美術部の部室に来た。
 担任からパシリを頼まれ、部長の中井に届けろというぐるぐる巻きの製図が重い。
 こんこん失礼します。
 ……。
 静まり返っている。誰もいらっしゃられないようだ。
 まあ分かる所に置いとけば良いと言われたから、そのようにする。
 さて、では用事も済んだし下校しますか。
 と、突然がら、と物音がした。
「だぁれ?」
 ベランダ側のドアが開いた音だった。教室の空気が入れ替わった。
 見ると、立っていたのは女子生徒。短い前髪に後ろも束ねた、涼やかな容姿の子。
「西岡先生に頼まれて、製図を持って来ました。それでは」
「お待ちなさいな」
 自分が教室を出ようとすると、彼女はそう言って歩み寄ってきた。
 絵の具で汚れた前掛けを外して、木の作業台にかける。
「私が美術部の部長、中井葉留果よ。西岡先生の手伝いってことは、キミは上野くん?」
「いかにも、上野松男です」
「あの変人が気に入ってるだけあるわね。…帰ると言わず、ゆっくりしていきなさい」
 変人とは、西岡のことを言っているのか。確かによくこうして、パシらされるな。
「部活中、お忙しいでしょうし遠慮しておきます」
「今一段落ついたから、休憩するところなの。はい、これイス」
 見れば分かりますがね。何だ、ここは割と暇なのだろうか。

 彼女は冷蔵庫からティーパックを浸けた紅茶を取り出して、カップに注いだ。
 棚から出てきたのは、高級そうな缶入りのクッキーアソート。
 ……。
「上野くんは、部活何かやってるの?」
「いいえ」
 紅茶が美味い。ここ数日は蒸し暑くて、喉が渇くからちょうど良かった。
「キミに美術部に入ってもらえると、嬉しいんだけどな。今私一人だし」
「物を出しての入部勧誘はフェアじゃありませんよ」
「うふふ、確かに」
 今もそれなりに嬉しそうだ。本当に普段は退屈しているのだろう。
「ここは授業や他の部活のように時間に追われる訳ではなく、ひたすらに自分と向き合い、没頭出来る場所」
「不思議と良い響きですね」
「キミはそう思うタイプだ、って、何となく分かるもの」
 類は友を呼ぶと言いたい訳だな。
「と言いつつ大した活動はしていないから、手抜き適当、浮き沈みの緩い部よ」
「なるほど?」
「今日のように町と空を見ながら適当なスケッチを描くこともあれば、部費使って画廊見に行ったり、思いつきで何でもやれる」
 過疎故に自由気侭なスタイル――分からんでもない。
「少しは興味湧いた? 私はそう見えるけど」
「お言葉ですが自分は毎日朝夕、散歩を欠かしたくない性分でして」
「高尚で素敵ね。…あ、皮肉に聞こえたらごめんなさい」
 寧ろ皮肉ってもらわないとね。

「紅茶ごちそうさまでした」
 席を立って、そろそろお暇させて頂くか。
「あら、忙しないのね」
「良い返事を返すことが出来ず、恐縮です。それでは」
 一礼して外に出ようとする。
「上野くん」
「はい」
「キミに頼みごとを一つ、良いかしら?」
 振り返ると、彼女は顎に手を置いて、何かを測るような目をしていた。
「可能な範囲であれば」
「…ヌードデッサンのモデルを、引き受けてほしいの」
 なるほど、その目は変態的視点という訳ですか。
「非常識な依頼はせめて気心の知れた人にしてください」
「あら、私は真面目なつもりで言ってるのよ? 疚しい気があるとしたら、キミの方なんじゃない?」
 挑発でもするつもりかと。その手には乗らない。
「だとしても人前で裸を晒すなんて、特殊に変わりはないですよ。残念でなく当然お断りします」
「キミという人は、何だか不思議な魅力に満ち溢れているわ。…だからどうしても、欲しい」
 困った絡み方をする。このご時世、無関心に食い下がる人なんて珍しい。
「今の私には、キミを引き込むだけの充分な縁も力もないけど、少し待って? 良い方法を考えたいの」
 ……。

