夕暮れ、馴染みの商店街。
キャロは台に置かれた箱から手を抜いた。人差し指と中指の間には、四方形の小さな紙切れが挟まれている。
端を千切ると、それが袋状になっていることが分かる。途端、キャロの胸が高鳴った。

「キュクルー」

肩のフリードが、早くと催促するように鳴いた。頷き、紙切れを折り目に沿って破っていく。
全て引き千切ってしまわないよう、慎重に、慎重に。やがて、紙切れは端の一部分で繋がっているだけになった。
真剣な面持ちで、キャロは、紙切れの裏に書かれた数字を見た。

3。

ただそれだけだった。ただそれだけで、キャロには十分だった。
突如、ぱちぱちとけたたましい音が鳴り響く。

「三等賞! おめでとうございますっ!」

台の前で、赤いはっぴを着たおじさんが手を叩いていた。周囲の見物人も、おおと声を上げる。
商店街で買い物をするともらえるチケット。それを三枚集めると、クジを一回引くことができるのだ。
もちろん景品も数多く用意してあり、一等は温泉旅行となっている。ちなみに、はずれの場合はお情けとしてポケットテイッシュがもらえるようになっていた。

「やったねフリード! 三等だって!」
「キュルルー!」

フリードと喜びを分かち合うキャロのスカートから、ポケットティッシュが六つ、零れ落ちた。
それを見た通行人が、くすくすと忍び笑いを落としていく。それをそそくさと拾い集めつつ、おじさんに顔を向けた。

「それで、景品はなんですか?」
「ああ、これだよ」

おじさんが背を向ける。心臓の鼓動が、さらに激しさを増す。
元々あわよくばとチケットを集め、くじを引いたキャロだったが、まさか三等が当たるとは思っていなかった。
光太郎が仕事から帰ったら、一緒にこの喜びを分かち合おう。口が大きく笑みの形に開いているのを感じながら、キャロは景品が出てくるのを待った。
日が傾き、クラナガンが朱に染まる頃。
南光太郎は、タチバナ運輸営業所からの帰り道を歩いていた。顔には陰影が貼り付いているが、表情は平和を満喫して柔和だった。
久々に仕事が早く終わり、キャロとフリードにケーキの土産を買っていく余裕があった。
いつも寂しい思いをさせているのだ。保護者の義務として、いや義務ではなかったとしても、それを埋める努力をしなくてはならない。
ただでさえ、あまり遠出はできないのだから。

(少なくとも、キャロの周りに管理局の影はない……もうちょっとだけ、行動範囲を広げても平気だろうか)

時々思い返さなければ忘れそうになるが、キャロは管理局から逃げ出してきた身だ。
今はガジェット騒ぎによって後回しにされているが、事件が終わればそのままにはされないだろう。そうでなくとも、油断して衆人の前で騒ぐことがあれば、それもやはりただではすまない。
しかし、キャロは育ち盛りの少女である。その心と体を収めるには、今まで通りの領域では狭過ぎる。
真に将来を慮るなら――自分にその資格があるかは知らないが――もう少しくらい自由を与えてやるべきではないか。
アパートの部屋や商店街のみが世界というのは、あまりに哀しい。

(これじゃあ、丸っきり父親だな)

光太郎は、忍び笑った。
死んだ実父の想いは知らない。半ば殺した義父は、ゴルゴムと息子に挟まれ、きっと苦悩しただろう。
光太郎がキャロの父親だとして、父親とは得てして苦悩にぶち当たる生き物のようだった。
考えている間に、慣れ親しんだアパートが見えてきた。
夕日を背景に、逆光で黒々とした横に長い建物。
営業所とアパートは、キャロが歩いてやって来られる程度には近い。
何かあってもすぐに駆けつけることができるように、近場を選んだのだ。
幸い、今までその「何か」が起きたことはない。幸いが永遠に続くとも思えないが、今何事も無ければ、とりあえずはそれで良い。

