「ゴッドオブウォー 最後の奪還」


命の息吹なき荒野に、一陣の風が吹いた。
小石が転がり、砂塵が舞う。
音を発する物など無い荒野を、ほんの少し騒がして、風は何処へ行くのだろうか。
荒れ果てた大地は知らない。
雲垂れこめて灰色の空は知らない。
それはきっと、神のみぞ知ることであった。


命の息吹なき荒野を、一人の男が歩いていた。
小石を蹴転がし砂塵を裂き、男はただ歩を進めた。
声一つ発することは無く、靴音を除けば、静かなる荒野に溶け込もうとしているようにさえ見える。

異装の男であった。
年かさは、三十を超えるだろうか。
錆た色の籠手や具足、腰巻き、右腕の金色の装身具、そして腰の後ろに重ねた片刃の双剣以外、何の荷物も持ってはいない。
水場や草木、四つ足の見当たらぬ荒野を行くにしては、あまりに軽装だった。
足を動かしている以上、男は生者なのだろう。
しかしそれにしては、肌が死人のように白い。
雪ではなく雲ではなく、白骨を連想させる白。
頭に毛は無く、眼光鋭く、口は固く引き結ばれ、顎の先には黒々とした茂みがあった。
五体に無駄な脂肪は欠片も見当たらず、といって筋骨隆々という訳でもない。
まるで獅子や豹のような、しなやかな肉体である。
顔や左腕、左胸に踊る真紅の帯は、自分を鼓舞するための戦化粧か。


男が何処へ行くのか、それは神でさえ知らない。
神は、彼の手によって滅ぼされたのだから。
男の名はクレイトス。
かつて、スパルタの亡霊と恐れられ、畏れられた戦士だった。

オリュンポスの神々は、ギリシアの地から姿を消した。
オリュンポスの剣を握ったクレイトス、そして積年の恨みを晴らさんとするタイタン族の総力に、アテナやアレスといった主力を欠いた彼らに勝ち目はなかった。
主神ゼウスは、クレイトスの手によって討ち取られた。
アテナの危惧した父殺しは、楔に打ちつけられて揺るぎようのない宿命であったのかも知れない。
かつてゼウスが、父クロノスを追放したように。

オリュンポスを滅ぼし、自分を陥れた報いは受けさせた。
だが、クレイトスにとって、そんな勝利など何の価値もない。
塵芥も同然である。
妻と娘を殺した悪夢は、依然変わらずにクレイトスを苛む。
ゼウスへの復讐は、少しく気を紛らわせたが、根本的な解決にはならなかった。
全てを滅ぼした後には、ただ狂気だけが残った。

スパルタには、戻れない。
胸内から漏れ出した狂気が、いつしかスパルタさえ焼き尽くしてしまうような気がした。
妻を殺し子を殺し、その上に祖国の民の屍まで連ねては、まったく笑い話にもならない。
故に、クレイトスは荒野を歩く。
優しき死が、いつか救いをもたらすと信じて。

「………!」

クレイトスは足を止めた。爪先が砂利を撥ねる。
人の気配を感じたのだ。
例えクレイトスを狙った盗賊の類が百人いたとして、彼は歯牙にもかけない。
実力差に気づき尻尾を丸めて逃げるならそれでいい。
牙を剥かなければ、クレイトスには用のない生き物である。
逆に、得物を手に取り囲んでくるようならば、その時は大地が血肉で潤うことだろう。
だが、クレイトスの感じた気配は一つ。それも、毒矢を受けた鹿のように弱弱しい。
襲い掛かって来るどころか、動く様子さえなかった。
それでも気網を周囲に広げて油断することなく、クレイトスは気配の元に寄った。

(子供と……竜か)

異様な組み合わせを目にしたクレイトスである。
といって、眉一つ動くことはない。
ただ、桃色の髪をした童女と、小さな白い翼竜が、折り重なるようにして倒れていただけなのだ。
童女の纏う垢染みた民族衣装は、貼り付いた茶の砂埃も相乗して、クレイトスよりは荒野に似合う姿をしていた。
翼竜は、童女と同じく砂埃で霞んではいるが、白というより白銀に近い体色である。
合わせて売り飛ばせば、それなりの財にはなるだろうか。
しかし、金など今となってはくだらない。
少なくとも、五体が心が渇望する物では、決してなかった。

(……カリオペ)

瞼の閉じた少女に、クレイトスは娘の幻影を見た。
いつもなら瞼の裏に見る娘の幻影は、やはり血塗られていた。
クレイトスの手で刻んだ刀傷もそのままだった。
罪に塗れた身では、娘の居るエリュシオンに入ることは叶わない。
かつて、ペルセポネに迫られた選択。
娘と共に消えるか、二度と会えなくなるとしても、娘のために世界を救うか。
クレイトスが選んだ後者は、果たして正しかったのだあろうか。
娘を傍に置いての消滅こそが、自分にもたらされる最後の救いだったのではないか。
全ては、取り返すこと叶わぬ過去の彼方、である

(……カリオペ)