 彼女は西日の差し込む窓を背に、制服を脱いだ。
 白い夏服のシャツに、薄地のプリーツスカートを丁寧に畳んで、作業台に置く。
「何の真似ですか」
「とりあえず、人に物を頼む時は誠意を見せて対等を示すこと。私もヌードになるわ」
 芸術家肌というのだろうか、どこか頭の螺子が緩んででもいるような判断をする。
 逃げ出しても良かったが、妙に卑怯という後ろめたさが尾を引きそうで、躊躇した。
 さりとて今、イスに腰掛けてソックスを下ろそうとしている彼女は、駆け引きでもなく本気だろう。
「困りますよ。後生ですから、服を来てもらえませんか」
「キミはこうして強攻策に出るとうろたえるタイプだって、私は知ってる」
「では問いますが、抵抗はないんですか?」
「人前でほいほい脱げるようじゃ、痴女か露出狂ね。違うわ、目的故に手段がある」
 ……。
「面白いことを言いますが、物事には段階と節度があると思いますよ」
「頑ななのね」
 そうして彼女は立ち上がって、見せつけるように背中に手を回し、胸を覆う物を外す。
 膨らんだ胸と、薄赤の突起が開ける。
「だったらこういうのはどう? ――私はキミに、一目惚れしてしまったの」
「唐突ですね」
「キミの気を引く為なら、どんなに大胆にだってなれる。今からそれを、証明して見せるわ」
 そして下着を下ろす。黒い物が生え備わった局部が、こちらの視界に晒される。
 足を通し、最後に踵を上げて取ってしまうと、それを目の前にぶら下げて妖笑を浮かべる。
「どう?」

 溜息を一つ吐いて、自分は少し火照り痛む額に手を置いた。
「捩れた勇気には感服しますが、そこまでして面識のない相手の、ヌードデッサンを書きたいと思うものですか」
「単なる思いつきよ。…でも、一人じゃ出来ないもの。二人だから出来ること――いろいろあるでしょ?」
「まあ、じゃんけんとか?」
 冗談で言うと、彼女はくすくすと上品に笑った。
 暇なのは理解出来るが、それで全裸の見せ合いをするというのは、趣味が宜しいとは言えない。
「……ねぇ?」
「はい」
「異性の裸に、リビドーを感じたりはしないの?」
 誘うように、彼女は目の前に寄って来る。
「滾々と湧き出る性欲は、発散しないといけないわ。一人なら自慰、二人なら……」
 そう言いながら左手の人差し指と中指を、自分のかけている眼鏡のブリッジに、そっと置いてきた。
「そういう目的なら重ねてお断りです。人が人なら幻滅しますよ」
「ちょっとからかってみただけよ。ただ、そんな内に宿るエロスを作品に昇華させたい――キミを見て、直感的にそう思ったの」
 ある意味高校生らしい、混同と言うべきなのだろうか。
 ……。
 まあ同じ高校生である自分が言うのも、可笑しなことだな。
「上手く描いてみせるわ。だから、お願い?」
 ……。
 これ以上どう言って断ったものかと悩んでいると、彼女はもう一度笑った。
 そして一方的にこちらの眼鏡を取ると、包むように折り畳んだ。