「………ん?」

アパートから約三十メートル離れた位置で、光太郎は足を止めた。
アパートの前に、見慣れない影がある。逆光のため、光太郎の視力を持ってしても全容は判然としない。
光太郎の目が、鋭く細まった。足元の石を蹴り上げ、右手に収める。
ただそこにいるだけの人なら、捨て置いても構わない。
が、万が一「それ以外」だった場合、小拳銃の銃弾に匹敵する投石を受けることになる。
ゆったりとした足取りで、光太郎は影に近づいた。指呼の距離にまで寄る必要はない。
ただ相手の姿が確認できて、投石がその威力を十分発揮できる距離に………

「あっコウタロウさん! 助けてくださーい!」
「キュクルー!」

………何に躓いた訳でも無く、光太郎はずっこけた。何故か、そうしなければならない気がした。
影の正体は、キャロとフリードだった。より正確に言えば、自転車に乗ったキャロと、彼女の頭に乗ったフリードの、だ。
小さな手でハンドルを握り、足はペダルについているが、倒れないようにバランスを取るので精一杯らしい。
何故倒れないのかが不思議だった。
あの状態になってからどれ程の時が経っているのかは知らないが、一秒後に限界が来てもおかしくはない。
光太郎は立ち上がると、まず足でスタンドを下ろして転倒を防いだ。
次いで震えていたキャロを抱き上げ、アスファルトの上に降ろす。
フリードもキャロの頭から離れ、光太郎の頭に乗り移った。飛竜であるのが関係しているのか、やたら高い所に行きたがる。

「ふー…すみませんコウタロウさん」
「キュクルー」
「怪我はないようだけど……どうしたんだい、この自転車?」

服や本など、キャロに必要だと思う物は一通り揃えてあるが、自転車を買い与えた記憶はない。
値が張るからという理由もあるが、彼女の背景上、自転車が必要となるような遠出をさせることができなかったからだ。
どうしてもという時は光太郎が手を引き、目立たないよう雑踏に紛れて歩いた。管理局による拘束から逃れるために、こちらが勝手に決めた領域に閉じ込める矛盾。
何をしても零れ落ちる罪は、呪われた体が呼ぶものか。
ともかく、自転車については食卓の話題にさえ上げたことはなかった。
定期的に与えている小遣いも、貯めたところでとても手の届かないような微々たるものだ。
キャロは、窃盗を働くような子では無いと断言できる。ならば、自転車はどこから湧いて出たのだろうか。
問いに対し、返ってきたのは満面の笑みだった。

「実はですね……商店街のクジ引きで当たったんですよ!」
「クジ引き?」

そういえば、食卓の上に広げた長方形の紙を眺めて笑っていた気がする。
その時詳細は教えてもらえなかったが、商店街でクジ引き大会を催していることは知っていた。
閉塞的な生活の中での、数少ない楽しみだったのだろう。

「一人でここまで運ぶのは大変だったろう?」
「はい、でもうれしくて……それで、ちょっと乗ってみようかなって思ったんですけど…」
「クキュー」

乗ってみたはいいが、進むどころか倒れないようにするのが精一杯だったというわけだ。キャロの視線が、悲しげに地を這う。
しかし、そう気に病むようなことではない。
誰だって、最初から自転車を乗りこなすのは無理だ。むしろ、一人で挑戦しようとした勇気を讃えるべきだろう。

……………光太郎は悩んだ。

キャロが、自転車を自分の足にしたいと思っているのは明白だった。
光太郎にも、その望みを叶えてやりたい、という気持ちはある。
だがそれと同時に、今すぐ自転車を取り上げてしまうべきだという考えが首をもたげた。
追われる身には無用の長物と、無情な現実を叩きつけるべきだと。
しばらくの沈黙の後、光太郎は口を開いた。

「……明日は休みだし、乗り方を教えてあげるよ」

元々、行動範囲を広げさせようと思っていたところだ。
キャロにも、光太郎の手の届かない遠くまで行く用は無い。
管理局も、これまで以上に注意すれば大丈夫だろう。光太郎は、そう自分に言い聞かせた。