クレイトスは、再び胸中で娘の名を呼んだ。
幼いこと以外に、カリオペと名も知らぬ少女に似たところは一つもない。
それでも当て所ない父性は、彷徨って娘の代わりを求めるようであった。
だが、クレイトスにとって、娘は何にも換え難い至宝である。
代用物など、在ってはならない。
それを自ら汚してしまう気がして、耐えかねたクレイトスは少女から視線を外した。
この場から立ち去れば、後は荒野が全て片付けてくれる。
クレイトスは踵を返し、足早に少女から離れようとした。

一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。

六歩目を踏む前に、首を後ろに捻じ向ける。
何時の間にか、何処に隠れていたのか。
灰色の狼どもが五匹、少女を取り囲んでいた。
剥き出しの牙の間隙から涎が絶え間なく漏れ出し、鼻息も荒い。
食糧に乏しい荒野では、幼い子供や痩せた竜も馳走に見えるのだろう。

クレイトスは、それを咎めるつもりはない。
弱肉強食がスパルタ人の掟。
死して野に転がるは、自らの弱さ故なのだ。
これから少女と竜が狼に食われるのも、生きる術を知らなかった無知の報い。
助けてやる義理も義務もない。
狼の長い舌が、少女の頬を一舐めした。
味見、といったところだろうか。
悪食どもが、生意気なことをするものだ。
そして、好みに合ったかどうかは知らないが、狼が大きな口を開いた。
いよいよ、である。

一瞬、間を置いて、血飛沫が舞う。
狼の血だった。

―――――ギャ

短い、断末魔である。
狼の首が、ごとりと地に落ちた。
荒野が、久々の滋養と美味そうに血を吸い込む。
狼狽する狼どもの上を、血塗られて紅い毒蛇が行き過ぎた。
毒蛇の名は、ブレイズ・オブ・アテナ。
柄尻とクレイトスの腕とが鎖で結ばれた刃は、鞭が如く変幻自在の軌道を描き、戦斧に勝る重い斬撃を繰り出すのだ。
緩やかに弧を描いたブレイズ・オブ・アテナが、クレイトスの右腕に戻る。
クレイトスは軽く血振りをくれてやると、明らかな怯えを見せ始めた狼どもに向けて咆えた。

「失せろ! 獣が!」

声が、稲妻のように静寂を裂いて響き渡った。
そのクレイトスからしてが、血に飢えた野獣の面である。
狼はそもそも、好戦的な生物ではない。
勝ち目のない狩りは、仲間を全滅させる恐れがある。
事実一匹が、ただの一撃で首を落とされていた。
仲間全てを失う覚悟をし、それで得る物が子供と竜では、命の割が合わない。

―――――ウォン

鳴き声が示す所は、考えなくともわかった。
文字通り尻尾を丸め、狼どもは退散していった。
地平線の果てで、灰色の空に混じるかのようである。
荒野に、再び静寂が舞い降りた。

「……ふん」

クレイトスはブレイズ・オブ・アテナを腰の後ろに収めた。
戦いとさえ呼べない、つまらぬ殺である。
いやそもそも、何故少女を助けたのか。
見捨てると決めた思考に反し、腕が勝手に刃を放ったのだ。
クレイトスが損得を無視して助けるのは、妻と子と、そして極一部のスパルタ人のみの筈だった。
その他は、ただ利用するために生かし、終われば少しの逡巡も無く殺した。
クレイトスが恐れられたのは、その強さのみではない。
そこに怪物さえ悲鳴を上げるような、悪鬼が如き残虐性が加わってこそ、スパルタの亡霊は完成する。

それが、柄にもない人助け、である。
クレイトスは心身の不可思議に舌打ちすると、少女を肩に担ぎ、子竜を摘み上げた。


生木が弾ける音で、キャロは目を覚ました。
瞼を開くと、霞む視界の向こうに、忙しく揺れ動く赤があった。
顔に伝わる熱は、自分が炎であるという赤色のささやかな主張か。
顔だけ、ということは、炎に包まれている訳では無いらしい。

「ん……」

目を擦りつつ、キャロは身を起こした。
彼方から寄せる寒風を、傍から来る暖かな大気が相殺する。
冷と熱、二つの温度に挟まれながら、キャロは眠りに鈍った頭でこれまでを回想した。
ル・ルシエの里を追われて一週間。
荒野に迷い込み、持たされた食糧は尽き、フリードと共に死を待つばかりだった筈である。
それでも前に進んだ足は、決して生に向かうものではなく、ただ余力を削るだけの惰性だった。
それが今、こうして命を永らえている。
天の助け、だろうか。
下から聞こえる寝息に目を遣ると、フリードがこちらに腹を向けて転がっていた。

「フリード……」

とりあえず、相棒の無事を確認したキャロは、今度は周囲を見渡した。
後ろを見ると、薄い夜闇の中に草が青々と広がっている。
どうやら荒野を越えた所には、草原があったようである。
キャロが寝ていた場所は土が剥き出しであり、円を描くように綺麗さっぱりなのは、人工的に草を刈ったのだろう。
その中心で、焚き火が枯れ木を喰らって燃え上がる。
天と地が、細い白煙で繋がっていた。

「起きたか」

炎を突き抜けて、低い声がキャロの耳朶を震わせる。
声量は、決して大きなものではない。
しかし声ははっきりと辺りを回り、夜気に溶けてなお鼓膜にこびり付いた。
膝立ちになって焚き火の向こうを見ると、明らかに切り倒されたばかりの丸太の上に、禿頭の男が座していた。
口を固く引き結び、まるで石像のようだった。

