村田修一

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プロフィール

村田 修一 むらた しゅういち
1980年12月28日生まれ 177cm87kg 福岡県出身
東福岡−日大−横浜(02年自由枠-11)
右投げ右打ち 内野手

高校時代までは投手として活躍。
3年生の時に念願の甲子園に出場するも、のちにチームメイトとなる古木克明率いる豊田大谷高校に敗れ(当時の記事)、
同大会に出場していた松坂大輔のピッチングを見て投手では無理と判断し野手に転向する事になる。
野手転向後は東都リーグで井口(現ロッテ)に並ぶシーズン8本塁打のタイ記録、通産歴代2位タイとなる20本塁打を記録。
プロ入りの際に当然数球団からの入団オファーがあったが「自分は常にお山の大将でいたい」という理由もあり
だいたい自分は巨人が嫌いですというセリフと共に自由枠を用意していた横浜に入団を決意。

入団直後はオープン戦の大不振、同じポジションのサードには横浜の期待の星(当時)古木がいたにも関わらず
開幕2ヶ月で14本塁打、9月には月間MVPに新人月間最多本塁打を記録。
ルーキーの歴代6位となる25本塁打を放ち(古木の自滅もあり)サードのレギュラーを確保する。
新人王の期待もかかったが死球による骨折で戦線離脱。木佐貫に新人王を譲る事となる。
2年目はジンクスなのか低迷したが、3年目は組長の影に怯えつつもコンスタントに打ち、サードのポジションを不動の物とする。
4年目でついに才能開花し4番を襲名。以前のような守備の荒さは影を潜め低打率ながらも30本100打点を達成。
5年目はHR王獲得とともに率も上げ、6年目は2年連続HR王に加え3割40本100打点を達成するなどチームを引っ張るハマの四番打者として成長した。

日本代表にも北京オリンピック(予選・本選)と09年WBCで代表に選出されるなど、日本を代表する選手になりつつある。
08年の北京オリンピック本戦では体調を崩し、活躍できなかったが、09年のWBC代表では日本代表の4番に座りホームランを打つなど活躍を見せていたが、
2次ラウンド順位決定戦で右足太もも裏の肉離れを起こし無念の途中離脱となった。

09年度からベイスターズ選手会長に就任。10年、国内FA権を取得し去就が注目されたがFA権を行使せず残留。
2年間務めた選手会長を任期満了で退任し、2011年度はキャプテンとしてチームを引っ張った
11年オフにFA権を行使し、巨人へ移籍
横浜時代の背番号は「25」

ヒゲ茶髪やめる!村田が横浜主将就任
http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20101116-702731.html

実況板では

・同級生、左右の大砲という事もあり、なにかと古木と比べられる存在である。
・「三振が多いのは大打者の宿命」「併殺でも仕方ないと思って打った」「いつまでも4番候補ではいけない」等々、良くも悪くもビッグマウスの俺様主義だが、意外と繊細な一面も。
・毎年コンスタントに二桁エラーをやらかしているが、古木の影に隠れているのか批判はそこまで表面化していない。(積極的なエラーが多い事もあるだろう が)
・失策含め守備難とされているが、横の動きには強いらしい。実際横っ飛びで好捕している場面がよく見られる。
・パワプロではあまり動いてくれないらしいw
・顔文字は( ムΘラ)または 彡ムΘラ)
・いわゆる松坂世代の一人。
・'04に結婚。オフのtvkの番組にて新婚初夜の模様が放映され、すでに大きな子供がいることが判明した。
・「男・村田」「愛すべきバカ」「村者」「ぶーぶ(ブーブ)」「アグー」など呼ばれている。
・プロ野球昭和『55年会』の会長。広島東出の「村田でいいんじゃない?」発言で村田に決まったらしい(小悪魔伝説part13〜その4〜
・07年からブログを始めている。「どんだけぇ〜( ノ゜O゜) ノ」などと顔文字を多用するスタイルで、これを見て「男村田」の堅いイメージが崩れた人も多いとか。






村田インタビュー
http://www.pia.co.jp/hot_sports/hone/0729.html
二宮清純「プロ野球の時間」
http://www.ninomiyasports.com/xoops/modules/news/article.php?storyid=5115

村田語録
http://aresama11.hp.infoseek.co.jp/goroku.html


横浜村田が30日ソフトB戦で1発予告
http://www.nikkansports.com/baseball/f-bb-tp0-20060529-38716.html