「本当ですか!? やったー!!」
「キュクルー!」

キャロの顔に、再び笑顔の花が咲く。頭に乗ったフリードの顎を撫でながら、光太郎も笑った。
魔王の力など、天使の破顔一笑に敵うものではない。
自転車を階段の下のスペースに運び、後輪に備え付けられた盗難防止用のロックをかける。
これからはここで夜を明かしてもらおう。

「ところでキャロ、晩御飯は?」
「………あ」
「………キュー」

《自転車を漕いだ日》

翌日、雲一つない晴天の下、キャロの自転車の特訓が始まった。
といって、どこに行く訳でもなく、特別なことをする訳でもない。
アパートの前は車道も無く、アスファルトで舗装されているためなだらかで、練習には持ってこい来いの場所だった。
別の景色も見せてやりたいとも思うが、しばらくはここで我慢してもらわなければならない。
服は厚手の物を着させてある。不意の転倒による痛みと怪我を軽くするためだ。
何が楽しいのかフリードが籠の中に入っているが、邪魔にはならないだろう。
体色が白いため、動かないと無造作に突っ込まれたスーパーのビニール袋のようだ。
夕暮れ時の商店街などでよく見られる。

「最初は、ぺダルを外しての練習だ」
「え? ぺダルって漕ぐところですよね? 外しちゃうんですか?」
「慣れない内は、足に当たって痛いからね」

光太郎は自転車の隣に屈むと、バイクの整備用のモンキーレンチでペダルとクランクの間のネジを取り除いた。ペダルを外し、脇に置く。反対側も同様にだ。
子供が自転車の練習を嫌がる理由の一つが、足に空転したペダルが掠り、痛いからだという。
どれほど厳しく教えたところで、受け取る側が拒否をしては意味がない。
ふと見ると、キャロとフリードが面白げにこちらを見下ろしていた。何にでも興味を示すのは、健全な子供の証である。
すぐ済むから、と笑顔を返し、光太郎はサドルを調節した。
シートポストを固定するシートクランプを外し、サドルを下げる。
それ以上は行かないというところで再びシートクランプを固定し、微細なずれが無いかを確かめた。
これで、練習の準備は整った。

「さあ、跨ってみてくれ」
「は、はい」

昨日の恐怖を思い出してか、キャロは恐る恐る自転車に跨った。
サドルを限界まで下げているため、爪先は完全に地面についている。
重さゆえか多少のふらつきはあるが、いざとなれば光太郎が支えるつもりだった。
転んで乗り方を覚えるのが自転車だが、少女に痛い目を見せたくはない、過保護とも言える甘さである。
良い父親には、きっと慣れなかっただろうなと光太郎は内心で苦笑した。
父親には、厳しさも必要だから。

「そうしたら、ちょっとずつ歩いて進むんだ。倒れないように、ゆっくりとでいい」
「わかりました………っとと」

言った傍から前輪が右に左に揺れ、フリードが不平を叫ぶ。
それでも少しずつ、少しずつ、キャロは前に進んでいった。
時折激しく動く小さな臀部に焦りを見て、光太郎は微笑ましさに口元を緩ませた。ゆっくり、ゆっくりとで良いのだ。
たっぷり一時間以上、同じ動きを繰り返させる。
倒れても光太郎がカバーできる距離を、何十周と歩かせる。
日輪の照射に汗を浮かせながらも、キャロは文句一つ零さず続けた。
自転車も空手も魔法も、反復練習によって体に染み付けなければ使い物にならない。
意識して出来るのは当然である。
そこから飛翔し、無意識の状態であっても体が動くようになって初めて覚えたと言える。

「キャロ、一度戻っておいで」

頃合いを見て、光太郎はキャロを呼び戻した。
うんしょ、うんしょと重たげに自転車を動かし、キャロが寄ってくる。
そんな主を差し置いて、フリードが籠から頭だけを出して寝こけていた。
暖かな日差しに、睡魔も随分と張り切ったようである。

