ああ、今日も視界の片隅で道化師が踊っている。
青白い仮面を付けたキミ。
死人のような笑顔を被ったキミ。
何故そんなにキミは踊るの?
何故そんなに笑い声を上げるの?
遠くで、耳元で、彼方で、目の前で、道化師が囁くのだ。
「こんにちは、***」
昨日も、今日も、明日も――
きっときっと踊っている。
狂気をリュートのように奏で上げる声と共に。
世界はいつだって、こんなことじゃないことばかりだ。
どんなに努力をしても。
どんなに想っても。
届かない。零れ落ちるものがある。
だって人の手は二本だけだから。
全てを救おうとする仏だって、千本しか腕がない。
無限の悲しみを掬い上げることなんて出来ない。
だから……
――悲しみが途絶えない。
薄暗い世界。
太陽が降り注ぐ青空の下で、古ぼけたビルの中で、誰にも聞こえない泣き声が響いている。
そこには見捨てられた場所。
誰もが蓋を閉じ、目を瞑り、放置している場所。
クラナガンに存在する廃棄都市の一角の、ビルの中。
ボロキレのような服と薄汚い毛布を被った汚れた少年が、たった一人で震えていた。
「……寒い。さむい、さむいよぉ」
壁によりかかり、清潔とは言い切れない毛布に包まりながら少年は震えていた。
パンの欠片もろくに入れていない胃はもはや鳴くことすらも諦め、汚れた服の中の肌はカスカスにアバラが浮き出ているほどに痩せて、顔は青白い少年。
それは変わった光景ではない。
廃棄都市の深遠に一歩足を踏み入れれば簡単に見つけられる無数の浮浪児の一人。
移住権を持たない、社会に反する違法者。
金もなく、働き場所もなく、ただ生きることすらも困難な一人の子供。
そんなのはどこにでも存在している。
どんなに人が努力しようとも、救いきれない誰かが出る。
時空世界の安定を掲げる時空管理局にだって出来ない。
この世界、ミッドチルダにとって働き手になる年齢は低い。
魔法という名の年齢によらない力が存在するからだ。
この少年ほどの年齢で、自身の数倍にも達する年齢の大人をも超える階級を持った子供すらもいる。
魔法の力。
レアスキルという固有能力。
才能さえあれば、誰だって認められる素晴らしき世界。
そう、才能さえあれば。
ならば、金も才能もない普通の子供はどう生きればいい?
親にすがって生きる? 正しい生き方だ。
社会の保護を受ける? それもまた選択の一つだ。
そう、それなら。
それなら――それすらも受けられない子供はどうすればいい?
ただ死ぬだけだ。
ただ苦しむだけだ。
誰も彼もが救われるなら、不幸なんて存在しない。
誰も彼もが幸せなら、絶望なんて存在しない。
苦しむ人なんてどこにも見当たらない。
「……痛いよぉ」
少年は苦しむ。
体の中から発せられる苦痛に、蝕むような痛みに、誰にもすがる事も出来ずに苦しむ。
誰も救ってくれない。
誰も助けてなんてくれない。
病気にかかれば、治ることを祈るしかない。
怪我をすれば、自分で治すしかない。
それすらも出来ないなら……死ぬしかない。
そんな覚悟なんて出来るわけもなく、けれども目の前で幾人もの同じ境遇の子供が死んでいった様を見たことがあった。
誰にも知られずに、誰にも名前なんて覚えられずに、死んでいく。
光に当たらない影は誰も見ない。
見えないものは、存在しない。
そんな風に、世界は出来てるんだから……
「大丈夫かい?」
カツンという足音がして、熱にうなされた視界に翻った灰色の外套を見ても、少年は幻だと信じていた。
「内臓器官に損傷あり……重度の肺炎か」
額に触れる冷たい手。
まるで死人のような体温の感じない手が、ひんやりと少年の熱を奪っていって。
「大丈夫、すぐに治る」
無表情に浮かぶ、その人影の“右眼”から緑色の光が輝いて。
少年は、それを美しいと思った。
どんなに時代が進もうとも。
どんなに世界が変わろうとも。
消えないものがある。
そう、御伽噺もそんな消えないものの一つ。
「“巡回医師”?」
クラナガンに住む平凡な主婦。
台所で洗い物をしながら息子の話を聞いていた彼女は、子供の発した一言に首を傾げた。
「そうだよ。病気や怪我をしていると治してくれるんだって、ケビンくんが言ってた!」
「ケビンくん、ね。またあの子と遊んでたの?」
子供の無邪気な顔と裏腹に母親の顔は曇る。
