948 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/20(月) 06:57:52 ID:huPsKwFg
◆プロローグ

 『僕は誰?』
      『今どこにいる?』
              『何をしている?』

“畜生、なんてことだ……”
 ぼんやりとした意識の中。頭の奥底で、誰かの声が響いた。
“なんてことだ……”
 続けてもう一度、同じ言葉が繰り返される。
 それは、心の底から絶望したような、そんな声だった。
 例えるなら、最高裁で死刑宣告を言い渡された囚人のような……
 一拍間を置いて、その『囚人』は懇願するような口調で、こちらに向かって語りかけてきた。
 いや、正確には声の主が僕に向けて『語りかけた』のかどうかはわからない。
 もしかしたら、僕が勝手にそう感じただけなのかもしれない。
 ただ、誰であれ、まるで神託のように、頭の中から何者かの声が聞こえてきた、となれば、それが自分自身とは無関係な事柄だとは思わないだろう。
“頼む……!”
 それにしても、聞けば聞くほどに切羽詰まった声音だ。
 彼が、僕に対して何かを伝えようとしていると仮定して、一体何を頼むというのだろう?
 僕は何となく気になって、その声に意識を集中してみた。
 そんな事をするまでもなく、否応なしに聞こえてくるものなのかもしれないが。
“頼む……死ぬんだ。死んでくれ……!”
 直後。突然、物騒な言葉を投げかけられて、思考停止を余儀なくされる。
 コイツは、何を言ってるんだ? 『死んでくれ』ってどういうことだ!?
 大体、人に『死ね』って言われて『はい、死にます』なんて答える人間はいないだろう。
 ……と。
 そこで唐突に、僕は気付いた。気付いてしまった。
 この声は……どこかで聞いたことがある……!?
 誰だ? 誰だ? 誰だ? 誰だ? 誰だ? 誰だ?
 靄がかかったような脳味噌に鞭を打ち、思考を巡らせること数秒。
 その声の『正体』に思い至った瞬間、ありえない事実に疑問を差し挟む余地すらなく、僕の意識はブラックアウトした。

949 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/20(月) 06:58:33 ID:huPsKwFg
◆白い牢獄

 瞼を開いた途端、眩しいくらいに鮮烈な『白』が瞳に飛び込んできた。
 頭は鉛のように重く、記憶は所々欠けてしまったみたいにはっきりとしない。
 自分はベッドに寝かされていて、白一色に染められた部屋の天井を茫然と見ている。
 たったそれだけの事を理解するのに、数分もの時間が必要なほどだった。
 僕は幽鬼のような緩慢な動作で上半身を起こすと、周囲を見回す。
「……なんだ、これ?」
 思わず、そんな間の抜けた台詞が零れる。床も、壁も、勿論天井も。部屋の中は見渡す限りの、白だった。
 広さは――距離感を失うくらい殺風景なので、目測が合っているか定かではないが――十二畳ほどだろうか。
 空調もない。電灯もない。窓枠もない。内装も何もあったもんじゃない、白い立方体の内部に、僕はいた。
 体が小さくなって、サイコロの中に閉じ込められたとしたらこんな感じかもしれない、と愚にも付かないことを考える。
 それは、小さな子供たちがスゴロクで遊ぶ時に使う、何の変哲もないサイコロで、誰も、人間がこの中に入っているなんて思いもしない。
 だから、子供たちは、無邪気な笑顔を湛えたまま、サイコロを振る。サイコロの中にいる人間は、その回転に翻弄されて、壁面に叩き付けられる。
 全身がバラバラになるような衝撃を受けて、吐血する。白い壁に、赤い斑点ができる。蚊の鳴くような叫びは、外には届かない。
 もしかしたら届いているのかもしれないが、遊びに夢中な子供たちは気付かない振りで、またサイコロを投げる。
 子供たちは、飽きるまで、サイコロを振り続ける。何度も、何度も、何度も、何度も――
 ……何を考えているんだろうか、僕は。
 大きく首を振って、妄想を頭から追い出す。心の準備もないままに、わけのわからない状況に放り込まれて、精神的に参っているのかもしれない。
 今はそんな、薄気味の悪い妄想に囚われている場合ではない。
 それよりももっと、解決しなければならない、重要な問題がある筈だ。

950 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/20(月) 06:59:10 ID:huPsKwFg
 そう。そもそも……どうして僕は、こんな場所にいるのだろうか?
 目覚めた時から、頭の片隅で絶えず考え続けてはいた事だった。が、一向に、ここに至るまでの経緯が思い出せない。
 まさかとは思うが、記憶喪失にでもなってしまったというのだろうか。
 僕は、自分自身に関する情報を一つ一つ、反復作業のように確認して、錆付いた記憶の扉を開いてゆく。
 僕の名前は佐々野智信(ささの とものぶ)年齢は十九。生まれは東地区五番街の四。階級は三級市民。
 僕が暮らしているのは『一級市民』と呼ばれる一握りの人間と、それを補佐するコンピュータによって運営される都市、マシン・シティ。
 カースト制にも似た厳しい階級制度が導入されている都市で、そこに暮らす市民の階級は一級~五級に分類される。
 階級ごとの地位について、見も蓋もない解説をしてしまうならば――
 一級市民が支配者、二級市民が上流階級、三級市民が中流階級、四級市民が下流階級、五級市民が犯罪者、と言ったところか。
 そして、僕の目標は、いつの日か昇格試験に合格して、栄誉ある(一部では神とも呼ばれている)一級市民になることだ。
 うん、大丈夫。記憶に目立った異常は認められない。『どうして僕はここにいるのか』という、最も重要な一点を除いては、だが。
 限局性健忘、という言葉が頭を掠める。心因性の健忘(外傷性の健忘ならば、無傷ではいられないだろう)では、一番ポピュラーな症例だ。
 本当に、そうなのか……? 今僕の身に起きているのは果たして、『健忘』という常識の範疇にカテゴライズされるような現象なのか……?
 自分でそれらしい理屈をつけておいて、尚、歯に挟まった異物のように、違和感がある。
 仮にそうだとしても、この限局性健忘が、完全な偶然の産物であるなどとは到底思えなかった。
 気にはかかるが、記憶に関しては、悩んだ所でどうにもならなさそうではある。時間の経過が、回復に導いてくれることを祈るしかない。

 さて。こうしていつまでも、ベッドの上で座っていても仕方がない。
 兎に角、部屋を調べてみよう。そう決めて、僕は足を床に落とすと、重い腰を上げた。
 立ち上がった状態で、僕は改めて、部屋のあちらこちらに視線を這わせてみる。

952 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/20(月) 07:00:11 ID:huPsKwFg
 そこで、自分が寝かされていた部屋の片隅のパイプベッド、その丁度反対側に、もう一つ、全く同じデザインのベッドがあるのを発見した。
 先程気が付かなかったのは、そのベッドのデザインが保護色の役割(シーツだけでなく、骨格であるパイプまで白だ)を果たしている所為なのか、それとも単に寝惚けていて見落としたのか。
 そのベッドには、人が横たわっていて、ベッドの下には、淡い水色をした箱のようなものがあるのが見えた。
「ふぅ……」
 無意識の内に、口から安堵の溜め息が漏れていた。僕の他にも、誰かがいる。
 やはり、一人ではない、というのは心強いものがある。記憶が欠けてしまっていて、右も左もわからない、そんな異常な状況下であれば、尚更だ。
 僕は早歩きで、ベッドへと近付く。ベッドに寝かされていたのは、一人の小柄な少女だった。目を瞑り、両手を胸の上で組み合わせている。
 そっと、口許に手をかざすと、息遣いが伝わってくる。どうやら、眠っているだけのようだ。
 そのまま暫く、少女を観察する。髪は胸元まで伸びたストレート。上は長袖のフリルブラウスに、薄手のカーディガンを羽織っており、下はフレアスカート。
 偶然か必然かは知る由もないが、少女の衣服は上下共に、すべて白で統一されていた。
 肌も、無機的な人形のように生白く、彼女が部屋の構成要素の一部なのではないか、などという錯覚すら覚える。
 ともかく、起きてもらわなければ。そう思い、肩に右手をかけて、軽く体を揺すってみる。
 正直、その気持ち良さそうな寝姿を見ていると、若干起こすのが躊躇われたのだが、起きてもらわないことには状況は進展しない。
 彼女には、色々と聞いておきたいこともある。
「おい、きみ、起きてくれ」
 声をかけながら、何度か揺さぶってみる。と、少女は声にならない小さな声を発して、ゆっくりと目を開いた。
 そして、寝惚け眼のまま、視線をひとしきり泳がせると、僕が立っている方向に顔を向けた。

957 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/21(火) 07:00:26 ID:WkZZTR7D
「え……?」
 その表情に、困惑の色が混じった。
「あの……あなた、誰ですか? ここは……?」
 眠りから覚醒した少女の第一声を聞いて、僕はある種の諦念を抱かざるを得なかった。
 ああ、これは――予想していなかったわけではないが――なんてことだろう。
 まず間違いない。彼女も、僕と同じ境遇なのだ。それはつまり、記憶の部分欠落が、ただの健忘ではないことを意味する。
 何か、得体の知れない、大きな力が働いている。そう解釈する以外にない。
 眉間に皺を寄せて考え込んでいる僕に、少女が再び声をかける。
「あの……」
 僕を見つめる少女の表情は、困惑から不安へと移行していた。
「落ち着いて聞いてほしい」
 ともすれば、動揺して泣き出してしまいそうな雰囲気を察して、予め予防線を張っておく。
「は、はい」
 少女は、そこでようやく上半身を起こすと、姿勢を正して、こくりと頷く。
 僕はなるべく彼女にショックを与えないように、ゆったりとした口調を心がけた。
「残念ながら、僕にもわからない。ここはどこなのか、どうしてこんな場所にいるのか……」
「……そうなんですか」
 思いの外、反応は淡白だった。繊細そうな容姿に似合わず豪胆なのか、或いは、まだ現実感が希薄なのか。
 もしかすると、内心、僕の方が取り乱しているくらいかもしれなかった。
「僕は佐々野。佐々野智信。きみの名前は? 覚えていたら教えてほしい」
「私は……朝霧留美(あさぎり るみ)です。青鷺学園、中等部の三年生……」
「覚えていないのは、ここに来るまでの経緯だけだね?」
 確認するようにそう問いかける。彼女は、黙って首を縦に振った。
 思った通り、僕と彼女の記憶障害における『症状』は、完全に一致しているようだ。
「それじゃあ、佐々野さんも……?」
「ああ。きみと同じ、と考えてもらって差し支えない。要は、起きたのが早いか遅いかの違いだよ」
 僕はそう言って、反対側――自分が寝かされていたベッドを示した。
「とりあえず、僕は部屋を隅々まで調べてみる。入ってきたのだから、必ずどこかに出口はあるはずだ」
「そ、それなら私も手伝います。一人でじっとしてるの、不安ですから」
 少女が勢い良く立ち上がる。かくして、二人による部屋の調査が始まった。

