明 翔

 ―忌み子よいつぞ生まれるか、竜の血に侵された人ならざる者よ―
宿屋の固いベッドに腰掛けながら、遠い昔話に引用される一説を見つけ、嘲笑が零れた。

 (ああ、そういえば…)
 丁度これくらいの頃だった。もう六年くらい前の話―――。

 あの頃、両眼は覆っていないのに、世界に色は迸らなかった。髪の色は黒く染まっていたが本当はどんな色をしていたのかは分からない。空の色が青だろうが黄昏だろうがどうだってよかった。家の屋根が何色だとか、カーテンの模様がどうだとか全く覚えていない。帰る家は仮初だったから。
 そんな仮初にいる意味がないことに気付いたのは、色もない真っ白な太陽を見つめた時、太陽の輪郭に僅かな色が灯っていると気づいた瞬間のこと。

 後腐れなんてなく、後ろ髪を引かれることもなかった。親が俺のことを愛してるだなんて浅はかな幻想と一緒に、全てを置いて家を出た。

 (これからどうすっかな…)

 行く宛もなく旅をしていてどれくらい経ったかも忘れてしまった。あんまり誉められた生活はしてなかったけど(…どんな生活かって?想像に任せるわ)、この生活に慣れだしたころのこと。
 何の変哲もない日だったのに、静寂を打ち切るように、ドクンと心臓が高鳴った。血管の中を血が蠢きまわる。不意に夜空を見上げた、満天の星空が
瞬いているのに月の姿はどこにも見えない新月の夜―――。

 (やべえ…ッ)

 どくどくと血か駆けずり、頭を侵していく――古の記憶が自分の意識を凌駕していく感覚。気の狂うような怒り、悲しみ、憎しみ…それに勝てないことは分かっていた。記憶が俺の名前を呼んで、いつものように意識を手放した。


 『大丈夫か?』

 そう呼ぶのは知らない声だった。目が覚めたとき、俺はどっかの森の地べたに横たわっていた。真っ暗な森に、僅かな光源があった。パチパチと火の爆ぜる音がする。火の影になって黒いシルエットで話しかけるそいつは焚火を囲い、ほんの少しだけ顔をこちらに向けて話した。
 ――それが、俺の名前も知らない『師匠』との出会いだった。


 『悪いが封印させてもらったぞ』
 『封印…?』
 『ああ、血継封印の呪いだ。右目は隠れるが我慢しろ。暴走するより随分いいだろ』

 俺は眼帯の下で疼く右目を抑えた。血管を駆けずり回っていた血潮がそこに凝縮され、鼓動を刻んでいるのが分かる。

 『お前さん、何したか覚えてるか?――って覚えてるはずないよな。まあ端折って話すとだな、近くの村からギルドに通報があった。竜哮が聞こえるってな。それで派遣されたのが俺ってわけだ。現場に向かうと意識を飛ばした半竜が一匹。暴走するお前を止めて、封印を施したってわけだ。』
師匠が腰をあげ、寝ころぶ俺の元に近寄る。
『まあ被害もなく、めでたしめでたし。』と言いながら、俺の頭を粗っぽく撫でた。

 『そういや、お前さんの名前は?』
 『ッ……―――』

 全てを置いて家を出た。唯一の繋がりだった、呼ばれなかった名前も。その名前はもう言えなかった。師匠は笑うと、『そうか』と言って、『うーん…んー…うぬー…』と唸りだし、数分後それが止んだと思うと、俺に向かって『ショウ』と呼んだ。

 『え?』
 『飛翔の翔だ』
 『………翔…』
 『なんだ、不服か?』
 『べつに…』

 『翔、行く宛はないんだろう?』師匠は言わずもがな分かっていた。『じゃあ当分俺についてこい。名を付けたんだ。一人前になるまで面倒みてやるさ』
 『…………』
 『不服か?』

 俺は何も言えなかった。その変わりに、
 『あんたの名前は』
 と、そう尋ねた。


 『名前なんてねーよ、お互い様さ、お前も俺のことを好きに呼べ』
 『じゃあ、“師匠”…?』
 『―――なんか一気に老けこんだ気分だな…』

 これが、俺と師匠の最初の出会いだった。

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最終更新:2011年07月21日 23:30