 視界がぼやける。
「眼鏡、返してくれませんか」
「キミ、綺麗な顔してるわ。さっきからずっと、私の中の潜在欲求を擽るの」
 描きたいと思う風景があるように、人があるということか?
 何に魅せられるかは、個別。大自然の谷に興奮を抱く人もいれば、都会の薄汚れた路地裏に誘われる人もいる。
「描きたくて、たまらないの。お願い…キミの裸を、見せて?」
 ……。
「まるで、他人の持っている蝶の標本を見たいとせがむ、小学生ですね」
 上手い比喩が思いつかなかった。
 もう一度額に手を当てて、自問自答する。深い自分の中と、思いを照らし合わせる。
 ……。
「分かりました。ただし、条件があります」
「なぁに?」
「描いた絵は、自分が引き取ります。それと、あなたは服を着ること」
「……良いわ」
 そう言うと彼女は服を着直し、次に教室の鍵を一つ一つ閉め始めた。
「眼鏡は、返してください」
「視界が定まらず不安な、曖昧に空を見据えた物憂げな眼差しをしてほしいの。キミを何よりも、魅力的に芸術的に描きたいから」
 見えざるもの、か。素人が意見するでも、確かに裸眼鏡は滑稽かもしれない。
 その場で手を引かれ、自分は隣の部屋に連れて行かれた。
「ここで着替えてもらって良いかしら。私も準備をしてくるから、出来たらこのブランケットを巻いてから、呼んでくれる?」

 何故引き受けてしまったのか。
 人前で裸を晒すのに抵抗がない人間なんて、十代以上にはいないだろう。
 しかし眼鏡を取られた辺りで、どうも感覚が麻痺している。
 催眠術にかけられた、或いはまどろみの白昼夢を、静かな部屋の中で紡いでいるような心地だ。
 夢の中では厭わない。そんな高揚し開放感に溢れた非現実的な世界が今、現実と重なる。
 自分は今制服とシャツを脱いだところだ。
 今から風呂に入る訳でも何でもない。見せる為だけに、ありのままの姿になる。
 ……。
「良いですよ」
 ブランケットを羽織り、彼女を待つ。
 スリルか、好意か、爽やかな開放感か、それとも…下衆な欲望を求めているのか。
 何も感じない。感じられない。無意識の中に、抑え込めているのだと思う。
 今までそんな自分を、自分が構成してきた。顔と心を、言わば何重もの仮面で覆った。
 体だけでも、時折でも素であるべきを求めているのかもしれない。
 そしてその拠り所に、彼女を受け入れた。
「おまたせ、私も良いわ。……上野くん、改めてありがとう」
「はい?」
「キミのこと、とても尊く思うわ。子どもの頃に無くした人形が戻ってきたみたいに、嬉しいの」
「そういうことは終わってから言ってください」
「そうね。過度な感情移入は、絵に毒。10%の自制を保って、すぅ…はぁ――さぁ、来なさい」
 再び彼女の手に引かれ、行く。部屋の奥に円柱状のステージと、向き合うように絵画のスペース。
「この上で、ブランケットを取って。初めてだから、それからは楽にしててくれて良いわ」

 苦痛にならないポーズを指示され、体を固定する。
 その視線で全てを見透かされるような、適度な緊張がある。
 しかし、走る鉛筆の小気味良い響きは授業やその他の感覚とは一線を画す。
 可能な限り、彼女の言う曖昧な感情に身を任せ、無を装い演じる。
 描き手と描かれ手、どちらも生が希薄になったかのような、そんな空気をどこか他人事のように感じた。
 ……。
「――お疲れ様。出来たわ」
 終わりの言葉と共に、思わず全身の力が抜けた。深い息を吐いてしまった。
 とりあえずブランケットを取って、いそいそと体に纏う。
「どうにも慣れませんよ。眼鏡を、返してもらえますか?」
「上野くん」
「はい」
 彼女は目の前にやってきた。ぼやけた視界にも、確かに映る表情がある。
「?」
「……返すわ」
 そう言うとこちらに渡さずに直接、かけてもらった。
「素敵な目。とても…」
 彼女の表情は、偽りのない純の色をしていた。
 そしてその両手を頬で留めると、顔を、寄せた。
 ……。
 目を閉じて応じた。ただ自然に、そうすることを受け入れられた。