「次はどうするんですか?」

額に汗を浮かべながら、キャロは光太郎の顔を見上げた。白い頬にはほんのりと朱が昇り、少しだけ太陽に似ているように思えた。
確かにキャロは光太郎にとっての太陽だったが、これが親の欲目というものなのだろうか。
将来、絶対に美人になる、という確信はあったが。
タオルで汗を拭ってやりながら、光太郎は次の指示を与えた。

「次は、両足で踏み切って勢いをつけるんだ。止まる時は、ブレーキを使ってね」
「ブレーキ……」

キャロは顎を引き、自分の手元に視線を落とした。
今までの訓練で、キャロは足を使って自転車を止めていた。
しかし、それが通用するのは低速で進んでいる時だけだ。
速度が出ている自転車を止めるのに下手に足を使うと、逆にバランスを崩す結果となってしまう。
実際に人や車の通る道を走る時のために、今の内にブレーキを使い方を教える必要がある。
それをキャロに伝えると、少女は水を吸い込む砂の素直さで、言われた通りの事を形にした。

強く地を蹴って、先程より長い距離を走り、足ではなくブレーキで止まる。

やはり、初心者であることがよろめきを生むが、それでも確実に前へ進んでいく。
自転車が傾く度にぴくりと動く光太郎の足は、血の繋がらない親心から来るものだろうか。
速度が出た事に気を良くしたのか、フリードが籠からはみ出した尾をぱたぱたと振り動かした。

「キュクルー!」
「もう、フリードだけ楽してー!」

そう言いながらも、初めは引き攣ってさえいた顔が、今では口辺に笑みらしきものを浮かべていた。
文句を零すだけの余裕が出てきたのだろう。
余裕とは慣れの産物である。
その証拠に、往復が十周を越える頃には、自転車の走りに揺らぎは全く見られなかった。
覚えが速い、というより速過ぎる。
もしかしたら、キャロには乗り物に対する才能があるのかも知れない。
これもまた、親の欲目か。二十代の青年らしからぬことを思いながら、光太郎は竜と少女の主従を見守った。


やがて、太陽が頭上に高く昇り、腕時計が正午を告げる。

「ふぇ~……疲れましたー…」
「間に休憩を入れるべきだったね。ごめん」

へろへろと自転車を引き摺りながら、キャロが寄ってくる。
光太郎の敏感な嗅覚が、つんと濃い汗の香を捉えた。
朝から間断なく練習をしていれば、体力も底を尽くだろう。
終始籠に収まっていただけのフリードが、もっともっとと強請ってしきりに鳴く。

「ちょっと休ませてよフリード……」
「キュクルー!」
「まったく、フリードが一番気に入ってるな」

光太郎はぱたぱたと羽を動かすフリードを摘み上げると、キャロにミネラルウォーターのペットボトルを渡した。
子供は、油断しているとすぐに脱水症状になってしまう。
自ら苦しいとは言わないキャロなら、なおさらだ。

「それにしても、今朝まで乗れなかったのが嘘のようだね。これならもうペダルを漕いでの練習ができるな」
「コウタロウさんが教えてくれたからですよ」

水を飲んでいたキャロが、照れ臭そうな笑みを零した。釣られて、光太郎の眼尻も下がる。
どこにでもある、親と子、あるいは兄と妹の構図がそこにはあった。
同時にそれは、光太郎には決して得られる筈のなかった光景でもある。
呪われた体が行きつく筈のない、幸福である。
恋した女性と結ばれ、子を成し、日々を平凡に生きる。
夢と呼ぶのもおこがましい、叶えるのは難しくない夢だった。
しかしそれは、今や遠く彼方に消えて朧にさえ見えない。
伸ばされたのが異形の鉤爪では、夢も捕まるまいと逃げるだろう。
いくら隠そうとしても、秘密とはいずれ暴かれて白日に晒されるものである。
醜い飛蝗男に、さて愛する人は逃げるか石を投げるか。
仮に受け入れられ、子を成すに至ったとしても、人ならぬ身の業をその子に背負わすことになるかも知れない。
例えそれら全てが解消されたとしても、今度は奪った命が重過ぎる。
今でさえ、殺めてきた者達の亡霊が、夢の中に現れて光太郎に叫ぶのだ。
即ち、不幸あれ、と。
夜中絶叫と共に飛び起きて、キャロとフリードを驚かせたのも、一度や二度ではない。