「飲め」

男の太い腕が伸びる。
手には、白湯がなみなみ注がれた木椀が乗っていた。

「あ、ありがとうございます」

炎に手を触れないように気をつけながら、キャロは木椀を受け取った。
正座し、縁に口付けるように白湯を呑む。
喉の渇きが一掃され、体の芯から熱が生まれた。
自分達を助けてくれたのは、目の前の男で間違いはないようである。
見た目は恐ろしげではあるが、心はこの白湯の様に暖かい人物なのかも知れない。
木椀から口を離し、キャロは男に声をかけた。

「助けてくださって、本当にありがとうございました。なんとお礼をすればいいのか……」

手に木椀がなければ、両手をついて拝み倒したいほどである。
万感を込めてのキャロの礼の言葉は、しかし沈黙で返された。
瞼一つ動かさず、男は揺れる炎をじっと見詰めていた。
声を放った以上生きてはいるのだろうが、それを踏まえても息をしているのかさえ怪しい。
背筋が、寒風の所為ではなく凍えた。
フリードは未だ寝こけている。
実質二人しかいない場に、嫌な空気が流れた。
弱った身にはそれも耐え切れず、キャロは再度声をかけた。

「あの、お名前は?」

そこで初めて、男の目が動いた。
瞳に映るは、現ではない炎と氷である。
炎は、限りない憎しみを喰らって寄るもの全て焼き払う業火。
氷は、果て無き悲哀が凝結し、触れるもの全て傷つける氷牙。
在り得ない筈の共存に、キャロは一瞬、戸惑った。
里の誰一人として、このような瞳をした者はいなかった。
ただ、里を去らんとするキャロを見送る眼は、厄介払いが出来たといういやらしい安堵ばかりだった。
両親までもが同じ眼をしていたことを思い出し、放浪の間に流れて消えた筈の寂しさが胸に込み上げる。
眼尻から、涙さえ零れ落ちそうだった。

「………クレイトス」

声に、キャロは我に帰る。
何時の間にか俯いていた顔を上げると、男が再び唇を動かした。

「私は、クレイトスだ」

巌のような顔は、酷く不機嫌そうだった


クレイトスは、黙々と草原を歩んだ。
野生えの花も草も踏み付けて、騒々しく足を進める。
その後に続く、軽い足音と羽音が一つずつ。
昨日と違い、空には燦々と日輪が輝き、降る光がうっとおしかった。

昨日と違うのは、それだけではない。
足音羽音を無視して、クレイトスは前に進んだ。
その背中を追う、小さな気配が二つばかり。
蝶や四足の類ではない。
クレイトスは辺り憚らぬ舌打ちを響かせ、風を起こして振り返った。

「何故、私の後をつける」

常より一段声を低くすると、二つの気配が立ち止まる。
桃色の髪の少女と、白い子竜。
キャロとフリードとは、昨晩勝手に名乗られた名前である。
助けたのが災いしてか、なるで子犬のようについてくるのだ。
忌々しげに歯を剥き出しにすると、一人と一匹は少しく怯えたようだった。
といって、この場より去る様子はなく、返って足は動かずこの場に留まる。

「他に、行くところなんてありません」

「私が貴様らの面倒を見ると思うか!」

クレイトスは声を荒げ、その勢いのまま腰からブレイズ・オブ・アテナを抜き放った。
流れるような動作で、銀光る凶刃を少女の眼前に突き付ける。
昨日は助けたが、所詮は気の迷いだとクレイトスは決めつけていた。
ほんの少し押せば、切っ先を額に埋め込み、冥界の石榴のようにすることができるだろう。
敵兵一人嬲り者にするより遥かに簡単だった。
だが、少女が退くことはなかった。
クレイトスの殺意を、その痩身余す所なく浴びて、である。

「……あなたに殺されるのなら、それでもいいです。どうせ、あそこで死んでいたはずなんですから」

少女の唇から紡ぎ出されたのは、少女には似つかわしくない言葉だった。
真っ直ぐにクレイトスを見据える双眼に、恐怖の色は微塵もない。
覚悟が、眼球の形をしているかのようである。
暦戦の勇士でも、クレイトスの凶刃に引き裂かれる寸前、瞳に恐怖と絶望を滲ませる。
中には命乞いをする者もいたが、彼が聞き入れたことは一度としてなかった。
それらの例外が、あろうことかクレイトスの半分も生きていない少女だった。

ブレイズ・オブ・アテナの切っ先が揺れる。
魂そのものが、揺れている。

知らず、クレイトスは刃を腰の後ろに収めていた。
かのスパルタの亡霊が、子供に気圧された。
これまで彼が殺めてきた者達が聞けば、驚愕に目を剥くに違いない。

「………好きにするがいい」

唸るように言って、クレイトスは前を向いた。
そして、キャロとフリードは好きにした。


結局のところ、クレイトスはキャロとフリードの面倒を見る破目になったのである。

一人と一匹で果物を拾い集めている時に折悪く山賊が現れ、悲鳴を聞いたクレイトスは刃を打ち振るった。
キャロが疲れか病を得たか熱を出せば、不本意ながらも薬草を集め、煎じて飲ませた。
殺す以外に使う事など無いと思っていた腕で今さら子供の世話とは、タルタロスで拷問を受ける亡者でさえ腹を抱えて笑い転げるかも知れない。
あの荒野での一件を除けば、クレイトスが少女を見捨てる意を示したことは、一度たりとも無かった。
細い首を刎ね飛ばすのは簡単だというのに、どうもその気になれない。
いつかいつかはと行動を先延ばにしたまま、ずるずると共に旅をしているのだった。