 横浜村田が30日に静岡・草薙球場で行われるソフトバンク戦での、ホームランを予
告した。29日、静岡入りし、同球場で休日返上で打ち込んだ村田は「明日は1発狙い
ます。出る可能性は高い」。本塁打、打点部門でリーグ2冠の男が、力を込めた。

[2006年5月29日21時1分]

次の日↓

【横浜】村田16号に、左前適時打
http://www.nikkansports.com/baseball/f-bb-tp0-20060530-39123.html

<ソフトバンク8−3横浜>◇30日◇静岡

 横浜村田(2回の16号ソロに続き、3回は左前適時打でこの試合2打点目)「打っ
たのはスライダー。甘めの球が来たのですかさず打ちました。この後もどんどん打って
逆転していきます」

[2006年5月30日22時1分]




村田“生涯初”サヨナラ20号!(2006年06月10日付)
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2006/06/10/05.html

<横浜・オリックス>10回、横浜・村田が、右中間にサヨナラ本塁打 
 
 【横浜 7−5 オリックス】最後は4番の一振りだった。延長10回1死一塁。
カウント2―2から外角のスライダーを叩いた村田の打球が右中間スタンドに突き刺さ
る。“生涯初”のサヨナラアーチ。本塁上では金城に尻を蹴り上げられ、古木からカン
チョー。さらにベンチに戻った直後には石井にペットボトルの水を頭からぶっ掛けられた。

 「守備ではトリックプレーを見せて、皆さまの寿命を縮めてすいませんでした。だか
らもうバットで何とかするしかないなと」。爆笑を誘ったお立ち台。まさに“自作自
演”だった。8回に同点の犠飛を打ち上げた直後の9回の守備。2死一、二塁から村松
のハーフバウンドの打球を後逸。左翼・内川が二塁走者を本塁で刺し失点を防いだが、
ベンチでは頭を下げて回った。それが一転のヒーロー。これで両リーグ通じて20号1
番乗り。横浜では94年のブラッグス以来4人目の快挙だ。

 猛打を支えているのが2月に生まれた長男の存在。予定日より3カ月も早い早産で一
時は心配されたが、今月末には退院許可が出るまで元気になった。看病疲れの絵美夫人
(25)を思いやり、九州男児を返上。家事など見向きもしなかった男が自炊、洗濯、
さらには「風水によると運気が上がるというので」とトイレ掃除もこなしている。

 1日のソフトバンク戦から4番に抜てきされ「座り心地?そりゃ最高。言うことない
っス」。金城、佐伯、多村と開幕時のクリーンアップがケガで戦線離脱する中で、ハマ
の大砲はたくましさを増している。

広報リポート2005年7月30日

 まず初めに高校野球の話題です。同学年の村田・古木・小池選手ですが、同じ高校野
球選手権大会(甲子園)に出場したそうです。村田選手の話によると、出身校である東
福岡高校は、春の甲子園の2回戦で、小池選手の出身校で優勝校だった横浜高校と対戦
し、負けてしまいました。小池選手は東福岡高校を評して、「結構強かったですよ」と
余裕のコメントでした。雪辱を期して出場した夏の甲子園でしたが、残念なことに1回
戦で古木選手のいた豊田大谷高校に負けてしまいました。当時の対戦相手だった古木選
手は「中々やるじゃないか。けど初戦でも負けは負けだよ」と言っていました。勝った
相手には強気に言えるようですね。
高校生時代、村田選手はその時ピッチャーだったのですが、春・夏の甲子園で古木選手
にも小池選手にも打たれてしまったそうです。高校時代の思い出を振り返って、村田選
手は「やっぱり俺のピッチャーはダメだったな」と言っていました。

初盗塁は2003/05/07(水) 広島戦、中村とのダブルスチールでホームスチールを決める。
☆☆2003横浜実況サラット 5/6〜5/8 広島戦 part5☆☆


日本の空から見守ってくれ…村田が帰国の途に
http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20090321036.html

 右太もも裏を痛めた野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表の
村田修一内野手(横浜)は20日、ロサンゼルス発の航空機で帰国の途に就いた。

 村田は19日の韓国との2次ラウンド1位決定戦で、走塁中に右太もも裏の肉離れを起こし、交代した。
20日も車いすを使っており、自力では歩けない状態。
原監督は選手宿舎で帰国前の村田に
「素晴らしい活躍だった。日本の空からしっかり見守っていてくれ」と伝えたという。

 村田の代わりに選手登録される広島の栗原健太内野手は21日に日本を出発する予定。 (共同)

[ 2009年03月21日 10:41 ]