(……俺も自分の子供に、自転車の乗り方を教えたかった。義父さんが教えてくれたように)

今や遠い、遠過ぎる京都の町並みが脳裏に浮かぶ。
一乗寺にある秋月家の庭で、幼い光太郎と信彦は自転車の練習をしていた。傍には、義父総一郎と義妹杏子がいた。
こけつ転びつ、泣き出しそうになる光太郎の手を、義父は優しく握ってくれた。
さあもう一度、と言われるまま自転車に跨り、何時しか手足のように操れるようになった。
小学校高学年になると、今度は光太郎と信彦が教える番になった。
女の子用の、ピンク色の自転車に乗る杏子は、長い間補助輪が外せなかったことを覚えている。
自転車の乗り方とは、脈々と受け継がれていくものなのだろう。
義父から教えられたように、何時か自分の子供に教える日が来るのだろうと、光太郎は漠然と考えていた。

あの、運命の日を迎えるまでは。

ゴルゴムは、光太郎の現在のみならず、未来さえも黒く染めてしまった。
自分の後に続く者は、きっと無い。自転車の乗り方を教える相手はいないと、光太郎は諦めていた。
それが、そうではなかったのだ。
神は、魔王にほんの少しだけ慈悲を与えた。キャロとフリードである。
自分から、何かを受け継ごうとしている子供がいる。あり得ない筈の幸せが、ここにある。
泣き出してしまいたい程に、嬉しかった。昨日までの心配が、砂粒のように小さく思えた。

「コウタロウさん」

キャロの声が、光太郎を思考の海から釣り上げた。はっとして、声の主を見遣る。
キャロの白い頬はぷくりと膨れ、形の良い眉が釣り上がっていた。怒っていることは明確である。
気付けば、胸に抱いていた筈のフリードが、彼女の肩に停まっていた。
どうやら、いつも通りの二対一のようだ。

「ど、どうしたんだいキャロ?」
「また一人で考え事してました! そういうの、ダメって決めたでしょ!?」
「キュクルー!」

以前の騒動を反省し、お互いに隠し事は無しにしようと決めたのである。
光太郎がキャロの行動を不審に思ったように、キャロも光太郎の長考に何事かを嗅ぎつけたのだ。
少女ながらに、女の勘が働いたと見える。今でこれなら、将来が恐ろしい。

「何を考えてたんですか! 私にも教えてください!」
「キュー!」
「そ、それは……」

キャロとフリードが、二人して詰め寄って来る。光太郎は言葉に詰まった。
隠し事、という程のものではない。
わざわざ口に出さずとも、自身の胸内で完結する話である。
しかし、それではキャロは納得しないだろう。といって、納得させられるような文句も思い浮かばない。
南光太郎は、決して器用な男ではないのだ。進退窮まった、その時だった。

「あれ? ミナミさん?」

聞き覚えのある、というかつい最近聞いた声。反射的に動いた光太郎の腕が、キャロとフリードを天高く放り投げた。
きゃー、とかキュクーといった悲鳴が、上から微かに落ちてくる。
人の体感にして、約一秒間の出来事だった。声を発した人物が、光太郎の前に立つ。

「やっぱり、ミナミさんだ。どうもこんにちは」
「こここれはハラオウンさん。こんにちは」

細い逆卵型の顔に、腰まで届く金髪。フェイト・T・ハラオウンだった。
以前、ホテルアグスタで予期せぬ対面をした時とは違い、地味な白いワンピースを着ている。
それでも、彼女ほどの有名さならば、外を出歩けば煩わしさが付いて回るのかも知れない。