958 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/21(火) 07:01:08 ID:WkZZTR7D
 ひとまず、壁伝いに部屋を一周しつつ、出入り口があるかどうかを調べてみることにした。
 お世辞にも広いと言えるような部屋ではないから、見落としがないよう丹念に壁面を調べながら進んでも、すぐに一周できる。
 さして、手間のかかる作業ではないはずだ。
「あ、見てください。ここ」
 半周もしない内に、彼女が、僕の服の裾を引いて、壁の一点を指差した。
 見ると、そこには四角い切れ込みが入っていて、下には、半円の取っ手のようなものが付いている。
「これ、開くのかな?」
 僕は取っ手部分に指をかけて、上方向に力を込めてみた。
 すると、郵便ポストの蓋が内側から開くみたいな形で、切れ込み部分が跳ね上がって、そのまま固定された。
 部屋に、ぱたん、という呆けない音が響く。そして、その中から現れたのは、ドアノブだった。
 例によって例の如く、そのドアノブもまた、持ち手から可動部分に至るまで、一点の曇りもない『白』だ。
「まったく、偏執的というか何というか……徹底するにもほどがある」
 一人ごちながら、押すなり引くなりしてみようかとノブを掴んだ途端、彼女が不吉な台詞を呟いた。
「何かの仕掛けでしょうか? 罠とかじゃ、ないですよね?」
 罠……? 考えてもいなかった可能性の指摘に、手が止まる。
 そう言えば、と、昔見た映画にそんなストーリーがあったのを思い出す。
 どこからか連れて来られた男女。無数の立方体で構成された部屋。行く手を阻むレトロなトラップ。
 自分の体が壁から突き出した針で串刺しにされている情景を想像してしまって、背筋を冷たい汗が流れる。
「わからない。……が、注意するに越したことは無いね」
 動揺を隠しながら、やっとの思いでそう答えて、僕は暗澹たる気持ちになった。
 わからない。僕が咄嗟に発したその一言に、現状の全てが集約されているように思えたからだ。
 ここは何処なんだ? この部屋は何なんだ? どうして僕が? どうして彼女が?
 疑問はそれこそ、腐るほどある。だが、何もかもがわからない。従って、何の指針もない。
 僕らは今、確かなことなど何一つありはしない、とても不安定な足場に立たされている。彼女の発言で、期せずしてそれを実感した。
 気取って『注意するに越したことはない』などとは言っても、一体何に、どうやって、注意すればいいのかすら定かではないのだ。
 しかし、だからと言って、このまま右手でノブを握り締めたまま、棒立ちになっていたって仕方がない。
「……回すよ」
 それは、隣で心配そうに見ている彼女にかけた言葉というよりは、自分自身に行動を促す為の言葉だった。
 ノブは、なんの抵抗もなく回り、滑らかな動きで、自らの役目を全うした。そのまま、内側に向かってノブを引く。
 それに合わせて、目の前の壁がスライドする。壁の一部に擬態していた扉がその姿を現す。

959 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/21(火) 07:02:09 ID:WkZZTR7D
 僕は中途半端に開いた扉の隙間から、恐る恐る中を覗いてみた。
「あれ……?」
 果たして、鬼が出るか蛇が出るか。彼女の『罠とかじゃないですよね』発言の余韻を引き摺りながら、悲壮な覚悟で扉を開けた僕を待ち受けていたのは、意外な光景だった。
 扉の向こうは小さな個室――トイレだった。内装全てが白であることを除けば、各家庭、どこにでもあるような、水洗式のトイレだ。
 ペーパーホルダーにはトイレットペーパーが準備されていて、両サイドには備え付けの手すりまである。
「どうしたんですか?」
 真後ろに立っている彼女が聞いてくる。僕の背に視線を遮られて、扉の中は見えていないらしい。
 何というか、適切な言葉が見つからなかったので、僕は扉の前から体をずらして、ジェスチャーで中を見るよう促した。
 百聞は一見に如かず。口で説明するよりも、実際に見てもらった方が早い。
 頭上にクエスチョンマークを浮かべながら、彼女は中を確認する。そして、暫しの沈黙。
「トイレ……ですね」
「そうらしい」
 そんな、間の抜けた会話を交わしてから、お互い、微妙な表情で目を見合わせた。
 凝ったギミックの先にあるものが、何の変哲もないトイレというのはどこかシュールだ。リアクションに困るのも頷ける。
 何にせよ、出口でないなら今は用はない。扉を閉め、部屋の探索を再開する。
 と、内周の三分の二程度を調べた所で、今度は僕が同じものを見つけた。
 四角形の切れ込み。半円形の取っ手。どうやら、先と同じ仕組みになっているらしい。
 だが、その四角形部分の面積は、トイレに通じるドアノブが隠されていたものより数倍大きい。
 トイレの次はなんだろうか? 今度こそ、出口へと続く通路か何かだといいのだが……
 僕はそんなことを考えながら、取っ手を持ち、開ける。

960 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/21(火) 07:02:58 ID:WkZZTR7D
 中には、電卓のモニターみたいな液晶画面が埋め込まれており、画面上部にアラビア数字で『三十』と表示されていた。
 画面下部には『ルールA』『ルールB』『ルールC』『ルールD』との表示が、縦一列に並ぶ。
 画面下部(ルールA~Dとの表記がある部分)の右側には若干のスペースが空いており、ここにルールの内容が入るのだろうと推測できた。
 が、何故か空欄になっているから、その、四つあるらしい『ルール』とやらがどういうものであるのかは不明だ。
 そして液晶画面の下には、トイレの時と寸分違わぬ、白いドアノブ。
 僕はとりあえずドアノブに手を伸ばし、回そうと試みるが、どんなに力を込めても、ぴくりとも動かない。
「駄目だ。ロックがかかっているみたいだ」
「この数字……『三十』と、その下の『ルール』っていうのが、何か関係あるんでしょうか? 謎を解かないと開かない、とか」
 顎に手を当てて、少しばかり考える。我ながら情けないが、それでも結局は、お決まりの言葉を返すしかなかった。
「……わからない」
 
 部屋を一周して、僕らは最初の場所――彼女が寝ていたベッドが置かれている地点――まで戻ってきた。
 収穫は、トイレへの扉と、開かない扉、二つの扉の発見。蟻一匹見逃さないよう、時間をかけて調べたから、おそらく見落としはない。
 部屋には、この二つ以外に内周部に面している扉はないと考えていいだろう。
「開かなかったあの扉を、なんとかして開けられたらいいんですけど……」
 言いながら、彼女はベッドに腰を下ろす。と、そこで、僕は忘れていた『あるもの』を、唐突に思い出した。
「そうだ、箱……」
 そう、彼女のベッドの下に置かれていた『箱』の存在だ。

961 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/21(火) 07:03:54 ID:WkZZTR7D
「箱? 箱って何のことですか?」
「きみのベッドの下に、確か、水色の箱があったんだ。そんなことよりきみを起こして、話を聞くのが先だと思っていたから、今まで失念していたけど……」
 あの中に、扉の謎を解く為の手がかりが入っているのかもしれない……というのは、流石に楽観的過ぎる予想だろうか。
 とにもかくにも、確かめてみなければ始まらない。僕はその場に這い蹲って、ベッドの下から箱を引きずり出す。
 箱は小型のクーラーボックスくらいの大きさで、箱の天辺には、小さなリボンが結びつけられている。まるで、プレゼントの包みみたいだ。
 そういえば、異常なほど『白』に拘った部屋の中で、この箱だけ白でなくて水色なのは、何か意味があるのだろうか。
「開けてみるよ?」
 そう言って、彼女の方を振り向く……が、返事がない。
 右手で左手をぎゅっと握り、箱に視線を釘付けにして、彼女は硬直していた。
「……留美ちゃん?」
「えっ? あ、はい!」
 もう一度声をかけると、肩をびくっと動かして、思い出したように返事をする。
「どうかしたの?」
「な、なんでもないです」
 とは言うものの、なんでもないわけはない。理由こそはっきりしないが、動揺しているのは明らかだった。
 心なしか、顔から血の気が引いているようにも見える。
 気にはかかるのだが、本人がなんでもないというものを、無理矢理問い詰めても仕方がない。無駄な軋轢が生じるだけだ。
 それに、この状況に直接関係のあることであれば、彼女から率先して発言してくれるだろう。そうであると願いたい。
 だらだらと考えを巡らせつつ、箱の包装を解いていく。さて、中身は一体何だろう? 期待と不安を抱きながら、僕は箱を開いた。

 箱の中に入っている物を、順番に出して、床に並べてゆく。
 一リットルのペットボトルが一本。ブロックタイプの栄養補助食品が二箱。それから、A四判の紙とボールペン。
 箱の中身は以上だった。二人は箱を挟んで向かい合うようにして床に座り、手に取って、一つ一つ確認してみる。
「これは、海外のミネラルウォーターかな?」
 言って、僕はペットボトルを掲げて見せる。そのパッケージ――水彩画のようなタッチで描かれた山の絵――には見覚えがあった。
「ですね。輸入品です。コンビニエンスストアなんかで、見かけたことがあります」
 今度は彼女が、栄養補助食品を手に取る。
「えーっと。これは、カロリーメイト……四本入りのブロックタイプですね」
「後は、A四判の用紙とボールペンか。どっちも、特に見るべきところは――」
 ざっと眺めてから、箱に戻そうとして、手が止まった。
 白紙かと思っていた用紙には、左上に小さなフォントで一行だけ、印字があった。
『―― project whitebox ――』

962 :TIPS ◆SSSShoz.Mk :2007/08/21(火) 07:04:54 ID:WkZZTR7D
TIPS『わからない』
あまりにも、わからないことが多過ぎた。
だが、二人は所詮籠の中の鳥。わかった時にはもう遅い。

TIPS『白に拘った部屋』
白一色の内装は、精神に良い影響を及ぼさない。
それを重々承知した上で、この部屋は白一色だった。

TIPS『水色の箱』
この箱は善意の象徴であると同時に、悪意の塊でもある。
留美はその悪意を、敏感に感じ取ったのかもしれない。

TIPS『project whitebox』
それは、この怨念の籠った計画の名前。

973 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/23(木) 07:03:42 ID:Qh88vvZZ
■幕間一『バースディ』

 幼い少女は、リビングの大きな椅子に腰掛けて、宙に浮いた足を忙しなくぱたぱたと動かしていた。
 とろんとした、今にも眠ってしまいそうな目でテレビを見ながら、頻繁に壁掛け時計に視線を送る。
 壁掛け時計は、午後十一時三十分を示している。もうすぐかな、もうすぐかな、と、少女は心の中で、呪文のように繰り返した。
 早く寝なさい、と、いつにもまして不機嫌な母の声がどこからか飛んできたが、夢現で聞こえない振りをする。
 いつもなら、注意された時点で、素直に返事をして子供部屋に向かうのだが、今日はどうしても起きていたかった。
 何故なら、今日は少女にとって、特別な日だったから。
 大好きな父からの、お祝いの一言が聞きたくて、こうして睡魔と格闘しながら帰りを待っている。
 父は、仕事上の都合で、帰宅時間がまちまちだった。早い日もあれば、遅い日もある。今日は、かなり遅い帰りだ。
 玄関の鍵が開く音がしたのは、そろそろ日付も変わろうかという時刻、午後十一時四十五分だった。
 その、小さな金属音が行動開始のスイッチだったかのように、少女は眠い目を擦ると、すぐさま椅子から飛び降り、玄関へ向かって走る。
「ただいま」
 少女が玄関の前に到着するのと同時に、玄関扉が開いて、くたびれたワイシャツ姿の中年男性が顔を出した。
「ふぁ……おかえりなさいっ」
 彼は、出迎えてくれた娘の姿を認めるなり、目を細めた。
 それから直ぐに、腕時計を見る。どうやらまだ日付は『今日』のようだった。
「留美、お誕生日おめでとう」
「……うん!」
 少女は、喜色満面といった表情で頷く。
 彼は、そんな娘を横目に、仕事用のボストンバッグを弄り、用意しておいたプレゼントを取り出す。
「いつも笑顔で迎えてくれる留美に、お父さんからの誕生日プレゼントだ」
 眠気で閉じかけていた瞳を大きく見開いて、少女は差し出されたプレゼントを受け取った。
「わぁ、ありがとう、お父さん!」
 それは――天辺に小さなリボンの付いた、水色の箱だった。

974 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/23(木) 07:04:44 ID:Qh88vvZZ
◆持久戦