ケビンという少年が、息子の遊び友達にいることは知っていた。
それが普通の子供ならば、彼女はなにも言わずに、ただ祝福しただろう。
けれども、それが――廃棄都市に住む浮浪児だと知っていれば喜べなかった。
「前にも言ったでしょ? あんまりあそこに行っては駄目よ、危ないから」
息子を傷つけないように、そして自分の醜さを覆い隠すように、彼女は優しく息子を叱りつけた。
「はーい」
しょぼんと暗くなる息子の顔に、僅かな罪悪感の棘を感じながら母親は洗い物を再開しようとして。
「ねえ、ママー」
彼女は気付かなかった。
「なぁに?」
息子が不意に目を向けた方向に。
「さっきからあそこで踊ってるピエロさん、だーれ?」
何かが映っていたなんて。
カッチ、カッチ、カッチ。
時計が鳴る。
まだか、まだかと鳴り響く。
何度も、何度も、何度も。
気が狂うように鳴り響く。
カチ。
音が止まる。
そして、誰かが手に持った白銀の懐中時計の針は零時を指していた。
「時間だ」
誰かがそう告げる。
白銀の懐中時計を持つ誰かがそう告げる。
「主よ、望んだ時が来た」
それは黄金の螺旋階段。
誰にも知られない場所に築き上げられた黄金の階段。
それを踏み締めるのは、“顔無き人影”
「喝采せよ! 喝采せよ!」
狂気に歪んだ声が響く。
「現在時刻を記録せよ。クロック・クラック・クローム!」
音割れた声が鳴り響く。
「ああ、素晴らしきかな! 盲目の生贄は新たなる階段を昇る!」
それは狂人。
それは廃人。
それは異形。
誰でもない、誰かかもしれない、誰かが叫んでいる。
どこかの誰かの台詞を真似て、どこかの誰かを再現している。
「これこそが私の愛の終焉である!」
既に終わった愛を繰り返す。
踊る道化師の噂。
街が少しずつ歪んでいるのが、誰もが悟っていた。
「都市伝説みたいやねー。それどこから聞いたの、リイン?」
機動六課部隊長室。
ロングアーチ隊長の八神 はやてはそう言った。
「武装隊の人たちがぼやいていたですー。街の犯罪率が上がって、忙しくなったってー」
小さな小さな人型のユニゾンデバイス、リインⅡが言った。
街の犯罪が増えたのだと。
まるでドラックでもやっているかのように、突然暴れる人が出てきたのだと。
拳を、刃物を、魔法を使って、怯えるように犯罪者が増えている。
全てが全てではない。
けれども、彼らは語る。
“道化師が囁くのだと”
「奇っ妙な話やね。ただでさえ、レリックのことで頭が痛いのにあかんわー」
クルクルと指の間でペンを回しながら、はやてはぼやく。
「うちらとは関係ないやろうけど、早く平和になってほしいわ」
そう思っていた。
その時までは。
狂気と正常の境目を判断するのは難しい。
交差するかしないかどうか、運命とは正気と狂気のように姿を変えて、形を変えて、飛び掛ってくる。
故に誰も想像しえない。
街に蔓延する狂気の噂とは正反対に、見捨てられた廃棄都市の中だけで噂される“巡回医師”と彼女達の運命が交差するなどと。
想像は難しい。
予測は困難だった。
そして。
物語は狂いだす。
鮮麗に描かれていた筋書きは、狂気に歪む。
ありえない人物達が踊り出す。
“両手の無い男”
“鋼鉄の少女”
そして。
そして――
狂気に歪むものがまた一人。
「アハハハハハハッ!」
端正な顔を歪ませて、歪に体の姿勢を歪めて、のけぞるように嗤う男が一人。
無数に周囲に浮かぶモニターには、“誰か”と“何か”が映っていた。
そこには。
華麗な少女が銃を用いて戦う光景が。
苛烈な少女が拳を用いて戦う映像が。
鮮烈な少年が槍を用いて戦う視界が。
可憐な少女が竜を用いて戦う画像が。
「アハハハハハハハッ!」
滑稽な怪物が爪を用いて戦う光景で。
冷徹な人形が刃を用いて戦う映像で。
奇妙な甲冑が剣を用いて戦う視界で。
滑稽な化物が牙を用いて戦う画像で。
「アハハハハハハハッ!」
埋め尽くされて。
覆い尽くされて。
咆哮が、怒声が、罵声が、悲鳴が、絶叫が、響き渡って。
あらゆる色と音が狂笑を上げる男を埋め尽くして。
「――アハハハハハハハッ!!!」
嗤わせる。
喜ばせる。
震えさせる。
それは狂人。
それは超人。
それは超越者。
人の形であって、人で無き者。
愚かなる脳髄が命じた理想郷の知識で作り上げた結晶。