「ところで、今何か飛んでいきませんでしたか?」
「気のせいでしょう」

言葉こそ短いが、光太郎は断固とした口調で言った。
フェイトが悪人でないことは知っている。いや、悪人でないからこそ、キャロの存在を知られてはならない。
彼女は管理局の執務官、つまり法を背に立つ者なのである。
対して、キャロは悪く言ってしまえば、管理局から逃げたお尋ね者。
手の届く距離にいるのなら、捕らえぬ道理がなかった。
隠し通さなければならない、全身全霊を以て。

「ところで、ハラオウンさんはどうしてここへ?」
「どうして、と聞かれると……恥ずかしながら、せっかくの休暇なのにしたいことがなくて」

そこで、道を気紛れに任せた散歩を、といったところだろうか。
フェイトは恥ずかしげに笑った。歳はそれほど離れていない筈だったが、光太郎はキャロに似た幼さを感じた。
精神の未熟と取るか、心の美しさの現れと取るか。
光太郎の胸襟には気付かず、フェイトは言葉を連ねた。

「新人の子たちも、今ではすっかり仲良くなって……あっ、ごめんなさい。つい自分のことばかり」

さすがに、会って間もない他人に長々聞かせるような話では無いことに気づいたのだろう。フェイトの謝罪を、光太郎は穏やかな声で受け止めた。

「いえ、気にしないでください。ところで、お昼がまだならクラナガンにいい洋食屋があります。寄ってみたらどうでしょうか」
「ええ。では、失礼します」

腰を折りつつ、フェイトが立ち去るのを、光太郎は軽く手を振って見送った。
背中が見えなくなっても、近くに潜んでいないか、五感全てを使って探った。
怪しい気配、フェイトが戻ってくる気配がないことを確かめると、光太郎はほっと息をついた。どうやら、本当に偶然立ち寄っただけのようである。
とはいえ、キャロが見つかりそうになったのは事実。
自転車について今さらどうこうしようとは思わないが、以前に倍する注意が必要となるだろう。
光太郎の心身に、改めて覚悟が回った。

「……キャロ、フリード、大丈夫かい?」
「うー…ひどいですよコウタロウさーん!」
「キュクルー!」

光太郎が背後のアパートを振り返ると、屋根からキャロとフリードが顔を出した。こちらは偶然ではなく、そうと狙って投げたのだ。
先程と同じく怒っているようだったが、怒りの種類は別のものにすり替わっている。
その意味では、フェイトの来訪は神の助けと言えた。
世の中の複雑さを感じながら、光太郎はアパートの階段を上った。
キャロとフリードを屋根から下ろし、昼食を摂った後、光太郎達は自転車の練習を再開した。
今度は、ペダルを付けての練習である。通常なら、二日三日と時間を掛けて至る所だったが、キャロはたった一日で辿り付いてしまった。
重ね重ね、恐るべき成長性だ。
正午を過ぎ、東に沈む道をゆっくりと歩み始めた日輪が、まだまだ強い光を照射する。
完全に沈む前に、キャロは自転車を手足のように扱えるようなっているかも知れない。その光景を瞼の裏に幻視しながら、光太郎は自転車にペダルを取り付けた。

「これでいい。キャロ」
「はい!」
「キュクルー!」

キャロは朝とは正反対に威勢良く自転車に跨り、フリードが、そこを巣と定めたように籠に飛び込んだ。
明日からは、これが日常となるのだろうか。
キャロは爪先を地面から離し、早速ペダルを漕ぎ出した。
心配するようなことは、何もなかった。
ペダルからチェーンを伝い、動力を得たホイールが回転する。
アスファルトの摩擦作用で、キャロとフリードを乗せた自転車が前へと進んだ。