 それからほどなくして、僕のベッドの下にも同じ箱が置かれているのを見つけた。中身も、先程と全く同じものだ。
 だが、進展があったのはそこまでだった。それ以降はもう、いくら部屋の中を徘徊しても、新たな発見は何もなかった。
 相変わらず、あの『開かない扉』は、一向に開く気配がなく、謎かけのような文言『三十』と『ルール』に関しても、いくら考えた所で結論など出ない。
 手詰まりに陥った僕らは、二人してベッドに腰掛けながら、気まずい無言の時間を共有していた。
「一つだけ、はっきりしたことがある」
 圧し掛かるような、重苦しい空気を打ち払うように、僕は口を開いた。
「この異常な状況は、何者かによって仕組まれたものだということ」
 説明するまでもないかもしれないが、決定打となったのは、水色の箱に入っていたA四判の用紙だ。
 project whitebox――そう記されたあの用紙は、僕らに、これは計画の一環である、と告げていた。
 この白い立方体は、僕らの為に誰かが用意した舞台である。それは残念ながら、もはや疑う余地がない事実だった。
 もう『事故で閉じ込められた』とか『偶然に記憶を失った』とか、そういった可能性は切り捨てて考えるべきだろう。
「あの『白い箱』と言うのは、多分、この部屋を指していて……そして、そこで何らかの『計画』が行われている」
「でも……誰が、何の為に? 私たちを拉致してきて、閉じ込めるのが『計画』だなんて、そんな話……」
「そう、それが疑問なんだ。仮にこれが何かの計画、或いはその一部だとしても、目的が全くわからない」
 僕は首を回して、そろそろ目の毒になりつつある、病的なまでに白い部屋を、ぐるりと見渡した。
 この部屋一つ造るのにも、相当の費用がかかっているはずだ。こんなことをして、何の得があるというんだろう?
 答えの出ないであろう問いを、頭の中で捏ね回す。隣にいる彼女も、口許に手を当てて視線を床に向けて、何か考え込んでいるようだった。
 彼女も、僕と同じように、僕らをここに閉じ込めた何者かの目的について、思いを巡らせているのだろうか。
「だめだ」
 溜め息と一緒に、言葉を吐き出す。これ以上の思考は、精神衛生上よろしくない。そう判断して、僕は匙を投げた。
「考えても埒があかない。少し休むよ。留美ちゃんも、あまり思いつめない方がいい」
 僕はそれだけ言うと、のろのろとした足取りで自分のベッドに向かい、体を投げ出した。

975 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/23(木) 07:05:45 ID:Qh88vvZZ



 留美は、自分のベッドにうつ伏せで横になった智信をちら、と見てから、床に置かれた箱を手に取って、まじまじと眺めた。
 飲料水と食料が入れられていた、水色の箱。この箱は、各々の寝かされていたベッドの下から、丁度二つ見付かったから、自然な成り行きで、二人で一つずつ分けることになった。
 しかし、智信も留美も『箱の中身は自分で管理する』という決め事以外に何を話し合ったわけでもないのに、示し合わせたように、未だ中身に一切口をつけていない。
 まだ、この空間から脱出する足がかりすら発見されていないのだから、水と食料は極力温存するべきだ。口に出さなくとも、そういった暗黙の了解めいたものがあった。
 留美は無意識の内に、箱をぎゅっと抱き締めていた。この箱は確か、駅前の大型デパートのもので、ワンポイントのリボンは、贈答用の包装だ。
 そのデパートは、父の帰り道の近くで、父が留美に何かを買ってくれる時は、大抵この箱、この包装だった。小さな子供の頃から、それは変わっていない。
 留美はそんな諸々を思い出して、急に心細くなった。涙腺が緩んでゆくのが、自分でもわかる。
 閉じ込められてしまって。知らない人と二人きりで。せめて――隣にいるのが、お父さんだったらいいのに。
 私、これからどうなっちゃうんだろう? もう、家に帰れないのかな? 友達と会えないのかな? いつもの暮らしに、戻れないのかな?
 押し寄せる不安に耐え切れず、留美は、箱の上に額を押し付けるようにして、声を殺して泣いた。
 拭っても拭っても、涙は途切れることなく溢れ出してくる。ブラウスの袖は、あっという間にびしょ濡れになった。

976 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/23(木) 07:06:41 ID:Qh88vvZZ



 僕は、押し殺したような、か細い泣き声を聞いて、ベッドに埋めていた顔を横に向けた。
 ベッドに座って、水色の箱を抱きかかえるようにして、彼女は泣いていた。
 無理もないことだった。この部屋の色彩とは対照的に、僕らのお先は真っ暗である。必要以上に取り乱さないだけでも大したものだ。
 僕だって、この白一色の空間をずっと眺めていると、気が狂ってしまいそうになる。
 いつもは仰向けで横になるのだが、天井を見たくないが為だけに、うつ伏せで目を固く閉じていたくらいだ。
 本来なら、こういった時、そっと傍に寄り添って、励ますなり慰めるなりしてあげるのが、模範的な男というものなのだろう。
 だが、僕はベッドから起き上がり、彼女に話しかける気にはならなかった。一筋の光明すら見えない現状、かける言葉が見付からないというのが正直な所だ。
 それに、今日会ったばかりの見知らぬ男から、あまり馴れ馴れしく扱われるのも、彼女にとってはストレスになるかもしれない。
 もう一度、ベッドに顔を埋める。マットが嫌に固くて、寝心地の悪いベッドである。床で寝るよりはマシといった程度の代物だ。
 そのまま暫く、ベッドの上でじっとしていた。少し眠っておきたかったのだが、神経が昂ぶっているのか、目が冴えてしまって眠れそうもなかった。
 過ぎた時間は、数分か、数十分か。いつの間にか、泣き声は聞こえなくなっていた。

977 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk :2007/08/23(木) 07:07:40 ID:Qh88vvZZ



 留美は泣き疲れて、知らない間に眠ってしまっていた。しかし、それはやはり浅い眠りで、断続的に睡眠と覚醒を繰り返した。
 そんな中、留美は夢を見ていた。留美が今置かれている状況と同様に、不可思議な夢だった。
 会った事もない男が、入れ替り立ち替り何人も登場しては、留美に向かって自己紹介をするのだ。

 端整な顔立ちをした金髪の青年が、陽炎のように揺らぎながら姿を現す。
「私は……私は、マークス」
 そう言ったかと思うと、青年はぐにゃりと歪んで消えてしまう。まるで、存在そのものが幻であったみたいに。
 青年が消えて真っ白になった空間を呆然と見つめていると、目の前が揺らめいて、また、何もない空間から人が現れる。
 今度は、彫りの深い顔立ちの、黒縁眼鏡の老人だった。
「わしは長谷部久蔵という。怪しい者ではない」
 その老人も、青年と同じように、あっという間に歪んで消えてしまった。
 するとまた、直ぐに目の前が揺れて、別の人が目の前に立っている――その繰り返しだった。

「う……」
 自分自身が無意識の内に発した声で、留美は目を覚ました。
 夢見が悪くて気分が優れない上に、変な格好で寝てしまったから全身の関節が痛い。
 丸一日水を飲んでいないせいか、口の中も渇ききっていた。喉の粘膜が張り付いて、ひりひりする。
 たまらずに、箱の中のペットボトルを開けて、一口だけ飲んだ。喉を流れる水分の感触が心地よくて、そのまま一気に飲んでしまいたくなるのを必死で自制する。
 人心地ついてから、留美は智信のベッドを見た。ベッドは既に空だった。智信は例の『開かない扉』の前に立って、何かを調べているようだった。
 不意に、智信が留美の方に目を向けて、二人の視線が交差した。
「ちょっと、来てくれないかな」
 そう言って、手招きをする。何かあったのだろうか。
「どうしたんですか?」
 留美は答えると、箱をベッドの上に置いて、扉の前へ急いだ。

978 :TIPS ◆SSSShoz.Mk :2007/08/23(木) 07:08:30 ID:Qh88vvZZ
TIPS『お誕生日おめでとう』
女性が誕生日を祝われて素直に喜べるのは、若い内だけだ。
ある程度年を重ねると、誕生日より記念日を大切に思うようになる。

TIPS『マークス』
彼はまだ生きている。留美をこの白い牢獄から救い出そうとしている。

TIPS『長谷部久蔵』
彼はもう死んでしまった。身内にも看取られず、無惨な最期だった。
37 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/08/28(火) 22:07:20 ID:bZA+mqY5
 結局、少しばかりうつらうつらとしただけで、昨日は殆ど眠れなかった。
 昨日、と言っても、ここには時間を知る術なんて一切ないから、本当に日付が変わったかどうかなんてわからない。
 二人がベッドに横になって数時間(これも概算だが)を過ごしたことから、便宜上『昨日』と呼んでいるだけだ。
 僕の言う『昨日』とは、体内時計と、ほんの少しの直感に頼った目安のようなものに過ぎなかった。
 しかし、こんな朝も夜もない部屋に缶詰にされていたら、体内時計だって狂うに違いない。これから先、時間の感覚はどんどん曖昧になっていくだろう。
 とうとう時間までも『わからない』か……まったく、どうしたものか。
 失笑しながらも、立ち上がる。
 彼女はまだ眠っているようだった。箱を抱えたまま、ベッドの上で体を丸めている。
 僕は部屋の中を、あてどもなく歩き回り、天井を見上げたり、壁や床に触れてみたりしながら時間を潰した。
 天井も壁も床も扉も、昨日二人で穴が空くほど調べたのだから、まず新しい発見は望めないと自分でも思うのだが、何かしら前向きな行動を起こしていないと、心が折れてしまいそうだった。
 僕がその『変化』を発見したのは、半ば無駄と諦めつつも『開かない扉』のノブでも回してみようかと、近付いた時だった。
 液晶画面に表示されていた数字が『三十』から『二十九』になっている。
 それは、憎らしい程に代わり映えのしないこの部屋の中で、唯一の『変化』だった。
 彼女のベッドを見ると、彼女はもう起きていて、寝起き特有のぼうっとした目でこちらを見ていた。
「ちょっと、来てくれないかな」
 僕は彼女に声をかけて、手招きした。
「どうしたんですか?」
 目を瞬かせて、小走りでこちらに向かってくる。
 近くで顔をよく見ると、泣き腫らしたのだろう、瞳は兎みたいに真っ赤だった。肌が白いから、余計に痛々しい印象を与える。
「ここ、見てほしい」
 僕は、液晶画面を指差す。彼女もすぐに気付いたようで、目を丸くする。
「数字が……減ってます?」
「そう、二人がそれぞれベッドで休む前は、確か『三十』と表示されていた」
「はい」
「これは――」
 どういうことなんだろう? そう言いかけて、慌てて言葉を引っ込めた。
 状況に呑まれて震えている年下の女の子に、自分の考えも提示しない内から意見を求めるなんて、いくらなんでも情けない。
 そもそも、質問そのものがこれ以上ないくらいの愚問で、彼女に聞いたってわかる筈がないのだ。勿論、逆もまた然り。
 そういう意味では、隣で、黙って考え込んでいる彼女の方が余程賢い。
 しかし……考えた所で、それらしい答えが見付かるのかといえば、また別の話なのだが。