旅の合間に、キャロは時々、自分のことを訥々と語った。
仏頂面のクレイトスとただ対面しては間が持たぬか、それとも辛さ寂しさの発露か。
半分以上を聞き流しにしていたが、要約するとこうである。

アルザスという土地に、ル・ルシエという少数民族がある。
それは竜とともに生きる部族であり、子供の内から竜を召喚し、使役するのだという。
大きな争いもなく、平和を貪っていた彼らの中に、ある日それを崩す力を持つ者が生まれた。
それがキャロだった。
少女にはフリードともう一体、ヴォルテールと呼ばれる強大な力を誇る竜を召喚することができた。
だが、それ故に、キャロは部族を追放されることになったのである。

―――強い力は争いと災いしか呼ばない。

昔なら、馬鹿らしいと笑い飛ばしていただろう。
だが、クレイトスは強い力を求めたが故に妻子を永久に失った。
蛮族に処刑される寸前アレスなどに祈らなければ、死ぬのは自分一人で済んだという可能性が、今もクレイトスを苛む。
勇猛を持って知られるスパルタンにあるまじき、それは惰弱というものかも知れない。
といって、力への恐れを少女一人に押し付け、放り出して安心しているル・ルシエに対しては、やはり馬鹿らしいという他になかった。
キャロの両親もまた、他の里人同様に彼女を外へと押し出したと聞く。

クレイトスは腸が煮え滾るのを感じた。
自分なら、カリオペが怪物と化そうとも、両腕で抱き締めてやれる。
望むなら、この身全てを捧げてやれる。
許されるのなら、この身が滅びるその瞬間まで傍にいてやりたかった。
全て、今となっては叶わぬ夢である。

それを、自ら捨てた愚か者ども。
今すぐにでも行って、首を叩き落としてやりたい程である。
人としての情か、当て所のない親心か。
とにもクレイトスのキャロに対する態度は、少しづつ、雨垂れが石を削る程度に少しづつでははあるが、軟化していった。
キャロも、クレイトスの纏う鬼気に慣れたか、それとも鬼気の方が薄れたか、傍に寄ることが多くなった。
対し、フリードはあまり近くには来ない。
野生が、クレイトスの身に染み付いた血臭を恐れるようである。
黙々と焚火を見つめるクレイトスと、それに寄り添うキャロを、少し離れた位置からフリードが見詰める。
それが、何時しか一行の日常となっていた。



―――――だが。
クレイトスが、今までそうであったように。
キャロは、やはり力が災いを呼び寄せるのか。

平和は、長くは続かなかった。


ある、晴れた日のことである。
火の始末をしていたクレイトスの背に、キャロの声が掛った。
その中に、フリードの羽音が微かに混じる。

「水筒に水を汲んできますね」

近くに川があることは、昨日の内に確認していた。
この草原一帯は草木豊かであり、食糧となる四つ足も数え切れぬ程であった。

「……ああ」

相も変わらず、クレイトスの低い声である。
キャロもいい加減耳に慣れたか、からからと水筒を鳴らしながら、フリードを連れて川に向かった。
子供の元気さで、足音は軽くて速い。
木の枝で、既に冷め切った木墨を崩しながら、クレイトスは思考を巡らせていた。
はたして、このままキャロとフリードを連れ立って良いものか。
そもそも、クレイトスの旅は、何か目標があってのものではない。
ただ残りの命を使い果たすための、言わば死出の旅であった。
それが、クレイトスだけならば良い。
妻子を永久に失ってまで、この世に望む物は一としてない。

だがキャロは、若い命は違う。
死に掛けはしたものの、無事ならば洋々たる大海原を渡ることさえ可能なのだ。
決して、タルタロスに赴かんとする男の傍らに置いてよい命では無い。
この先街に辿り着くことがあれば、クレイトスはそこでキャロとフリードを誰かに預けるつもりであった。
別離は、スパルタの亡霊をして辛いものになるだろう。
それでも、キャロがこの世に生きて壮健に暮していれば、欠けた魂が夜泣きすることはきっとない。
愛するが故に離れる。
それは、我を超越した親心だっただろうか。

戦神でもなく殺戮者でもなく、今のクレイトスは、親であり人であった。

「きゃああっ!」

クレイトスは弾かれたように座を立った。
起きた風に灰が舞い飛ぶ。
耳朶に馴染んだキャロの声、それも悲鳴を聞き間違える筈がなかった。

脳裏に、遠き日の惨劇が浮かぶ。
胸を無残に裂かれた娘と妻。その血に汚れた両腕。
魂に焼き付いて消えぬ、永劫の悪夢。

まさか、悲鳴はそれの繰り返しか。
足元の土を蹴立て、クレイトスは駆け出した。
風の様な、いや風を超えた疾駆である。
背の高い草が揺れまどい、それはそのまま男の胸中の現れだった。
程なく、せせらぎが耳を撫でる。キャロが水を汲みに行った川が近かった。