「わあ……すごいです! はやーい!」

感極まって、キャロが快哉を叫んだ。
駆動部分の倍力効果により、自転車は地を蹴るよりも遥かに速く動く。
とはいえ初めからそれではバランスが取れず、翻弄されて倒れて無様を晒す。
地味、くだらないと思う練習も、いずれ羽ばたくための重要な下地なのだ。
満腔に喜びを現しながら、キャロはぺダルを漕いだ。ピンク色の髪が、風を受けて踊る。
籠の中で、フリードが楽しげに首を振っていた。

(ああ、やっぱり教えてよかった)

光太郎は、この光景を見るために生きているようなものだった。
他の一切が、他愛の無い些事に思えてくる。

………少し、速度を出し過ぎではないか。

キャロを乗せた自転車が、人としての光太郎が一跳びで寄れる距離を過ぎつつある。

「キャロ。一度戻っておいで」
「大丈夫ですよー!」
「キュクルー!」

転んで覚えるのは、上手く自転車を操る方法だけではない。
転ぶ痛みへの恐怖によって、子供は自己の能力を超えた無茶無理を抑えることを覚える。
が、キャロはその機会に恵まれなかった。才能が、返って仇となる事もある。
その分を、光太郎が厳しくして埋めるべきだったが、彼はあまりに甘く過保護だった。

キャロは、調子に乗っている。
今までにない爽快に、心が浮ついているのだろう。
気付けば、少女の背中が遠い。
前半の練習では動きそうで動かなかった光太郎の足が、ついに地を蹴った。
キャロは失念しているようだが―――今向かおうとしている方には、下りの急な坂がある。
あの速度のまま坂を下るのは、いくら慣れていても危険だ。
しかも、キャロにはまだ経験の積み重ねがない。

「きゃっ!」

自転車が前に傾き、上擦った悲鳴が上がる。
乗り手の意の外で、前輪が坂を下ろうとしているのだろう。
案の定、そしてそれと分かっていて止められなかった自身を、光太郎は蔑んだ。
魔王の強さなど、所詮無意味なものだ。
すぐにキャロの背中が消え、後輪がそれに続いた

「キャロ!」
「きゃああ~!!」

光太郎は坂の頂上に立った。
最前で十分速度に乗っていた自転車は、下り坂に来て更に速い。キャロの背中は、より小さかった。
休日でありながら人通りは無く、止めてくれる者はいなかった。
いや、一つある。者ではなく物だが、坂の下にブロック塀がある。
激突すれば、止まることは止まるだろう。フリードと、キャロを犠牲にして。
…………こんなことで、失ってたまるか。

「キャロ! ブレーキだ!」

光太郎は坂を下りながら叫んだ。急なブレーキは危険だが、少しでも速度を落とさなければならない。
しかし。

「っ…ダメです! ブレーキ…効きません!」
「何だって!?」

事態の悪化は、まるで怒涛のようである。
先程の練習では、ブレーキは通常に働いた。目視による点検でも、異常なところは特に見当たらなかった。
なら、そもそもあの自転車そのものが欠陥か。冗談が過ぎて笑いも出ない。
壁は、キャロのすぐ目の前だった。
フリードの鳴き声が聞こえないのは、怯えて震えているのだろうか。

「くっ……」

光太郎の両眼尻から、幾重にも枝分かれした青筋が伸びる。瞳に赤が煌めいた。
何処に衆人の眼があるか分からない。もし見られれば、身の破滅。
が、キャロに万が一があれば、それは心の破滅。
それでも、その覚悟を決めても、間に合うかは微妙である。
汗ばむ時期でもないのに、頬を冷たい汗が流れた。