38 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/08/28(火) 22:08:06 ID:bZA+mqY5
 何の手も打てないまま、時間は刻々と過ぎていった。
 智信も留美も、亡霊のような表情でベッドに座り込み、時折思い出したかのように部屋を徘徊。そして、何の変化も見られないことに落胆する。
 いや、厳密には、変化はないわけではなかった。最初の『三十』から『二十九』へと変わっていた表示は、何時の間にか『二十八』となっていた。
 だが、そのカウントダウンめいた数字が何を意味するかなど、二人には見当もつかなかったので、だからと言ってどうしようもなかった。
 ただ、ちびちびとペットボトルの水を飲んで、カロリーメイトを齧る。そんな先の見えない、絶望的な時間を過ごすだけだった。
 与えられた僅かばかりの食料が尽きた時が、二人の最期である。それはわかっている。打つ手があるかどうかは怪しいが、このままでいいわけはない。
 それでも二人は、ベッドの上に置物のように鎮座するだけ。渇きと飢えが、二人から常識的な思考能力、判断能力を奪っていた。
 大きな『変化』が訪れたのは、そんな時だった。
 ビーッ! ビーッ! ビーッ! ビーッ!
 けたたましい電子音が、二人の鼓膜を揺さぶった。
 二人は外敵に発見された小動物のように体を震わせると、今やすっかり指定席となった感のあるベッドから飛び降り、アイコンタクトを交わす。
 そして、音の出所を探して、視線をあちらこちらに彷徨わせる。音はどうやら『開かない扉』の方から聞こえているらしかった。
 と、それを認識した途端、唐突に音は止んだ。部屋は、元の静寂に包まれる。
「い、今のは……?」
 留美が独り言のように零す。智信は黙って首を振ると『開かない扉』へと向かう。
 変化は二つあった。
 一つは、液晶画面に表示されている数字が『二十八』から『二十七』になっていたこと。
 もう一つは、画面下部、空白だった『ルールA』の部分に、一行の文章が追加されていること。
 二人して、画面を覗き込む。智信が枯れかけた声で、それを読み上げた。
「ルールA……鉄扉の正面に表示されているのは残り日数である。残り日数がゼロになった時、扉は開かれる……!?」
「最初は『三十』だったから……私たちがこの部屋に閉じ込められてから、三日が経っている計算になるんですね……」
 留美が言った。でも、智信には経過日数など正直言ってどうでも良かった。
 何故なら、この『ルールA』は、二人にとって、死の宣告にも等しかったからだ。
 この扉が部屋からの唯一の脱出口、自由へと繋がる扉だとしよう。そして、扉がルール通り、三十日の経過で開くとしよう。
 合計、七百二十時間。その気の遠くなるような時間を耐え切れれば、扉は開かれて、二人は助かる……?
 冗談じゃない、と智信は思う。あまりの理不尽に、行き場のない怒りが込み上げてくる。
 無理難題を、さらりと言ってのけてくれるものだ。足りない。圧倒的に食料が足りない……! 
 この限られた食料で、三十日だって……!? 正気の沙汰ではない。最大限持ちこたえられたとして、十五日がせいぜいだ。
 扉が開く頃には、僕らは干し柿みたいな不様な姿を晒して、部屋に転がっている……!

39 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/08/28(火) 22:09:00 ID:bZA+mqY5
 滲み出した負の感情は、留美にも伝播したようだった。二人とも、お通夜のように黙り込んでしまう。
 智信も、留美も。お互いに、この絶望的なルールに気付いていた。だから、どちらが先に重い口を開き、その事実を公然のものとするか、それだけだった。
 ……やがて。意を決したように、智信が口火を切った。
「持久戦、と言うわけか。食料が……厳しそうだけど、留美ちゃんは今、どのくらいの食料を残している?」
 露骨に『足りない』と表現するのは躊躇われた。仕方なく『厳しそう』との言葉でお茶を濁す。
「ペットボトルの中身は八分目くらい……カロリーメイトは一箱半です」
「僕も似たようなものかな。水七割、カロリーメイト一箱と三本」
 何の情報もなしに三日間を過ごしたにしては、上々の節制だった。
 先の見えない中、食料を切り詰める互いの姿が刺激となり、消費を最小限に抑えたのかもしれない。
「かなり、節約する必要があるね」
 言いながら、智信は『三十日』という日数について考える。
 水は、一リットルのペットボトルが一本だから、一日あたり約三十三ミリリットルしか飲めない計算になる。
 しかも、ルールを知らない三日の間に、三十三ミリリットル以上飲んでしまっているから、実際飲める量はもっと少ない。
 人間が一日に必要な水分量は、安静にしていても、八百~千二百ミリリットルとされる。
 畜生、わかってはいたが、てんで話にならないじゃないか……! 智信は乾き切った唇を噛み締める。
 と、そんな智信に、留美が話しかけた。
「あの、つ、辛いですけど、目指すべき目標ができましたから。頑張りましょう、一緒に……」
 気遣うような、優しい口調だった。その言葉で、智信は我に返る。
 まさか、初日の夜を泣き明かしていた留美に慰められるとは思いもしなかった。絶望が顔に出ていたのかもしれない。
 智信は、しっかりしろ、と自分自身を叱咤する。そうだ、僕はこんな場所では死ねない。死ぬならせめて、一級市民を目指してからだ……!
「……ああ。希望を捨てず、できるだけのことをしてみよう」
「はい!」
 智信の宣言に、留美は弱々しい、けれど確かな微笑を浮かべるのだった。



40 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/08/28(火) 22:09:45 ID:bZA+mqY5
 ベッドに二人並んで座り、目を皿のようにして観察しているのは、カロリーメイトの箱だった。
「『一本百キロカロリー、四本入り、計四百キロカロリー』って書いてあるね。二箱で、八百カロリーになるか」
 智信が言うと、留美が腕を組み合わせて、むーと唸る。
「生きる為に最低限必要なカロリー……基礎代謝だけで考えても、私たちくらいの年齢だったら、男性で、約千六百キロカロリー。女性で、約千三百キロカロリー……」
「やはり、と言うのはどうかと思うけど……足りないか。それにしても、よく知ってるね、そんなこと」
「体重とか、気になりますから。だから、そういうの普段から……」
 どこか歯切れの悪い返答だったが、言いたいことは大体伝わった。
「なるほどね」
 とは言うものの、留美のスタイルを見ている限り、ダイエットの必要性は微塵も感じない。
 性別に関わらず、身長が低い人は太っていると目立つものだが、身長の低さを差し引いて考えても、かなり痩せているように思えた。
 だが、この状況ではそれは、必ずしも喜ばしいことではない。蓄積している脂肪の量が少ないということは、それだけ弱り易いということだ。
「まあ、基礎代謝分が不足したからって、直ぐに命が危ないって訳じゃないけど、確実に、体力は削られていくね」
「今まで、食べ物のカロリーなんて、少なければ少ないだけいいって、そんな風に思ってました」
 そう言って、くすくすと笑う。先程までの陰鬱とした雰囲気は、大分払拭されていた。
 生存が可能か不可能かなんて問題にしない。できるだけ足掻いてみる、抗ってみる。それが、二人で決めた基本方針だった。
 それにあの後、智信が言ったのだ。明らかになったのはルールAだけで、BもCもDも、まだ内容は不明のままだ……と。
 つまりは、今は公開されていない隠されたルールに、この窮状を打開する何らかの救済措置があるのではないかと想像した。
 例えば、食料の追加であったり、日数の短縮であったり……それは決してありえない話ではないと思った。
 智信は最初、扉の前で『ルール』という言葉を目にした時から、頭の片隅に釈然としない、引っかかりみたいなものを感じていた。
 ルールがあるのなら、これは、何者かによって企画された、とびっきり悪趣味なゲームなのではないだろうか。漠然と、そんな予想が頭を過ぎったのだ。
 そして、これがルールによって支配されるゲームだとするなら、とんでもないワンサイドゲームだ。
 ルールAが公開された時点で、智信や留美には一欠片の勝ち目もない、最低最悪のゲームだ。
 そんなゲーム、ゲームとして成立しないし、面白いわけがない。
 だから……ルールA以降に控えるルールで、その絶対的不利が、多少なりとも和らぐのではないか? 智信は、そんな結論に至ったのだった。
 ルールAに絶望して自暴自棄になり、欲望の赴くまま、水、食料を全て消費してしまったら敗北……
 僕らをこんな場所に閉じ込めるような、底意地の悪い人間が考えそうな罠ではないか。
 勿論、そうであるという保証はどこにもない。全ては智信の想像の中のことだ。
 しかし、ルールが後三つ残っているのは紛れもない事実。
 残るルールへの期待が、生還への希望に繋がっていたと言っても過言ではなかった。



41 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/08/28(火) 22:10:28 ID:bZA+mqY5
 足りないものが多いこの部屋ではあるが、時間だけには不自由しなかった。
 二人は、有り余った時間を磨り潰すように、色々な事を話した。
 特に頻繁に話題に上ったのは、ここから帰ったら、最初に何をしたいか、というもの。
 思考にまで空腹が侵食してきていたものだから、必然的に、食べ物の話が多くなった。
 智信が『海猫亭』の海老ドリアが食べたい、と言えば、留美が『paix』のチョコレートパフェが食べたい、と返す。
 留美が小声で、智信にも聞き覚えのあるメロディを口ずさみ始めたのは、そんな遣り取りが一段落してからだった。
「諦めていたら 何も始まらない♪ 可能性は低くても やってみるまでわからない♪ だから もう少しだけ あと少しだけ 諦めないで 前に進んで……♪」
「ああ、それは『インフィニティ』の曲『前に進んで』だね。なんというか……今の状況にピッタリな歌詞だ」
 インフィニティ、とは女性一人、男性二人で構成されるメジャーバンドだ。
 誰もが知っている、と言う程ではないが、マシン・シティ内での知名度はそれなりに高い。
「はい。この前発表されたばかりの新譜です。多作で知られている『インフィニティ』ですけど、私は、この曲が一番お気に入りです。特に、こんな時は、勇気を貰える気がして……」
「え……?」
 留美が、何気なく発した言葉を聞いて。智信の目が、驚愕に見開かれる。
「ど、どうかしたんですか?」
 智信が、何をそんなに驚いているのかわからず、留美はきょとんとしている。
「……新譜なんかじゃない。今きみが口にしていた曲『前に進んで』は、インフィニティが二年前に出した曲だ……!」
「そ、そんな……!?」
 今度は、留美が驚く番だった。
 留美には、二年以上もの記憶の欠落はない。ただ、ここに来るまでの経緯が思い出せない、それだけだ。
 そして、話を聞く限り、それは智信も同じはず。なのに、二人の時間には、二年以上のズレがある……!?
「インフィニティが次に出した曲は『夢を追いかけて』で、その次に出した曲は『揺れない心』」
「全然、記憶にありません、そんなの……! それが本当なら、智信さんは、未来から来たって言うんですか!?」
 何が何だかわからない、と言った風に、留美が首を振る。
 どう答えていいのかわからず、智信は黙り込んだ。
 ありえないはずなのだ。智信は十九年間、留美は十四年間、それぞれの人生を歩んできた。
 勿論お互い『空白の二年間』なんてない。その二人の間に、大きな時間認識の齟齬が発生している。
「信じられない……」
 思わず、智信が呟く。この不可解な現象には『時間軸が歪んでしまった』と言う突拍子もない説明しかつけられないからだ。
 それ以外で考えられる可能性としては、智信、留美のどちらかが嘘をついているというものだが……それもありえないだろう。
 そんな嘘をついた処で、何の得にもならないことは、二人が一番良く知っていたのだから。

42 :TIPS ◆SSSShoz.Mk:2007/08/28(火) 22:11:14 ID:bZA+mqY5
TIPS『海猫亭』
海沿いに店舗を構えるファミリーレストラン。
その名の通り、海の幸を惜しみなく使用したメニューに定評がある。

TIPS『paix』
フランス語で『安らぎ』の名が冠せられた、軽食専門のカフェ。
果たして、二人に安らぎの時は訪れるのだろうか。

TIPS『インフィニティ』
メビウスの輪の内側を前に向かって進んでも、同じ場所を延々と回るだけだ。
鋏で、輪そのものを断ち切ってしまわなければ、脱出はできない。

TIPS『時間軸が歪んでしまった』
智信が未来から飛ばされてきたのだろうか?
留美が過去から飛ばされてきたのだろうか?
それとも……? 

