手が腰に回される。

「前に、コウタロウさん言ってましたよね。俺の誕生日なんて、祝わなくていいって……」

キャロは、光太郎の思いを見透かしていたようだった。顔は見えないが、柔らかな声は彼に慈母の微笑みを連想させた。

「でも私とフリードにとって、コウタロウさんは大事な人だから……今日はその人が生まれた、大切な日だから……」

想いの強さは、そのまま腕の力のようだった。光太郎をして、腰回りにじんわりとした痛みを感じる。

「だから、コウタロウさんの故郷の料理でお祝いしようって……あの、迷惑でしたか?」

キャロの声に不安が混じる。答えは一つだった。
細い腕を外して、腰を落とし、キャロと視線を合わせる。今度は、光太郎が抱き締める番だった。

「迷惑な訳、ないだろう。………ありがとう、キャロ、フリード」

光太郎にとって、誕生日が忌まわしき日であった事実は、もはや変えようがない。きっと未来の今日を迎える度に、光太郎は苦しむだろう。
だが、そればかりではない。
新たに生まれた優しい思い出がその上にある。年を重ねるごとに、きっと増えていくだろう。
光太郎が、キャロと共にある限り。

「さあ、ご飯にしよう。せっかくキャロが作ってくれたんだからな」
「はい、たくさん食べてください!」

その夜、アパートの一室から、幸せな笑い声が絶えることはなかった。



ちなみにその後、良心の呵責に耐えかねた光太郎がキャロに今日一日の行動を打ち明けたところ―――しばらくの間、口をきいてもらえなかった。

「親父さん……こういう時はどうすれば」
「もう知らん」

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最終更新:2008年11月14日 18:46