「きゃああああっ!」
「キュクルー!」

時間がない。突如自転車が止まる奇跡も無い。
光太郎は跳躍しようとした―――その時だった。

キャロを中心に置き、光が爆発した。

まるで太陽が降りてきたかのような光輝は、赤でも白でもなく、鮮烈なピンク色をしていた。

「これは……!」

光太郎は腕を上げ、見覚えのある光を遮った。転びそうになるのを、足に力を入れて防ぐ。
胸内から、最前とは別種の焦りが滲み出る。
光はキャロの魔力だ。
今までの経験から言えば、光の爆発は、フリードの暴走を意味する。
この街中で巨大化したフリードと戦えば、勝つにせよ負けるにせよただでは済まない。
光太郎の心配は、自身では無くキャロに向いていた。
もし管理局に身を寄せる日が来た時、前科は食う冷や飯の多さに繋がる。
自分に何があっても、キャロの笑顔が曇ることがあってはならない。
やがて、潮が引くように光が止む。光太郎は、恐る恐る腕を下ろした。

「………キャロ? フリード?」

坂に、二人の姿は無かった。ただ、無残に拉げた自転車が坂の下で躯を晒している。
何処に消えたのだろうか、とは考える必要もなかった。鳥の羽ばたきよりもずっと大きい羽音が、上方から降って鼓膜を叩く。

光太郎は、空を仰いだ。

そこには、フリードの巨体が浮かんでいた。鱗が陽を撥ねて白銀に輝く。
無事であったことに、とりあえず安心をする。だが、真の緊張はここからである。
今まで通り暴走していれば、拳を飛ばさなければならない。
光太郎は、身を固くして構えた。

構えて、待った。

待った。

待った。

…………そして。

「キュクルー!」

いつもと同じ、しかしいつもより遥かに大きな鳴き声が光太郎の緊張を解く。
いやそれを超えて、光太郎は喜びをさえ覚えた。
フリードが暴走していない。それが指し示す所とは、つまり。

「うう~……」
「キャロ!」

フリードの背中から、キャロが顔を出した。
意識がある。力に翻弄された時、キャロは必ず気絶していた。
少女は首を二度振り三度振り、四度に差し掛かろうとした所で光太郎に気付いた。
キャロが見下ろし、光太郎が見上げる、常とは逆の構図。

「ごめんなさい、私……」

キャロが悲しげに目尻を下げる。指示を聞かなかったことが、胸内に引っ掛かっているようだった。
しかし、危険に陥ったのはキャロ自身である。
それが無事で済み、彼女が心より反省しているのなら、光太郎から言わねばならないことなど何もない。
それよりも。

「すごいじゃないか、キャロ。フリードを、ちゃんと制御できてる」
「さっきは無我夢中で……どうやったのかわかんないです…」
「それでいいんだ。また、一緒に練習しよう」

フリードが降りてくる。羽ばたきが風を生み、光太郎の前髪を舞い狂わせた。
キャロは、光太郎に背負われていた。
フリードの制御に成功したものの、体力が尽きてしまったのである。
坂を上る力すら無く、光太郎の好意に甘えることになった。

広い背中。暖かい背中。

忍び寄ってきた眠気を、光太郎の声が払う。

「この自転車、きっと欠陥品だったんだな。でなきゃ、いきなりブレーキが効かなくなる訳がない」

キャロは首を左に傾けた。光太郎の左手が、原型の分からない鉄屑を引き摺っている。
巨大化したフリードが踏み潰してしまったのだ。欠陥品でなかったとしても、これではもう乗れない。
そのフリードは既に元の大きさに戻っており、光太郎の頭の上で機嫌良く尻尾を振っていた。
気に入って、乗りこなしていただけに、心残りは強かった。
それを察してか、顔を坂の頂上に向けたまま、光太郎が言った。

「もっと頑張って、ピカピカの新品、買ってあげるよ」

疲れ切った体に、優しさが骨の髄にまで染み渡る。しかし、キャロは横に首を振った。

「……もうしばらくは、これでいいです」

青年の首に回した腕に、残った力を込める。苦しくないか、と思ったが、歩みに乱れはなかった。
暖かい、光太郎の背中。それに比べると、自転車は少しばかり冷たい。
アパートに着くまでの、ほんの数分。
それまでは、この世界で、ただ一人キャロだけが味わえる乗り心地を楽しむことにした。

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最終更新:2008年11月14日 18:52