48 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/08/31(金) 01:12:33 ID:JKtEqSSK
■幕間二『あるオフィスビルの一室で』

 都心の一角にある、オフィスビルの二階角部屋。そこがゲーム会社『グロックワークス』の事務所だった。
 皆、黙々とパソコンに向かい、作業をこなしている。使い古された空調の音だけが、嫌に大きく響いていた。
 田崎弘(たさき ひろし)は、大きく伸びをして、腕時計を見た。時刻はもうすぐ、正午になろうとしている。
 そろそろ昼食を摂りたいな。そう田崎は思った。だが、皆が追い込みをかけている中、自分だけ真っ先に席を立つのも気まずいものがある。
 他の社員も巻き込んで、自然に『そろそろ昼食にしよう』という空気に持っていきたい。
 だから田崎は、隣のデスクで仕事をしている新入社員の男に粉を撒いてみることにした。
「いやー、気付いたら、もうこんな時間ですね。腰が痛いわけですわ」
 田崎は精一杯の、フレンドリーな笑顔で語りかける。
 そのあからさまな言葉に、男――朝霧良夫(あさぎり よしお)は、パソコンの右下にある時計を見た。
 時刻は丁度、十二時になったところだった。
「そうですね。一段落ついたら、昼にしましょうか」
 一段落ついたら……か。まったく、真面目なものだ。田崎は笑顔を崩さないまま、心中で軽く悪態をついたが、朝霧に伝わるわけもない。
 朝霧は涼しい顔で、淡々粛々と作業を続ける。田崎は何とはなしに、パソコンの画面を覗き込んだ。
 そこには――人間の心臓と思わしきモノが、大写しになっていた。
「これは……何に?」
 余程小さなゲーム会社でない限り、ゲームの製作は完全に分業だ。担当が違えば、知らないことも多い。
 田崎も、朝霧の仕事が3DCGモデリングである、と言うことくらいは知っていたが、この、やたらリアルな臓器のグラフィックがゲームのどこに使われるのかまでは把握していなかった。
「ロード画面に使うそうです。とびっきり怖そうなのを……と、リクエストされましたからね」
「しかし、これは凄い……実写と見間違えてもおかしくない」
「昔、医療機器関連の会社で企画をやってましてね。人体模型めいたCGを、よくプレゼンで使ったんですよ。十八番ってやつです」
「なるほど、それで……」
 田崎は感心したように頷いた。それならば、この心臓の異様な作り込みにも、納得が行くと言うものだ。

49 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/08/31(金) 01:13:09 ID:JKtEqSSK
「それでも、ここまでリアリティのある表現が可能になったのは、ここ数年です。最近のCG技術の進歩は目を見張るものがありますからね」
 視線は正面を向いたまま。マウスを忙しなく動かしながら、朝霧は続ける。
「腕のいいグラフィッカーが携われば、もう、現実の人間の写真と、CGで作成された人間の写真を二枚並べたとして、どちらが実写でどちらがCGなのか、判断がつかないでしょう」
 朝霧はそこで、マウスを置く。どうやら、作業はキリのいい所まで進んだようだった。
「さて……昼にするとしますか」
 そう言うなり、立ち上がる。それを追うように、田崎も席を立った。一人が先に席を立ってしまえば、後に続くのは気楽なものだった。
 ――と。田崎は、朝霧が右手に持った財布から、ひらり、と、何かが落ちるのを見た。反射的に拾い上げ、声をかける。
「朝霧さん。何か落としたみたい」
「ああ、どうもすいません」
 朝霧が落としたのは、一枚の写真だった。咲き誇る花々を背景に、可愛らしい少女が、こちらに向かって微笑んでいる。
 田崎は、その写真を朝霧に渡す。田崎が写真を見たのは、時間にして僅か数秒のことだったのだが、少女の姿は鮮烈に目に焼き付いた。
 何故かはわからない。わからないが……その少女には、人を惹き付ける不思議な魅力があるように思えた。
「その写真も、もしかしてCGですか?」
「はは、違います。これは、朝霧留美……私の娘の写真です」
「ほう、それは。可愛いお嬢さんで羨ましい。家なんて、反抗期真っ只中の坊主が一人ですから。いま、いくつになるんです?」
 そこで、朝霧の表情が曇る。まずいことを聞いた、と田崎は確信したが、口にしてしまった質問を撤回するわけにもいかない。
「娘は……二年前に、交通事故で亡くなりました」
「ああ、余計な事を聞いたようで……それでは、今は奥さんと二人ですか。寂しいでしょう」
 田崎は咄嗟に、フォローを入れた……つもりだった。
「父子家庭でした。妻とは、とうの昔に別れています」
「それは……」
 田崎は、流石に返す言葉が見付からず顔を引き攣らせた。二人は気まずい雰囲気を残したまま、事務所を後にした。

50 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/08/31(金) 01:13:56 ID:JKtEqSSK
◆生還の条件

 部屋中に、聞き覚えのある電子音が響き渡った。
 無駄なエネルギー消費を抑える為、ベッドに横になっていた二人だったが、同時にベッドから起き上がり『開かない扉』へと駆け寄る。
 液晶画面に表示された残り日数は『二十四』だった。そして……新しく『ルールB』の部分に文章が一行追加されていた。
 二人は、目を見開いて、ルールの文面を追う。今や、二人の興味は、新しく発表されるルールの内容だけだった。
 ルールB以降のルールが、ルールAの絶対的不利を覆してくれなければ、生還はありえないのだから。
「ルールB……ルールは、日数が三日経過する毎に一つ明らかになる……」
 読み上げる智信の声には、落胆が色濃く滲んでいた。はっきり言って、二人にとっては肩透かしな内容だと言わざるを得なかった。
「言われてみればそうか、ルールAを知らせるブザーが鳴った時、表示は『二十七』だったから……次は『二十四』その次は『二十一』……」
 気が付いてしまえばなんということはない、単純な法則である。
「このルールは、毒にも薬にもならない、か……残念だが、次のルールを待つしか――」
 そこで、智信の言葉に、留美が割り込んだ。
「私……もう……だめです……後三日なんて、そんなの……」
 留美は、どさりとその場に膝をついた。目の焦点が合っていない。
 ここ三日で、肉体的にも精神的にも、かなり衰弱してしまっているようだった。
 また、あの不可解な『時間の歪み』も、答えの出ないままで、留美の心に影を落としている。
 留美は、両手で肩を掴み、自分を抱き締めるような姿勢で蹲る。その体は、小刻みに震えていた。
「何でこんなひどいことをするんですか……私たちが何をしたって言うんですか……もう許してください……許して……許して……許して……!」
 智信も、留美の手前、平静を装ってこそいるが、ルールBの内容にかなりのショックを受けていた。
 留美がその場に座り込まなかったら、智信が似たような行動を起こしていたかもしれない。
 取り乱している留美の姿を客観視することで、何とか正気を保っている。
 暫くの間、智信は留美を呆然と見ていた。が、意を決したように頭を振って、動き出す。
 留美と同じように、扉の前で座り込み、覆い被さるような形で肩を抱く。
 それは、親鳥が翼を大きく広げて、外敵から雛を守る光景を連想させた。
「落ち着いてくれ、ルールが全部公開されるまで、諦めたら駄目だ……! 二人で散々話したじゃないか! 絶対家に帰るんだって! それで、paixのチョコパフェを食べるんだって! 友達と一緒にウォーターアイランドに行くんだって!」
 震える留美に向かって、必死で言葉を投げかけながら、智信は涙を流していた。
 頬を伝った雫が、口の端まで流れてくる。智信は舌を伸ばして、それを舐めとった。
 畜生、水分が勿体ない。でも、どうしようもないじゃないか、理屈なんか関係なく、涙が止まらないんだから……!
 智信は、くしゃくしゃになった顔を留美に見られたくなくて、顔を背けた。最も、涙声で、泣いているのはバレバレだっただろうが。
「もう少しだけ、頑張ってみよう! それで、二人で一緒に、ここから生きて帰るんだ! そうすれば、いつか……今日の出来事だって、笑って話せるようになる!」
 智信は、留美の震えが治まるまで、肩を抱いたまま、付き添っていた。



51 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/08/31(金) 01:14:32 ID:JKtEqSSK
 ようやく恐慌状態から回復した留美をベッドに寝かせて、智信は一人考える。
 精神的に追い込まれて当然の状況ではある。水、食料、共に残りは雀の涙なのだから。
 決して、浪費しているわけではない。むしろ、これ以上ないくらいに節約している。
 それが証拠に、二人はここ数日でみるみる内に窶れ、表情から生気を失い始めている。
 ゆっくりと、しかし確実に、終わりが近付いてきているのだ。死神の鎌は、二人の喉元にまで迫っていた。
「気は進まないが……水だけでも確保できれば……」
 智信は一人ごちながら立ち上がると、水洗トイレに向かった。トイレの便器に補充される水を、飲料水として使えないかと思ったのだ。
 二人とて馬鹿ではない。今までも、それは選択肢の一つとして考えられていたことだった。だが、結局は理性が邪魔をして、口をつけるまでには至らなかっただけだ。
 しかしながら、もう、汚いだとか何だとか、形振り構っていられるような、余裕のある状況ではない。
 水だけでも無制限に使えるとなれば、大分楽になる。
 少なくとも、最後のルールであるルールDの発表までは、確実に生きていられる。
 智信は覚悟を決めて、便器に頭を突っ込む。
 便器に顔を近付けた瞬間、正体不明の違和感が智信を襲ったが、智信は水のことで頭が一杯で、それには気付けなかった。
 接吻をする時のように唇を突き出して、溜まっている水を啜る。利用者は二人しかおらず、比較的清潔なのが唯一の救いか。
 が、口に含んだ水を、すぐに便器に向かって吐き出す。
「かはっ……! 何だこれ、しょっぱ……」
 半端ではない濃度の塩水だった。とても飲み水にはできそうもない。海水だろうか。
「畜生め、意地でも水は飲ませないつもりか……!」
 憤怒に任せて、智信はトイレの壁を殴りつけた。痺れるような拳の痛みが、少しだけ、やり場のない怒りを紛らわしてくれた。



52 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/08/31(金) 01:15:14 ID:JKtEqSSK
 智信はトイレから部屋に戻ると、留美が横になっているベッドに近付く。
 留美は智信の気配に気付いたのか目を開けて、申し訳なさそうに、声をかけてきた。
「あの……さっきは、ごめんなさい……取り乱して。もう、大丈夫です。私、迷惑かけてばかりで……」
「そんなことない。ルールA発表の時、死にそうな顔をしていた僕を、きみが励ましてくれただろう? 『一緒に頑張りましょう』って。だから、これでお相子、貸し借り無しだ」
 そう言って、不器用ながらも微笑むと、留美は安心したように、目を閉じるのだった。
「それから……これは報告しておかなくちゃいけないか。トイレの水、試しに飲んでみたんだけど、駄目だった。塩が濃くて飲めない。海水みたいだ」
「そう、ですか」
「残念ながら、ね。……立ち直って早々、気が滅入るような話をしてすまない」
「……智信さんって、優しいですね。それに、いつもしっかりしていて。すごいなって思います」
「そうでもないよ、さっきなんか、思いっきり泣いてたから。それに――これはお互い様かもしれないけど――きみが傍に居るから、冷静でいられるって言うのもある。一人だったら、とっくに発狂しているかも」
「そ、そうなんですか?」
 先程、智信が留美を励ましていた時、留美はかなり平静を失っていた。だから、智信が自分の為に声をかけてくれているのはわかったけれど、彼が泣いているか否かなど、意識にのぼらなかったのだ。
「そうだよ。こう見えても、気は小さい方なんだ。子供の頃なんか、絵に描いたような泣き虫だった。飼い猫にひっかかれて大泣きしてたりしたくらいでね」
「ふふ、智信さんが泣き虫だったなんて、何だか意外な感じです。じゃあ、私と一緒ですね」
「ああ。一緒だ」
 そこで、会話は途切れた。でも、初日、二人でベッドに並んで座っていた時のような、得体の知れない息苦しさは覚えない。
 二人の周囲に流れる空気は、この殺伐とした状況を忘れてしまうくらいに、緩やかで、穏やかなものだった。
 留美の手が、智信の手の近くに置かれる。智信はそれに気付くと、そっと、その手を握った。留美もまた、握り返した。
 智信は、留美に倣うようにして、目を閉じる。そして、一時、全ての思考を放棄する。一切の情報が遮断された暗闇の中、確かなのは、留美の手の温もりだけ。
 二人は一時間ほど、そのまま目を閉じて、手を繋いでいた。
 その無言のコミュニケーションは、この過酷な日々を共に生き抜いたことにより、二人の心理的な距離が縮まった証なのかもしれなかった。