クレイトスははたと足を止めた。
川を挟んだ向こうに、異装をした、五人の男の姿を認めたのである。
年の頃は、どいつも三十代を越えまい。
髪の色は赤や青、金と目にうっとおしい。呪術師の着るようなローブに似た衣装は、それぞれ形状が大きく違う。
ただ、全員の手にある金属製の杖と、不遜がありありとした顔だけが共通していた。
久し振りに、気に障る面ばかり。
それでも、積極して突っかかって来なければ、捨て置きにして目もくれない。
………だが。

「!!」

クレイトスは瞠目した。
男の内、奥の一人が右腕にキャロを、左腕にフリードを抱えている。
どちらも眼を固く閉ざし、どうやら意識を失っているようであった。
クレイトスは、たしかにキャロとフリードを誰かに預けるつもりでいた。
しかしその誰かは、こんな胡乱な男達では断じてない。
一人が、ようやっとクレイトスに気付き顔を向けた。
眼には、地を這う虫を見るかのような気配がある。

「なんだぁ、お前は」

「その子供に何をした!」

咆哮であった。
大気が震え、地を揺るがさん程である。
先に口を開いた男が、煩そうに首を振った。

「ただ気絶させただけだよ。ったく、いくらレアスキル持ちだからって、わざわざ俺達を派遣しなくったって―――」

男の愚痴に、キャロとフリードを抱えた男が釘を打ち込む。

「原住民に構ってる暇は無いぞ。目的は果たしたんだ。さっさと帰還しよう」

応じたのは、別の男だった。

「まあ待てよ。そこまで急ぐことはないだろ? せっかくこんなとこまで来たんだ、少し遊ばせろ」

「そうだ。これくらいの楽しみがなければ、こんな仕事やってられないよ」

会話が、下卑た笑いを交えて男達の中だけで回る。
聞き耳を立てていたクレイトスは、彼らが何をするつもりなのかを理解した。
嬲り殺しである。
その目的で得物らしきが杖ということは、男達はおそらく呪術師の類なのであろう。
魔法ならば、クレイトスも少しは使う。
一番の得意は武器術であるが、それでも人間などは歯牙にもかけない。
それにしても――――

(未練者どもめ)

間抜け、愚かの体現が、目の前で踏ん反り返っている。
これほどの滑稽はなかなかない。

五対一の優位を感じているのだろうが、囲みも構えもせぬ内に、よく調子に乗れたものだ。
クレイトスも、捕らえた敵兵を嬲りものにしたことが少なからずあった。
しかしそれは情報を得るためであり、相手が自分よりも力の劣る者だと確信してからである。
力ある者、知恵ある者は早々に処刑しなければ、必ずや手痛い反撃をしてくるのだ。

それを、傷一つ負わせぬ内に、それもスパルタの亡霊に対して。
臍で茶を沸かすとは、まさしくこのことであった。

「付き合ってられん。先に行っているぞ」

奥の、キャロとフリードを抱えた男がそう言い捨てる。
下らぬ遊びに参加するつもりがないのなら、それでクレイトスには必要のない生き物である。
だがその腕の中にあるもののために、言葉を聞き捨てにしておくことはできなかった。

「待て!」

クレイトスは思わず腕を伸ばした。
その僅か数秒速く、男の足元に輝く魔法陣が浮かび――――次の瞬間、その姿を消した。
クレイトスはたたらを踏んだ。
透明化ではない。それなら、気配で分かる。
男は、完全にこの場から消えたのだ。キャロとフリードと共に、である。

…………また、奪われた。

「どこに行ったぁっ!!」

クレイトスの眼に、赫怒が業火と燃え上がる。
現の炎として、全てを焼き尽くさんばかりの熱気を放つ。
だが、愚鈍なる者どもは気付かない。
知らず逆鱗に触れたことに、傲慢なる者どもは気付かない。
男が一人、前に進み出た。

「知る必要はないだろ? これから死ぬんだから」

そう言った口辺に、嫌な笑みが寄る。
不快を、そのまま表情として顔に張り付けたようであった。
クレイトスの死は、彼の中で既に決定されて動かぬらしい。
男が、杖の先をクレイトスに向けた。
虚空に、突如として魔法陣が出現する。
先程、男が消えた時の物とは、また別種のようである。
魔法陣の中心、杖の先にあたる部分に、人の頭程の白い光球が生じた。
それを放って、クレイトスに当てる。そんなところであろう。
発動が鈍いのは、余裕を見せつけたいのかそれとも術者の腕の現れか。

何にせよ――――噛みかかってくるのなら、噛み返すまで。

「まずは、右腕だ」

お定まりの文句と共に、全く予想に反せず、光球が放たれた。
狙いが右腕なのは、言われずとも軌道を見れば分かることである。
それにしても、選りに選って右腕とは。
悪いのは、籤運か頭の出来か。
思いながら、クレイトスは自ら右腕を光球に向けた。
それをどう捉えたのかは知らないが、男が笑みに一層残酷な色を加える。
直後、光球が破裂した。術者の顔面を焼きながら。