 艶めいた空気が、閉じた室内に充満していく。
 唇を離した彼女は、呆けたような表情で視線に絡まったままだ。
 ぞくぞくと体を走る気。払えと理性が囁くが、体が硬直して動かない。
「情熱を、抑えられないの…思いを全て込めて、描ききったはずなのに」
 ……。
「ねぇ?」
 緊張と欲求を込み上がらせるように、息が上がってきた。
「はい」
「…私を、抱きなさい」
「出来ません」
「お願い…こんなこと、キミにしか頼めないの」
 余裕のない表情。取り憑かれたように、必死に求める。
「今まで、ずっと一人でしてて、でも物足りなくて……はしたないわ、私…」
 段々と、崩れ始める。やがてどろどろに、溶けてしまいそうに見える。
「でも好きだって思ってるだけじゃ、絵に込めるだけじゃ……イヤ」
「中井さん、落ち着いてください」
「……上野くん。私、本物が欲しい。キミと繋がりたい。重なってみたい」
 自分はその時、舵取りを誤ってしまったのかもしれない。
 何よりも先に彼女をとにかく、”助けないといけない”と思ってしまった。
「……」
「分かりました。その代わり、相応の覚悟をしてください」

 まずは束ねた髪を遠慮なく解放する。女性らしい長いストレートは色気を纏う。
 そして眼鏡も外した上で、服を今度は自分が脱がしていく。
 手を躍らせている間、唇を何度も吸いつけ貪る彼女に、唇で優しいつもりに応じる。
「ぴちゃ…」
 触れただけで敏感に痺れる舌先。慣らすように、絡めては引くをもどかしく繰り返す。
 やがて豊潤な舌の感覚に乗せて、唾液を混ぜ転がす。
 下着一枚まで剥ぎ終えた時、二の腕を掴んでいた彼女の手がこちらのブランケットを脱がせた。
「ふあ…」
 息継ぎの間に、力が抜けたのか体全体を預けられる。
「座りましょうか」
「…ええ」
 ステージの縁にイスのように腰掛けて、寄りかかる彼女の体に触れながら、また口づける。
 肌に肌を重ねられ、悩ましく動き擦れる隆起の先。
「後ろを向いて」
 彼女は黙って応じた。背中から寄りかかる体を深く収める。
「う…んっ!」
 背後から胸部に指を滑らせ、掌で包む。優しく捏ねて震わせる。
 相当に熱が高まっているのか、綺麗な声と共に彼女は悶える。
「うえの、く…っ!」
 抱き込み耳元にそっと頬を擦りつけると、途端だった。
 絶頂が手に取るように伝わってから、その体は脱力し溜息を吐く。

 彼女の曲げた膝に構うことなく、自分は下着の中に手を入れた。
 周囲を丁寧に擦り、焦らすように割れ目をなぞり、そして大事な場所に指を少しだけ入れて、軽く刺激する。
「…っ!」
 神経の剥き出しになった部分に、指だけの摩擦。感覚に耐える術はないのだろう。
 既に少し染みた下着を膝まで下ろした後、再び指で、今度は強く攻める。
「あ…あっ!」
 指に液が卑猥に絡む。溢れて、そして呆気なく二度目を迎える。
「――っ!」
 果てたところで顔を寄せ口づける。快感に弛緩し、その目元に潤みを蓄えた彼女。
 彼女はすっかり大人しく、そして落ち着いていた。一番の疼きは解消出来たのか。
「ちゅ……ふあぁ…」
 それでも甘えるように止めなかった口づけに、ようやく区切りをつけた。
「…上野、くん」
 再度向き合い、甘い視線を交わしてくる。左手がそっと、こちらの下を覆う。
「はい」
「もう、キミしか見えない。好き」
 包み扱くような手つきで悪戯を繰り返されると、下は更に本気に振れる。
 妖しい息遣い。方向性は、一致している。
「本番をしても?」
「ええ、思いきり…して」