53 :TIPS ◆SSSShoz.Mk:2007/08/31(金) 01:16:11 ID:JKtEqSSK
TIPS『グロックワークス』
ゲーム製作会社。社名の由来は自動拳銃の『グロック17』と『ぜんまい仕掛けの時計(Clockwork)』の捩り。
PC、コンシューマーをプラットフォームとして、主に、FPS、ホラーゲーム等の開発を手がける。

TIPS『ウォーターアイランド』
水をシンボルとした巨大遊園地。
ジェットコースターやメリーゴーラウンドと言った一般的なアトラクションの他、色々な種類のプール、果ては水族館まである。
アイスクリームショップ『フローズン』のチョコミントと、水族館の熱帯魚コーナーが留美のお気に入り。

TIPS『正体不明の違和感』
トイレに使用されている水が塩水であった事実に気付けなかった、と言うわけではない。
もっと重大な見落としを、智信はしている。

94 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/07(金) 00:35:56 ID:/V4euhHC
 部屋に、三度電子音が響き渡る。液晶画面に表示されている残り日数は『二十一』だ。
 ルールBの時と違い、二人はすぐさま『開かない扉』の前に駆け寄るようなことはしなかった。
 最早、走る気力もないくらいに、疲労困憊していたというのもあるが……何より、ルールCの内容を知ってしまうのが怖かった。
 もし、ルールCの内容が、何の救いもないものだったら……? それを考えると、足が竦んでしまい、その場から動けなかったのだ。
 何故なら……口にしなくとも、二人が一番理解している。ルールCの発表が、事実上のデッドラインであると。
 この分では、まず間違いなく、後三日は持たない。だから、きっとこれが、智信と留美にとっての、最後のルールになる。
「智信さん……」
 ブザーが鳴り止んでも、一向にその場を動こうとしない智信に、留美が心細そうな視線を送る。
「……わかってる。見なければ、始まらないものな。一緒に、見よう」
 二人は寄り添うようにして『開かない扉』の前まで歩く。そして――新しく発表されたルールを確認した。
 今回に限っては、智信はルールを朗読しなかった。いや、できなかったのだ。その文面に、目を、心を、奪われてしまったから。
 時間が、凍りついてしまったみたいだった。智信も留美も、立ち尽くしたまま、一言も発しない。
 ルールCの内容は、以下の通り。

『ルールC この部屋の中にいる生存者が一人となった時も、残り日数がゼロになった時同様、扉が開かれる』

「これって」
 長い沈黙の後。留美が、搾り出すようにして、言葉を発した。
「智信さんが先に死んじゃったら、私が助かって……私が先に死んじゃったら、智信さんが助かるってことですよね……」
「……文章を何度読み返しても、そうとしか、解釈できそうにない」

95 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/07(金) 00:36:43 ID:/V4euhHC
「こんなの! こんなのってないです! どうして……!」
 それ以上は、言葉にならなかった。留美の喉から、嗚咽が漏れる。
 智信も、留美も、心のどこかで、二人は一蓮托生であると思っていた。
 助かる時は二人一緒。死ぬ時も二人一緒。それは小さな連帯感となり、二人の間に絆を生んだ。
 しかし、ここでルールは無情にも、二人を引き裂いた。
 助かるのは一人。死ぬのも一人。つまり……絶対に『どちらか片方しか助からない』のだ。
「どうする?」
 泣き笑いのような、複雑な表情を浮かべながら、智信は留美に聞いてみた。
「……どっちも、嫌です。二人で、一緒に、帰りたい……」
 服の袖で涙を拭いながら、留美は答える。リップクリームなんて塗れるわけがないから、唇はかさかさで。喉は渇き切って、満足に声も出せない。それなのに……流す涙だけは尽きないのが、何だか無性に恨めしかった。
「僕も、同じ気持ちだ。でも……こうなってしまった以上、どうしようもない。むしろ、片方だけでも助かることを喜ぶべきなのかもしれない」
「そんなのって……」
「僕の考えを、話してもいいかな」
「……はい」
「このゲームを仕組み、ルールを決めた人間は、おそらく……僕たちが仲違いして、憎みあったり、殺しあったりすることを望んでいる」
 留美は悲しそうな表情で俯いたまま、答えない。
「ルールCを読み替えれば『一緒に閉じ込められたもう一人が死んでしまえば、自分は助かる』と言うものになるからね」
 智信は、少し間を置いてから、続ける。
「僕だって、こんな所で死ぬのは嫌だ。……生きたい! だけど、ルールを作った人間の思うように動かされるのは、もっと嫌だ」
 留美は首肯する。留美も、ルールCまで来てようやく、ルールに潜む明確な悪意に気が付き始めていた。
「だから、基本方針の維持を提案したい。丁度、水も食料も、底をついた。ここから先は……我慢比べになる。どちらが先に脱落しても、恨みっこなし。そして……最期の瞬間まで、お互いを尊重しあう。どうかな?」
 留美としても、異議があるわけもなかった。力比べを始めたら、智信が勝つに決まっているのだから。
 卑劣なルールに屈せず、最後まで、フェアプレイを貫き通そうとする智信の姿勢を、留美は嬉しく思った。



96 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/07(金) 00:37:32 ID:/V4euhHC
 留美は、水色の箱を下敷き代わりに、A四判の用紙を広げ、ボールペンを握った手を一心不乱に動かして、何かを書き記していた。
 三十分くらい、そうしていただろうか。留美は小さく息をつくと、動かしていた手を止め、智信へと向き直る。
「智信さん……」
「なに?」
 壁に寄りかかって、どこを見るでもなく目を開いていた智信は、不意に声をかけられて、留美の方を見る。
「智信さんに、一つ、お願いがあるんです」
 言いながら、ボールペンを置く。紙を小さく折りたたみ、箱に入れて蓋をする。
「もしも、私が、先に死んでしまったら……扉の外に出る時に、この箱を持っていってください」
「何を入れたの?」
「……遺言みたいな、ものです」
「そう、か」
 そこで、ふと、智信は気付いてしまった。自分も思い残しがないわけではないが、遺言を書くような相手も、書くべき内容も、見付からないということに。
 両親とは、進路の問題でこじれて以来、ろくに口も聞いておらず、だからと言って、親友と呼べるような、深い仲の友人もいない。
 ああ……もしかしたら。毎日、死に物狂いで勉強して、一級市民、一級市民と復唱してきたのは、他人より上を目指す以外に、アイデンティティを証明する手段がなかったからなのかもしれない。
 それは、とても空しいことのように思えて、智信は盛大な溜め息をついた。ただでさえ失われかけていた気力が、完全に失せていくようだった。



97 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/07(金) 00:38:44 ID:/V4euhHC
 ルールCの発表から、二十四時間が経過した。液晶画面に表示されている残り日数が『二十』を示す。
 智信は、ベッドに座ったまま、魂が抜けてしまったような表情で中空を眺めていた。
 留美は、ベッドの上に仰向けで横たわったまま、ぴくりとも動かなくなっていた。
 智信はのろのろと立ち上がると、留美のベッドに近付く。生気のないその顔は、近くに寄っても生きているのか死んでいるのか判断に困るほどだった。
「……留……」
 名前を呼ぼうとしたが、声が掠れて言葉にならなかった。しかし、その呼びかけに反応するように、留美の唇が微かに動く。
 留美の瞳に光はなく、目線も、呼びかけた智信の方ではなく、明後日の方を向いている。生きているのが不思議なくらいの衰弱ぶりだ。
 この様子を見るに、もう……独力では、立ち上がることすらもかなわないだろう。
 智信は、ずるずるとその場に座り込み、ベッドの側面に背中を預ける。マットレスを肘掛け代わりに使うと、指先に何かが触れた。ベッドに力なく投げ出されたそれは、留美の手だった。
 前にもそうしたように、智信は留美の手を握って、目を瞑った。
 智信とて、立ち上がり、動くことくらいは出来る、と言うだけで、それ以外は、留美と大差なかった。
 いつ何があってもおかしくはない、最悪のコンディションである。
 現実と幻想が混じり合って溶けたような混沌とした思考の中、智信は思う。
 どちらが先に逝くにしても――もうすぐ終わる、と。



98 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/07(金) 00:39:42 ID:/V4euhHC
 智信は、液晶画面の前に居た。残り日数は『十九』である。
 留美はもう、植物人間のようになってしまい、話しかけても何の反応も示さなかった。
 心臓は動いている。息もしている。だが――それだけだ。留美はもう、喜ばない、怒らない、泣かない、笑わない。
 智信も自分自身、体の自由が利かなくなりつつあるのを感じていた。このままでは、智信もすぐに、留美と同じ運命を辿るだろう。
 ――――すぐに、同じ、運命?
 その言葉が頭を過ぎった瞬間。智信の心の奥底で、悪魔がそうっと囁いた。
『このままでは共倒れになる』
『佐々野智信。お前はこんな場所で死んでいいのか?』
 妄想の中の悪魔は、みるみる内に明確なイメージとなって脳内を駆け巡り、ついには智信の隣に、その醜悪な姿を現した。
『見ろ』
 悪魔は横たわる留美に、鋭利な刃物のように尖った指先を向けた。
『もう留美は動けない』
『お前が先に死んでも、どの道助からない』
『そうすれば、留美の残した遺言とやらも、結局は無駄になる』
『お前の取るべき最善の選択が何かわかるな?』
「僕は……約束した。最後までお互いを尊重するんだって」
 悪魔は、部屋全体が振動するような大声で笑った。その声が煩くて、智信は思わず耳を塞ぐ。
『くはははははははははは』
『何を遠慮する必要がある』
『動けなくなった時点で死んでいるのだ』
『後はお前が生きるか死ぬかを選ぶだけだ』
 悪魔は智信の手を引いて、無理矢理立ち上がらせる。そして、そのまま留美のベッドへと引き摺っていく。
「でも、こんなのは駄目だ、間違ってる、やりたくない」
 悪魔は、無言のまま首を振る。そして今度は一転して、優しげな口調で語りかける。
『もういい。お前はよくやった。俺は知っている』
『一気に食料を消費してしまいたかったが、食欲に抗い、長い日数を渇きと飢えに耐えながら過ごした』
『本当は留美を抱きたくて仕方が無かったが、性欲に抗い、手出しはおろか、性的な視線を向けることすらしなかった』
『留美がこの状況に押し潰されて錯乱状態に陥った時、一緒に泣き喚いてしまいたかったが、留美を気遣い、励ました』
『そして、ルールCの発表により、二人の対立が明確になっても尚、互いを尊重しようと言い、留美に生還の可能性がなくなるまで耐えた!』
 悪魔の手が智信の腕を掴む。智信の腕が留美の首にかかる。
 智信はしきりに頭を振って抵抗する。本当はこんなことはしたくないのだと。
『意地を張るな。もう楽になれ。緊急避難だ。誰もお前を咎めはしない』
 留美の首にかけられた智信の手に――力が、こもった。
 目を固く閉じて、歯を砕けるくらいに食い縛って、智信は留美の首を絞めた。