「がっ!?」

悲鳴を置いて男が吹き飛ぶ。
嬲るためか威力は弱く、白煙を口から白煙を吐くものの、頭は体に付いたままだった。
何が起きたかわからず、それにしても身構えさえせぬ愚鈍どもを眺めながら、クレイトスは右腕を下げた。
その腕には、金色の装着物が陽光を撥ねて輝いていた。
メデューサの放つ石化の眼光さえ撥ね返す金羊の毛皮に、人づれの魔法など通る筈もない。
クレイトスは、腰のブレイズ・オブ・アテナを抜いた。
そもそも、今の今まで抜かなかったことが、クレイトスにとっては異常だったのだ。
キャロとフリードとの旅が、彼の中の獣に首輪を巻いたのかも知れない。
それが解き放たれた以上は、血が流れぬことには、もはや収まらなかった。
といって、皆殺しにはできない。一人生かして、情報を得る必要があった。
ならば、要らぬ残りで少し遊ぶか。

「は、挟むぞ!」

「おう!」

動揺から立ち直った二人が一息で川を飛び越え、距離を置いてクレイトスを挟んだ。
その足が、僅かながら地から浮いていたのを、クレイトスは見逃さない。
一撃が弾かれるのなら、二方向から撃つという発想は悪くはない。
だが最善は、クレイトスの手の届かぬ遠い遥か彼方に飛び去ることであった。
戦神と戦い、ただの人が如何にして勝とうというのか。
彼等は、間違え過ぎた。
間違いの代償は、死である。

「喰らえっ!」

二人の声が重なり、右から氷柱の群れが、左から赤と燃える炎が放たれた。
クレイトスは、不動である。死を選んだ訳では無論ない。
氷柱の先が、火炎の熱が肌に触れんとした、その時。
クレイトスの右手から、ブレイズ・オブ・アテナが強弩の速度で離れた。
走る魔刃の唸りは、倒れた一人の傍で呆然としていた男の胸で止まった。
血を吸って真紅の切っ先が、男の背から顔を出す。

「え?」

自分の身に何が起きたのかを理解する間もなく、男は跳んだ。
クレイトスが、ブレイズ・オブ・アテナの柄尻と腕を繋げる鎖を巻き戻しているのだ。
同時に、クレイトスは後退した。
入れ替わるようにして、ようやっと吐血を始めた男が氷柱と火炎の境に立つ。
避ける術はなかった。

「あがああああっ!?」

左半身を氷柱の群れに喰い破られ、右半身を炎に呑み込まれる。
その苦痛は如何ばかりか。クレイトスが尋ねる前に、男は絶命した。
残り、二人。
口をだらしなく開け、瞠目して凍り燃え縮む仲間を見詰める間抜けが二人。
呆けている暇があるなら、攻め続ければ良いものを。
スパルタにあれば、全ての共同体から排し顎髭の半分を刈るところである。
もっとも、これから刈り取るのは、別の物だったが。
クレイトスは、高々と跳躍した。撃つのなら撃てと挑発するように、両腕を大きく広げて。
着地点は、氷柱を放った男である。

「ひっ」

気付いた男が、引き攣った悲鳴を上げた。
直後、クレイトスは男を蹴り倒し、馬乗りになった。
すかさずブレイズ・オブ・アテナを逆手に持ち、抵抗できぬように男の両腕に刺す。
切断せずに縫い止めれるように、刃筋と腕は並行であった。

「かっ………!!」

血走った眼球が、眼窩から飛び出そうになる。
あまりの激痛に、悲鳴さえ喉奥に引っ込んだようである。
舌を噛んで死なれるのも退屈だ。
クレイトスは柄から手を離すと、拳を握り固めた。

「もっといい声で鳴かせてやろう」

クレイトスは拳を振り上げた。
男の眼尻から涙が零れ落ちる。
その一滴に、どれほどの懇願が込められているのか。

分かる筈もなく、また分かる必要もない。
一切の容赦なく、クレイトスは拳を男の顔面に叩きつけた。
鈍い感触、何かが潰れる感触が、拳に伝わった。

悲鳴は上がらなかった。ただ、体が一度びくりと大きく跳ね、それで終りであった。
どうやら、絶命したようである。
怪物ならば、二、三発は耐えて素晴らしい悲鳴を聞かせてくれるが、人は一撃が限度らしい。
クレイトスは詰まらなさそうに、顔面から拳を剥がした。
ぱらぱらと落ちた赤の混じった白い粒は、圧し折れた歯である。
拳に叩き潰された男の顔面は、血と砕けた骨とよく分からない液体の入り混じった、よく分からないものになっていた。

これでは、親も目を背けるだろう。
いやそもそも、判別さえできまい。

「雑魚が」

唾を吐きかけ、クレイトスは腰を上げた。
そういえば、もう一匹の獲物がやけに静かである。
振り返ると、男は火炎を放った位置から、少しも離れていなかった。
反撃さえせず、仲間が惨殺される光景に腰を抜かしていたのである。
よく見れば苦味の走った顔は、涙と鼻水で見る影もない。
返す返す、情けない男だ。