 床にブランケットを敷いて彼女を寝かすと、そっと開脚させる。
 下を手にとって位置を定め、彼女の穴に接する。
「挿れます」
 緊張しながら、膣の入口から中へ。
「う…くぅっ…!」
 きつく閉じようとする肉体を解そうと、上半身を伸ばし舌で彼女の体の部分を舐める。
「…中井さん、安心して」
 ケアをしながら、通していく。処女の証明を下で貫いて、奥の奥まで行く。
「…はっ…」
「痛くなかったですか?」
「痛いわ…けど、それ以上に、無我夢中」
 確かに今、繋がっている。少しの痛みと気持ち良さと征服感に近い高揚に? 虜になる。
 腰を動かして、少しずつ突き始める。熱く擦れる下は火傷しそうでも止まらない。
「はぁっ、あんっ…」
 肉体に包まれる。手よりも柔らかく弾力のある濡れた壁が、意思あるように下を何度も飲み込んでくる。
 彼女は夢中に快感を求めて、本能の赴くまま嬌声を上げる。
「中井さん、はあ…立てる?」
「だめっ…このまま…最後まで…」
「分かりました」
 軽く重なって、腰を動かしながら口づけ。軽く中毒を起こしていると言えるかもしれない。

 流れが来るのを自分で察知した。最後に全速力で腰を入れて、我慢の限界にまで到達させた。
「うえの、くんっ…?」
「う、わっ…」
 強制シャットダウンするように、下を膣内から引き抜いた直後だった。
「っっ――!?」
 抑えた下から、彼女の外側に乳白の液がぶちまけられた。
 数度に渡る射精の鼓動に、体力と気力は急激に失われていく。
「はあ…はあ……あっ――」
 液切れと同時に隣に脱落。もう無理だ。横になって休む。
「はぁ…はぁ…」
「はあ……」
「……」
 ……。
「……上野くんが、私の一番最初の人で、良かった」
「後悔したりは、していませんか?」
「うぅん。…ねぇ」
 彼女はこちらの手を握ってきた。心強い、感じがした。
「はい」
「もう一度だけ、キスしても良いかしら」
「良いですよ」
 すると彼女は体半分起こしてから、見下ろしてきた。
 優しい表情。そしてそのまま、上から被さるように――。

 たった一日で事を為す――彼女の場合、そうなのだろう。
 腕の中で愛でるように撫でると、一層強く体を寄り添わす。
「私、キミにリードされすぎね」
「どういたしまして」
「…上野くん」
 まだ何か名残惜むと言うのかね?
「何ですか」
「今度はまたヌードで、油彩の画を描きたいわ」
 ……。
「――だから、美術部に入部してくださいな」
「こうして鑑賞品と玩具にされる為にですか」
「あら、よく分かってるじゃない」
 そう言うと彼女は起き上がった。
「服を着ましょ? 終わった後は、何だか恥ずかしいわ」
「そうですね」
「あ、はいこれ」
 手渡されたのは眼鏡と、そして一枚の絵。早速眼鏡をかけて、鑑賞する。
 ……。
 そのデッサンは素晴らしいものかは知れないが、自分を心の底から強く惹き込む力があった。
 丁寧で、しかし狂おしいほどに荒い部分も同居して、少し心を乱せば崩れてしまいそうなタッチで、相手の姿を描いている。
 それは、ある意味で自分を、そして彼女の内面を映した鏡かもしれない。
 一枚の絵が、幾多もの複雑な感情を語っている。魅力的で、芸術的――なるほど?