99 :TIPS ◆SSSShoz.Mk:2007/09/07(金) 00:40:35 ID:/V4euhHC
TIPS『最悪のコンディション』
実質『どちらかの死亡待ち』であるルールCの存在が、二人から生きる気力を奪い、急激に衰弱させた。

TIPS『悪魔』
智信のエゴが妄想により具現化したもの。

175 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/13(木) 00:12:09 ID:ZNSz0XRP
 けたたましく響くブザーの音で我に返り、智信はようやく留美の首から手を離した。
 それは――留美の生命が尽きた証であり、同時に、扉が開く合図でもあった。
 気が付けば、悪魔は跡形も無く消え去っていて、もう、声も聞こえなくなっていた。
 智信は、留美の亡骸の横にある水色の箱を手に取り、ついにロックが解除された『開かない扉』へと歩を進める。
 と、その途中。智信は何かに躓いて、転倒した。どうやら、自分で適当に置いておいたペットボトルに足をとられたらしかった。
 その拍子に、持っていた箱を落としてしまい、蓋が開いて、中身が床に散らばる。
 空になったペットボトルとカロリーメイトの箱……小さく折りたたまれた用紙……
 智信は、それらを拾い集め、箱に戻すついでに、折りたたまれた紙を開いてみた。
 留美が外の世界に、どんな思い残しがあったのか、知っておきたかった。
 これから先。智信は、その無念をずっと、背負っていかなければならないのだから。
 用紙は、びっしりと、小さな文字で埋められていた。家族、友人に宛てたメッセージらしい。
 智信は夢中で文章を追った。その内容から、留美がどのような日常生活を送っていたのかを、ある程度窺い知ることができた。
 家は父子家庭で、年頃の女の子にしては珍しく、父親べったりであること……
 同級生の中でも、理香と秋の二人とは特に仲が良く、いつも三人で出かけること……
 この白い部屋でしか留美を知らない智信には、それらの記述はまるで、別世界の出来事のようで、とても新鮮に映った。
 読み進めていく内、智信の目が、ふと止まる。用紙を持つ手が、小刻みに震える。
 最後に書かれていたメッセージは……誰あろう、智信に向けたものだったのだから。

 智信さんへ。
 智信さんがこの文章を読んでいるっていうことは……私はもう、この世にいないのでしょう。
 残念ですけど、これも運命だと思って受け入れます。
 私は私なりに、一生懸命頑張って生きたつもりです。お父さんも、みんなも、わかってくれると思います。
 それに……私が死んでしまうのも勿論嫌ですけど、智信さんが死んでしまって、私だけ生き残るのも、同じくらい嫌ですから。
 やっぱり、どちらかしか助からない、なんて、そんな終わり方しかなかったのが、とても悔しくて、悲しいです。
 二人で一緒にここを出たかったです。それで、智信さんと一緒に、遊園地で遊んだり、食事をしたりしながら、この部屋で過ごした辛い日々を談笑の種にしてしまいたかった。
 と、そんなことばっかり書いても、智信さんの気が滅入っちゃいますよね。ごめんなさい。ルールを見た時のショックが、まだ抜けないみたいです。
 えっと、それから。智信さんには、心からの、ありがとうを言わせてください。
 思い返せば、智信さんには、最初から最後まで、励まされてばかりでしたね。
 私は、最後に智信さんみたいな人と会えて、嬉しかったです。こんな場所だけど、優しい智信さんと一緒でよかったです。
 もう、私はいないから……何を言われても、迷惑にはなりませんよね?
 だから、最後に、一言だけ。智信さん、大好きです。
 
 智信は、あらん限りの声を振り絞り、絶叫した。留美のベッドに駆け寄ると、そのすぐ横に跪き、拳で、床を何度も叩いた。
 自分への怒りと、この計画の首謀者への怒りが綯い交ぜになって、頭がどうにかなりそうだった。
 ……いや。もしかしたら、悪魔の幻覚に囚われ、留美の首に手をかけた時点で、智信は狂っていたのかもしれないが。



176 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/13(木) 00:12:54 ID:ZNSz0XRP
 どのくらいの時間、呆然としていただろうか。
 智信は立ち上がり、留美の手を取った。手からは温もりが消え、薄っすらと冷たくなっていた。
 智信はその手を、胸の上で組み合わせた。その姿に、智信は、留美と最初に出会った日のことを思い出す。
 脳裏に、このベッドで、気持ち良さそうに眠っていた留美の姿がフラッシュバックする。
 でも……今、目の前にいる留美は、あの時と違って、眠っているわけじゃない。心臓は止まっていて、息をしていなくて、体は冷たくて……
 そう。僕は、彼女を殺した。首を絞めて殺した。ずっと一緒にいたのに殺した。無抵抗なのに殺した。生き残る為に殺した……!
「僕は……優しくなんて……なかった」
 殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。
「すまない……最後の最後で、弱かった僕を、許してくれ……」
 もはや永遠に返事をしない留美にそれだけ言うと、智信は水色の箱を抱えて、逃げるように『開かない扉』へと向かった。
 液晶画面にあった『十九』の数字は消えていて、残っているのは、智信と留美を最後まで苦しめた、ルールの表示だけだった。
 智信は震える手で、ドアノブに手をかける。開かないのではないか、などという根拠のない不安が頭を過ぎり、一瞬、ノブを回すのを躊躇う。
 それでも、思い切って、手に力を込める。何度回そうとしても、ぴくりとも動かなかったノブは、驚くほど簡単に回り――扉は、ゆっくりと、開いた。
 そして、扉の外に進もうとして、智信は、自分の目を疑った。何故なら、扉の外に広がっていた光景は――

177 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/13(木) 00:13:59 ID:ZNSz0XRP
■幕間三『一級市民』

 広く、長い廊下を、二人の人間が並んで歩いていた。
 二人とも白衣を身に纏っており、片方は長い黒髪を後ろで束ねた女性、片方は金髪の男性だ。
「本当にいいのですか? このまま叶派が実権を握れば『白組』であるマークスさんの地位は不動のものになりますが」
 女性が、隣を歩く男性に声をかける。と、マークスと呼ばれた男性は目を細めて、大袈裟に首を振った。
「私はね、私が正しいと思うものに賛成し、誤りだと思うものに反対する、それだけだ」
「それでは……どうしても、彼女、叶綾香博士に対して、一級市民資格、剥奪決議案を提出する、と?」
「百合女史。何度も言わせないでほしい。私の決意は変わらない。『白組』ではないが、叶派の貴女としては、利敵行為に見えるだろうが、ね」
 百合と呼ばれた女性は、眉間に深く皺を寄せて、溜め息をつく。
「……告発の決意は固いというわけですか。仕方ありませんね」
「そうだ。彼女のコンセプトには見るべき所はあるが、如何せん、方法に問題がある。公私混同も甚だしい」
 マークスは百合を振り切るように歩調を速めながら、続ける。
「それに――どんなに優秀であっても、犯罪者は、誇り高き一級市民たり得る資格はない」
 マークスの言葉に、百合は呆れと諦めの入り混じった表情を浮かべて、額に指先を当てた。
 もう、彼にはいかなる説得も無駄なのだと、悟ったのかもしれない。
「素晴らしい倫理観をお持ちで。流石は『白組』代表といったところでしょうか」

178 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/13(木) 00:14:32 ID:ZNSz0XRP
「同じような皮肉を、倉田にも言われた。心が荒む。謂れのない誤解があるようだが、私を含めた『白組』は、聖人君子でもなんでもない」
 倉田、とは、マークスが叶博士の犯罪の証拠集めの際に接触した、非『白組』の一級市民、倉田勇一(くらた ゆういち)のことである。
 マークスが、自身の後ろ盾である叶綾香を告発しようとしていると知った時の倉田の驚きようは、尋常ではなかった。
 ――地位や名誉には興味はない、ってわけか? まったく『白組』様の言うことは違うぜ……くそ、気に入らねえ。
 台詞と共に、倉田の、苦虫を噛み潰したような表情が思い返される。
 白組以前の一級市民であり、叶派とも袂を分かつ立場であった倉田は『project whitebox』発案による叶綾香の躍進の影響で、非常に肩身の狭い思いを強いられていた。
 このままだと、今に『白組』でなければ一級市民にあらず、と言った風潮すら出来てしまいかねない、そういう危機感も持っていた。
 だから、倉田にとって、身内であるマークスが告発の準備をしているという報告は諸手を挙げて喜ぶべきことで、ここは派閥無視の共同戦線を張って、情報を収集するのが賢い選択と言えた。
 そう、理屈では理解している。それでも倉田は、口をついて出る嫌味を止められなかった。敵に塩を送られているようで、気分が悪かったのだ。
 同時に、そんな些事に拘っているお前は、やはり矮小な人間なのだと指摘されたような思いにもなった。それは流石に、倉田の被害妄想だろうが。
「聖人君子かどうかは兎も角、あなたの結果が一級市民の間でも語り草である事実に変わりはありません。叶博士曰く『project whitebox』始まって以来の快挙、だそうですから」
「私の場合は、無駄に高いプライドが、結果的に良い方向に働いただけだ。それに……」
 マークスは、隣を歩く百合にも聞こえないくらいの、小さな声で呟く。
「『白組』だからこそ、願うのかもしれない。死して尚、辱めを受ける彼女に、せめて安らかな眠りを――とね」

179 :TIPS ◆SSSShoz.Mk:2007/09/13(木) 00:16:38 ID:ZNSz0XRP
TIPS『叶綾香』
一級市民。朝霧良夫の元妻であり、朝霧留美の母親。

TIPS『百合』
一級市民。叶派所属。フルネームは朽木百合。

TIPS『倉田勇一』
一級市民。草加派所属。

TIPS『叶派』
一級市民内での派閥の一つ。『project whitebox』発案者、叶綾香博士が会長を務める。
派閥所属者はやはり『白組』の人間が半数近くを占める。

215 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/17(月) 18:05:54 ID:qbs6MDNN
◆扉の外の真実

 扉の外に広がっていたのは――漆黒の闇だった。
 部屋の白とは対照的な、一面の黒が、行く手を覆い尽くしている。
 智信は最初、それを見て、単純に暗闇で先が見えないだけなのだと、そう思った。
 しかし、壁伝いに、外に手を這わせてみて、気付く。そこに『何かがある』が見えないのではない。ただ『何もない』だけなのだ。
 扉に手をかけて、一歩踏み出してみても、足は床に触れることなく空を切り、先の見えない闇の中に沈む。
 そこにあるのは、永遠に続く、虚無の世界。現実にはありえない、悪夢の中に入り込んでしまったかのような光景。
 馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿な。こんなことがあっていいわけがない。
 この部屋はどうなっている!? そして、この果てしない闇はなんなんだ!?
 少しでも気を抜くと、狂気に侵食されそうになる思考を宥めながら、智信は自問する。
 そう。確かにルールには『三十日が経過した場合』或いは『生存者が一人となった場合』に『扉が開かれる』と書かれていた。
 しかし、よく考えてみれば、扉の外に関する情報は一切なかった。二人が勝手に『扉の外が出口である』と思い込んでいただけだ。
 そう結論付けてしまうのも、当然ではある。この部屋には、出入り口と思われる扉は二つしかなく、片方はトイレで、片方は開かなかった。
 それなのに『開かない扉』の先が行き止まりであると仮定すると、どうしても、説明がつかない点が出てくる。
 智信と留美は、どのようにして、この部屋に運び込まれたのか? という問題である。
 無理矢理にこじつければ、天井が開く仕掛けになっていて、ワイヤーか何かで吊り下げられてベッドに寝かされた、などという仮説も立てられるが……
 そんな凝った仕掛けを用意する意味は薄い上、仮にそうだとしたら、ベッドの真上の天井に細工の痕跡があるはずで、眠る時に気付かないのはおかしい。
 開かない扉が外と繋がっており、二人はそこから運び込まれ、ベッドに寝かされた、とするのが一番自然だった。
「……に……!」
 智信の口から、声にならない言葉の断片が零れる。
「そ……は……に……で、出口……な……だ……!」
 それなのに、そのはずなのに、なんで出口がないんだ……!
 そう怒鳴ったつもりだった。だが、乾燥して潰れてしまった声帯は、発声を拒否する。