「どうした? 私を殺すのではなかったのか?」

歩み寄りつつ、クレイトスが低い声を投げ掛ける。
それだけで、男の肩が大きく揺れた。
これが油断させるための演技ならば買えたが、どうやらそうではないらしい。
先程まで仲間に混じり余裕の笑みを見せていたのが、少し強気を見せただけで怯えて震える。
クレイトスには理解できぬ惰弱である。

「たっ……たすけっ」

「立て。立たなければ殺す」

男の命乞いを無視し、クレイトスは命じた。
今の内に胸の中で燃え盛る怒りを多少なりとも弱めて置かなければ、生かすと決めた一人まで殺してしまいそうだった。
弱めるためには、贄が要る。
男が、生まれたばかりの山羊の弱弱しさで立ち上がった。
だが、肝心の得物を握る手は、だらりと下がったままである。
クレイトスは小さく舌打ちした。
どうせ贄なら、活きの良い方がいい。

「もう一度、火を放ってみろ」

「ひっ…いいいいっ!」

杖を構えようともせず、男は首を横に振った。
焦れたクレイトスが怒号を浴びせる。

「撃て! 杖を構えろ! 撃てっ!」

「いいっ…いやだああああっ!」

狂気の滲んだ悲鳴を上げ、男は宙に舞い上がった。
彼が空を飛べることは、既に知っていた。
しかし、それで襲いかかってくるのかと思いきや、あろうことかクレイトスに背を向け、全く逆の方向に飛んで行く。
今さらの逃亡は許されない。
クレイトスは先程と同じように、今度は左手のブレイズ・オブ・アテナを投擲した。
銀の光線のように飛んだ刃は、男の背から入って腹を食い破る。
舞った血が煌めいて美しい。

「ぎゃあっ!」

苦痛による絶叫が、青い空中に響き渡る。
それを心地良い音楽と聞きながら、クレイトスは腕を引いた。

「ぬん!」

時の巻き戻しのように、男が大地に向かう。
しかし元々立っていた位置には帰らず、クレイトスの横を行き過ぎて地面に激突した。
骨の砕ける音が耳朶を撫でる。
男は反作用により大きく跳ね、宙に浮き上がった。
そこで、クレイトスは再び腕を引いた。
突き刺さったま肉に食い込んだブレイズ・オブ・アテナは主の意志に従い、悲鳴さえ上げなくなった男を地面に叩きつける。

浮かぶ。
叩きつける。
浮かぶ。
叩きつける。

しばし、その繰り返しだった。



いい加減に飽いて、クレイトスはブレイズ・オブ・アテナを手元に引き寄せた。
血が刃から鍔を伝って手に纏わりつく。
さて、その血の原泉は何処へ行ったのやら。
辺りを見回すと、それは少し離れた場所に転がっていた。

赤い、血塗れの肉団子。
これが人であったと、誰が信じるだろうか。
全身の骨が砕け、五体の区別はまるでつかず、遠目に見れば生物の死体かどうかさえ定かではない。
人として、あってはならぬ死の一つであっただろう。
びゅうと、一陣の風が吹き抜ける。
さわやかな筈の草原の風は、やけに生臭かった。

クレイトスには、嗅ぎ慣れた臭いである。
別段気にした様子もなく眼を背けると、川を飛び越えて生かしておくと決めた一人の傍に寄った。
気を失っていることを除けば、男は意外にも軽傷だった。
術が弱かったこともあるだろうが、何か防御力場のようなものに包まれているらしく、頬や顎などに軽い火傷を負っているだけである。
ならば、口を動かすくらいはできる筈だ。
クレイトスは男を軽く蹴り転がすと、背中側から彼の首を鷲掴みにした。
そのまま、猫でも掴んでいるかのように変わらぬ足取りで川縁まで進むと、男の頭を容赦なく流水の中に沈めた。
一分も経たずに水面に泡が浮かび、足が陸に上がった魚のようにばたばたと動く。
頃合いと見て、クレイトスは男の頭を引き上げた。
口や鼻から水が流れ落ち、川縁の剥き出しの土に黒い染みを作る。

「目は覚めたか?」

「げっ……がはっ……な、なんでお前っ……」

気絶していた男が、一連を知っている筈もない。
それでも、獲物がこうして壮健でいることから推測すれば、答えを出すのは容易である。
頭の回りが悪い男が理解できるように、クレイトスは前髪を掴んで前を向かせた。
川の向こうの惨状に、顔色が面白いほどに青く染まっていく。
かつて仲間たちだった物体に、余程の衝撃を受けたようだった。
さて、何時までも遊んではいられない。
クレイトスは、奥歯をかちかちと噛み鳴らす男を宙吊りにした。
垂れ下った手には杖が握られたままだが、抵抗をするのなら首の骨をへし折ってしまえばいい。

「貴様らは何者だ?」

訊きたいことは山とあるのだ。
金貨袋を逆さにするように、間断なく吐いてもらわねばならない。
問われて、男は固く口を閉ざしていた。
仲間を殺された意趣返しか、男の意地とやらか。
しかし首を掴む力を少しばかり強めると、打って変って情報を吐き出した。

「かっ管理局……時空管理局だ!」

聞いたこともなかった。
が、最初に時空ときて、おそらくは人の集まりの分際で管理などという言葉が付くのならば、どの様な連中かは大体想像がつく。
ギリシアにいた、スパルタを差し置いて世を席巻しようとしていた愚か者ども、その同類であろう。