無限の欲望と名づけられたヒトでなき構造物の笑い声。
大脳の一部を変質させ、誰かが望んだ狂気に侵されて、誰もが望んでいない悪夢を呼び覚ます者。
そう。
呼び覚まされる悪夢とは。
――死。
それは死そのものだった。
もはや生物ではなく。
もはや現象として任じられるもの。
41の大災厄。
41の死。
その名を知る者はここには殆どいない。
しかし、それを見た者は誰も忘れることを許さない。
それは“クリッター”
“死の螺子の突き刺さった死の現象”。
そして、それは最強と呼ばれる翼あるもの。
最強の幻想。
最悪の悪夢。
ドラゴン。
いつの時代にも最強と呼ばれた幻想。
それが時空の安定を司る管理局のビルの頂上に、翼を広げていた。
「なんなの、あれは……」
それに立ち向かうものが居た。
たった三人だけれども、最高に近い三人が居た。
高町 なのは。
フェイト・T・ハラオウン。
八神 はやて。
幾多の幻想を打ち破り、戦っていた彼女たちの前に現れた死。
それにどうしょうもなく、本能的に体が震え出す。
それは自然なこと。
人間であれば、誰もが震える現象を前にして、彼女達は立ち向かっている。
ただそれだけで、偉業だった。
「……止めるよ」
「うん」
「OKや!」
自殺行為に他ならない竜殺し。
それに彼女達は挑もうというのか。
英雄という名の蛮勇。
伝説への幻想、或いは悲劇という名の地獄。
それを紡ぎ上げようとして。
「っ!?」
彼女達は気付いた。
幻想たるクリッター。
その前に挑むように、歩いてやってくる改造外套の男の姿を。
“巡回医師”の姿を。
「クリッターか」
それも最強であるドラゴン。
崩壊した閉鎖都市が終わりを告げてから、全てが終わったと思っていた。
けれども、まだ続いていたようだ。
まだ狂気は終わらないようだ。
だから。
「終わらせよう」
――右手を伸ばす。もっと、上へ。
――虚空へと――
――鋼の右手が伸びて――
――右手を伸ばす。
――前へ
彼の右手へ重なるように、まっすぐに。
何かを掴み取ろうとする手。
指間接が、擦れて、音を、鳴らしている。
それはリュートの弦をかき鳴らすように、金属音を生み出す。
静かに右手を前へと伸ばす。
なぞるように鋼の右手も前へと伸びた。
誰かが立っている。
彼の背後に誰かが立っている!
金属の擦れる音。
彼の意思に、応じるように
――動く。そう、これは動くのだ
――自在に、彼の思った通りに。
【RUOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!】
咆哮が上がる。
空間すらも焼き尽くす紅蓮の吐息が、視界の全てを焼き滅ぼしていく。
生身の体では避け切れまい。
鋭い反射神経を備えた≪猫虎≫の兵や、神経改造を行った重機関人間でさえも、
身体強化魔法をかけた魔導師であっても。
「え!?」
しかし、生きている。
彼は――”ギー”はまだ。
傷ひとつなく立っている。
鋭き咆哮が切り裂いたのは虚空のみ。
「遅い」
【RUOOOOOOOOOOOO!?!!】
「喚くな」
咆哮が上がる。
視界の全てを、町のすべてを、狂乱させる彷徨が怒りの色を交えて吼えあがる。
クリッター・ボイスか。
人間の頭脳全てを崩壊させる恐慌の声。
しかし、彼の精神と大脳はまだ死んでいない。
真紅の鋼の”彼”が彼を守る。
死にはしない。まだ。
睨む”右眼”へ意識を傾ける。
目の前の全てを”右眼”が視る。
――全てのクリッターは不滅――
――物理破壊は不可能――
――ドラゴンの場合――
――唯一の破壊方法は――
――“現在”という時間からの完全消去――
「……なるほど、確かに。人は君に何も出来ないだろう」
故に、確かに人間には破壊出来ない。
唯一の破壊方法は完全消去。
故に、絶対に人間には破壊出来ない。
けれど、けれど。
――けれど。
「けれど、どうやら。鋼の”彼”は人ではないようだ」
――”右眼”が視ている!
――”右手”と連動するかのように!
「鋼のきみ。我が≪奇械≫ポルシオン。僕は、きみにこう言おう」
「”光の如く、引き裂け”」
【赫炎のクラナガン】
――始まりの時はまだ先である (つまり始まらない)
最終更新:2008年02月17日 10:18