 隣の部屋でぼんやりと着替えを済ませた後、彼女の元に戻る。
「この絵は貰っても?」
「ええ。あんなに感情移入出来たのは久々よ。キミとは言わば、心理的な波長が合うってところかしら」
 その言葉は新鮮に受け取れた。
「なのに、不思議と描ききった気がしないの。まだまだキミを知っていくことで、キミを上手く描けるようになる気がするわ」
「世に創作意欲の種は尽きまじ、と」
 彼女はくすくすと笑い、左手を差し出してきた。
「はしたないこと頼んで、幻滅した?」
「いいえ。でも、美術部には入りません」
「それは残念ね」
 そう言って差し出した左の掌を寂しそうに見つめるのだった。
 ここまで見ていてふと気づいた。彼女は左利きだ。デッサンの鉛筆を握る手も左、ティーカップを持つ手も左。
 感性・天才肌の左利きは、時に思いつきで行動し思わぬ相手に夢中になる。
「なら無理に誘わないわ。代わりに上野くんと私、個人として関係を深めていければ良いもの」
「はい?」 
 彼女はこちらの手を取ると、両手で包むように挟んだ。
「美的感覚と恋愛感情は一般的には全くの別物ね。でも、上野くん? 私、キミのことが好きみたい」
「性行為のせいですか」
「…もしそうだとしても、私を嫌わないで?」
 ……。
「……一生を共にする、パートナーになりたいと思うから」


 最近は日没も遅く、何とか日課である夕方の散歩には間に合った。
 赤く染まった空を見ながら、川の土手道を歩く。
 歩きながら、今日自分の身に起きた出来事を一つ一つ反芻する。
 ……。
 内向的な肌の色に端整な顔と肢体、大人びた性格。深く印象付けられた、アプローチ。
 直情にのめり込む彼女を、受け止められる限り受け止めるべきだと感じた。
 何故なら、彼女がこちらに抱いているであろう美的その他の感覚を、漠然と自分もまた彼女に見ているからだ。
 気分が良かった。夢に出てくる名も知れない恋人に出会ったような、そんな一日だった。
 自分は彼女――中井葉留果と交際することにした。
「一緒に帰るわ」
 今日の美術部は早仕舞となり、彼女は自分の帰り道に同行した。
 微笑みながら遠慮もなく寄り添い、随分なアピールだ。
「ねぇ。今度、私の描いた絵を見に行かせてくれる?」
「今更断る理由もありません、か」
「私、誰かとお付き合いするのは初めてなの。こんな素敵な気持ちになったのは、キミが最初だから」
 どこまで信じて良いものやら、分からない。
 悪乗りが過ぎただけのことかもしれない。感情移入が起こした、元は取るに足らない興味?
 頭を冷やしましょうとは、言えなかった。何故なら自分は甘く、強攻策に出られるとうろたえるタイプで、そして――。
 そして満更でもないからだと、そういうことになる。
「だから、優しくしなさい?」
 自分は彼女を、受け入れられる。

「一言言わせてもらいますが」
「なぁに?」
「人は容姿もですが、時間をかけて性格を知り合ってからパートナーを決めるものですよ」
「ええ。でもキミのことは何となく分かる。まるで自分を見ているようでいて、なのにこんなにも胸が熱い」
「不思議ですね」
「最初は興味、そして憧れに類似した気持ちだと思った。だから、絵にして確かめようとしたわ」
「それで?」
「運命の一目惚れなのかしらね? キミを求めている自分がいることが分かった。これから何年もってくらいに」
「あなたがそれで良いなら、何も言いません」
「ありがとう。…今日はここでお別れね。最後にもう一つ、頼みごとをしたいのだけど」
「ここでヌードになれと言うのはさすがに容赦願います」
「……」
「…中井さんが今日まで全くの他人だったとは思えないですよ。これは突然の、恋の力ですね」
「恋……ええ。ちょっと、来て?」
「はい。何ですか?」
「――ん…」
「…ふ」
「ふぅ……キミとこうすると、何だかとても安心して心の底から勇気が出るみたい。…ありがとう」
「どういたしまして。今日の出会いに感謝します――説法のようですが」
「うふふ…好きよ、上野くん。また明日」
「はい」





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最終更新:2010年06月28日 12:05