「何故、あの子供を攫った?」

「任務でっ……人手不足だから……レアスキル所持者が必要なんだ……」

実のところクレイトスは、誘拐自体を責めるつもりは毛筋程も無かった。
スパルタにおいて、ヘイロタイ――奴隷からの強奪は禁じられておらず、むしろ推奨されていた。
その程度ができなければ、いざという時に兵士として役に立たないからである。
ただ、彼らが攫ったのはキャロとフリードだった。
クレイトスの、言わば持ち物である。

奪われたなら、奪い返すまで。
今度こそ、今度こそ。

血が滲むほどに奥歯を噛み締め、クレイトスは問いを続けた。

「私を、あの子の許に連れて行け」

すると、男は激しく暴れ出した。

「そ……そんなことはできない! 任務失敗どころじゃ……ぐげっ!」

全身で拒否の意を示す男の顔面に、クレイトスは軽く拳をくれてやった。
それほど力を込めたつもりはなかったが、鼻の骨が折れたらしく、二つの穴からだらだらと血が垂れ流しである。
それで、男の反抗心は完全に殺がれてしまったらしい。
お情け無く下がった眉の下の眼は、怯え一色であった。
クレイトスは再び命じた。

「もう一度言う。私を連れて行け」

「わ……わがっだ。つ、連れて行くがら……待って……」

男の、杖を握る手が動いた。
余計な事をすれば、クレイトスの手が首の骨肉ごと命を毟っていく。
それが分からぬほど愚かでもないだろう。
男が杖を掲げると、次の瞬間足元に魔法陣が描かれた。
クレイトスは、ふむと喉を鳴らした。
彼の使う神の力を借りた魔法とは違う、見慣れぬ術だった。

「本局からの補助で……艦無しでも二、三人くらいなら転送できるんだ……すぐに、着く……」

息も絶え絶えに男が言葉を紡ぐ。
要らぬ説明であるし、無駄口を叩く余裕があることが気に入らず、再び拳を叩きこもうと思ったクレイトスだったが、万が一殺してしてキャロの手掛かりを失うのも馬鹿らしい。
思う間に、転送とやらが始まっていた。

一瞬、草原が世界が白く染まったかと思うと、瞬く間に新たな景色が視界に映る。
クレイトスは、捕らえた男はそのままに、灰色の廃墟の中に立っていた。
見たことのない材質で固められた広い道の左右には、崩れかけた背の高い建造物が均等に間を置いて並んでいる。
神殿には見えない。
過去にはおそらく街だった時節があったのだろうが、今は生活の気配など微塵も感じられない、ただの廃墟である。
吹く風も、どこか寂しげに鳴き叫ぶ。

上空から降る無数の気配に、クレイトスはほとんど土の露出の無い大地から視線を外し、首を振り上げた。

「……小蝿どもめ」

クレイトスは思わず呟いた。
建造物によって狭く切り取られた空に、気配と同じ数の人影があった。
呪術師のローブに似た服、あるいは甲冑に身を包み、手に握った武器は杖や剣、槍に鉄槌など雑多である。
男だけでなく、女も少なからずいた。
ふと見ると、未だ首を掴まれたままの男が、血塗れの顔に薄い笑みを浮かべている。
何時の間にやら、仲間を呼んでいたらしい。
途中で気付いたならば生かしておかなかった事を思えば、その度胸は買おうと思えば買えた。
空でこちらを見下ろす群れの内の一人が、居丈高な声を放つ。

「そこのお前! 人質を解放し、速やかに投降」

ごきり。
声を遮って、鈍い音が廃墟に木霊した。

そしてクレイトスは、彼らの望み通り男を解放した。
しかし、男の目は現世を見ておらず、首は不自然な曲がり方をしていた。
誰の目も、彼の死は明らかだった。
敵がこれだけおり、わざわざ待ち構えていたのなら、とにもクレイトスの望んでいた場所ではあるのだろう。
使い終わった道具は、始末するのが常である。
クレイトスには、その程度の意識しかなかった。
まるで虫を殺すかのような鮮やかさに、空に浮かぶ群れは、しばし困惑していた。

「こいつ……っ!」

と、誰かが怒りの声を上げると、それに触発されたか、怒気が膨れ上がっていく。
対してクレイトスは………何も変わらなかった。
いつも通り眉間に皺を寄せ、口を引き結び、怯え気負いは一切ない。
むしろ自分に向けられた怒気を心地良いとさえ感じながら、クレイトスはブレイス・オブ・アテナを抜いた。
先程と同じである。
暴れて、一人生かし、情報を得る。
ふと、脳裏にキャロの笑顔が過った。
再開の折、もしこの両手が返り血に塗れていたのなら、果たして少女は受け入れてくれるだろうか。
そんな懸念が浮かび、そして消えた。

空が、無数の魔法陣で虹色に輝く。
彼らの行く先は、タルタロスかエリュシオンか。

「我が名はクレイトス! カロンへの渡し賃をくれてやる!」

かつて滅ぼした冥界の魔人を思い返しながら、クレイトスは駆けだした。


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最終更新:2008年12月20日 19:27