216 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/17(月) 18:06:59 ID:qbs6MDNN
 智信は暫くの間、暗闇の向こう側に、何かが見えたりはしないだろうかと目を凝らしていたが、やがて諦めたのか、扉を閉めた。
 もう、この先、どうすればいいのかわからなかった。この部屋には、出口がない。あるのは、どこへ繋がるとも知れぬ深い闇だけだ。
 恐怖からか、体ががくがくと震え、吐き気まで催してきた。そのまま、不安定な足取りで、トイレへと向かう。
 智信は便器に頭を突っ込み、思い切り吐いた。とは言っても、胃の中には内容物は一切残っていないから、口から滴るのは粘ついた胃液だけだったが。
 レバーを引いて、水を流す。水が流れるのだから、少なくとも排水設備はあるはずで、外界から完全に隔離された場所とは考え難いのだが……
 そんなことを考えながら、智信は何気なく、水面を見た。
「……?」
 ふと、小さな違和感を覚える。智信は、その違和感の正体がなんであるのか、最初はわからなかった。だが……水面を見つめるうちに、智信は気付いた。
 違和感の原因は――水面にぼんやりと、揺らめきながら映っている、智信の顔にあるのだと。
「あ……」
 ぽかん、と。智信の目が、口が、大きく開かれる。それは智信にとって、この部屋に閉じ込められてから、一番の衝撃だったかもしれない。
 そうは言っても、第三者の視点から見れば、智信が何故こうまで驚いているのかを理解するのは難しかっただろう。
 だって、水面に映っている顔は、とりたてて語るところもない、ごく普通の顔なのだから。美しくもなければ醜くもない、平均的な、男の顔。
 客観的に見て、目に見える異常はない。だから勿論、留美とて、気付くわけもない。
 この『違和感』には、智信本人か、家族、親戚、友人――つまり『智信の顔を知っている人間』でなければ気付けない。

 ―― これは、誰の顔だ!? ――

 ―― これは、僕の顔じゃない! ――

「うわあああああああああ!」
 両手で頭皮に爪を突き立て、喉が焼き切れるような叫びをあげながら、トイレから飛び出す。扉を背に、その場に蹲る。
 がりがりと頭を掻き毟りながら、何とか現状を把握しようと試みるが、山積する疑問に圧倒されて、思考は正常に働かない。
 畜生! 畜生! 畜生! わからない! もう何もかもわからない!
 発狂寸前にまで追い込まれて、壁に側頭部を叩き付ける。ベニヤ板の上に物を落としたような鈍い音がした。こめかみの辺りを生暖かいものが伝う。

217 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/17(月) 18:09:00 ID:qbs6MDNN
 この痛みで目が覚めたなら、どんなに幸せだろうか、と智信は思った。
 これは、交通事故か何かに遭った僕が、生死の境を彷徨いながら見ている、長い長い悪夢で。
 僕は、病院のベッドの上で目を覚ます。まだ悪夢の残滓が燻っているのか、心臓の鼓動は早く、汗をびっしょりかいている。
 看護士さんがぱたぱたと走り回って、担当医に昏睡状態だった患者が起きたことを伝えにいく。
 僕は現実に戻ってこれたことに安堵しながら、天井を見つめる。そして、今まで見ていた悪夢について、ぼんやりと考えを巡らせる。
 白一色の内装に、鼻をつく消毒液の匂い。そりゃあ、こんな場所にずっと寝かされていれば、悪い夢の一つも見て当然だ……って。
 苦笑しながら首を横に向けると、右隣のベッドが視界に入る。そこで寝息を立てているのは――夢の中で見た少女だった。
 これが物語なら。きっと……そんな風に、綺麗に終わってくれる。
 何もわからないまま……部屋からも出られず……のたれ、死ぬ、なんて……そんな、終わり……認め、ない。認め……。
 智信は、精も根も尽き果てたとばかりに、その場に崩れた。そして、数時間も経たない内に、動くのを止めた。



 残されたのは、二つの骸。最早動くもののいなくなった部屋に、電子音だけが空しく響く。
 液晶画面に、最後のルールである、ルールDが表示される。
 それは、ここまで生き延びた強者への、最初で最後の助言。
 永久に出ることのできない袋小路に放り込まれた仮初の生命を、せめて意義あるものにする為の、唯一の解。

『ルールD 醜い生は死であり、潔い死は生である』

 ルールDを表示し終えて間もなく、再度、電子音が鳴り響く。
 今まで、ルールが公開される度に鳴っていた音とは違い、目覚まし時計のベルにも似た、激しい音だ。
 その音は、ゲームの終了を告げるものだった。
 音が鳴り止むと同時に、白い部屋はゆっくりと、物音一つ立てずに、崩壊していく。
 部屋と、部屋に存在するすべての物質が、原子単位にまで分解されて、飛散、消滅する。
 まるで、波打ち際に作った砂の城が、波に攫われて、元の砂に戻ってしまうように。
 ついには、部屋はその痕跡すら残さずに消え失せて、扉の外に広がっていた、あの、底知れぬ闇だけが残った。

218 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/17(月) 18:10:10 ID:qbs6MDNN
◆ようこそ、ラストステージへ

 智信の自室。ずっと机に向かっていた智信は、そろそろ小休止を入れようと、シャープペンシルを机の上に転がして、立ち上がった。
 立ち上がりついでに、大きく伸びをして、欠伸を噛み殺す。時計の針は、午前一時を指している。眠気がして当然の時間帯だ。
「畜生、眠い……コーヒー、飲むか」
 机の上には、書きかけのレポートと、乱雑に積まれた参考資料の山。
 間違ってコーヒーを零したりでもしたら洒落にならないから、前以てそれらを机の端に退かしておく。
 部屋を出て、キッチンに向かう。コーヒー豆をコーヒーメイカーに入れて、スイッチを押す。
 ブレードが豆を粉砕する音を聞きながら、食器棚からカップを取り出す。
 そこで、同じようにキッチンに出てきた父親とばったり出くわした。
 彼――佐々野敦(ささの あつし)も智信と同じく、コーヒー党であることは知っていた。
 大方、夜中に目が覚めてしまって、コーヒーの一杯でもと思いキッチンに出てきたのだろう。
 智信はドリップを完了したコーヒーメイカーからカップにコーヒーを注ぐと、コーヒーメイカーを敦の方へ差し出した。
 敦はそれを受け取り、コーヒーを淹れ始める。
 でも、互いに目は合わせない。会話もしない。智信と両親との関係は、お世辞にも良好なものとは言えなかった。
 智信と両親の仲がこじれたのには、ちょっとした原因がある。
 智信は、幼かった頃から、持ち前の要領の良さと吸収の速さで、神童と持て囃されていた。
 両親もその才能を生かそうと、智信を塾に通わせ、勉強を勧め、できるだけ良い学校に行かせようとしていた。
 そうする内に、智信は、誰に言われるでもなく、いつか一級市民昇格試験を受けるのだと心に決めるようになっていた。
 智信にとって、一級市民は目指すべき目標であり、自分の努力が報われる、一種の到達点なのだと思っていた。
 だが、大学に進学した直後、一級市民昇格試験を受けたい、と打ち明けてみると、両親は、口を揃えて反対した。
 なるべくなら、受けない方がいい。受けるにしても、今はまだ早過ぎる。もっと人生経験を積んでからがいい。それが両親の言い分だった。

219 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/17(月) 18:11:46 ID:qbs6MDNN
 思いがけない言葉に、智信は憤慨した。一級市民昇格試験の最年少合格者は、公式発表では確か、十三歳だったと記憶している。
 今日に至るまで、智信は出来る限り自分を殺して、命じられるがままに勉強に邁進してきた。
 数少ない友人とも、まともに交流する時間が取れない、そんな日々を、文句の一つも言わず過ごして来た。
 それなのに……お前はまだ十三歳以下だ、そう言われているようで、我慢ならなかったのだ。
 勿論、両親の意見にも、理がないわけではない。
 一級市民昇格試験。
 それは、知識、経験、人格……あらゆる側面から、受験者が一級市民として相応しいか試される、難関試験だ。
 試験を受けるに当たって必要な資格は一切ない。年齢、性別、学歴、階級……すべて不問。
 それでは受験志願者が殺到するのではないか、と思うだろうが、世の中そうそう甘い話が転がっているものではない。
 試験は一生で一度しか受けられず、不合格になった者は、自動的に五級市民へと降格されて、一生抜け出せない。無期懲役も同然の酷い扱いだ。
 そう、これは天国と地獄を分かつ究極の二択。天に昇って、天上の住人となるか、それとも、地の底まで落ちて、地獄の亡者となるか。
 そんなハイリスクな試験に若くして挑むのがどれほど無謀なことか。両親は、井の中の蛙である息子に、警鐘を鳴らしたかったに違いない。
 智信はカップ片手に、部屋に戻った。デスクチェアに寄りかかり、コーヒーを啜る。
 一口飲んでから、しまった、と思う。敦と長い時間顔を合わせていたくなくて、急いで部屋に戻ったものだから、ミルクを入れてくるのを忘れていた。
 苦味の強いブラックに少しばかり顔を顰めながら、机の上にカップを置く。
 まあいい。眠気覚ましには、丁度いい味かもしれない。気を取り直して、今夜中にレポートを片付けてしまおう。
 そう考えて、智信は再び机に向かい、レポート用紙の空白を埋める作業を再開した。

242 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/23(日) 00:08:04 ID:NEniwn6D
 朝霧綾香は、コンピュータに向かい、苛立たしげにキーボードを叩いていた。
 納入の期日が迫っていて、早くプログラムを仕上げなくてはならないのに、どうしても冷静ではいられない。
 頭の中から一切の雑念を追い払い、仕事に集中しようとしても、昨日の夜の記憶がぐるぐると渦巻いて、作業に精彩を欠く。
 昨日は、娘――留美の誕生日であると同時に、良夫と綾香の結婚記念日だった。
 それなのに。良夫は留美にだけプレゼントを買ってきて、綾香にはプレゼントどころか、一言もなかった。
 綾香はその無神経加減に、心の底から呆れ果てていた。良い夫と書いて良夫と読むその名前が、妻である綾香への痛烈な皮肉のように思えてくる。
 良夫は昔から、こんなに冷たい人だっただろうか? そう自分に問いかけてみて、すぐに、いや、そんなことはなかった筈だと否定する。
 以前はもっと大らかで、それでいて、細かな気遣いの出来る人だった。そもそも、出会った当初からこんな態度であったなら、間違っても結婚しようなどとは考えなかっただろう。
 よくよく思い返してみれば、良夫の『変化』の切欠は明らかだった。歯車が狂い始めたのは……二人の間に、留美が生まれてからだ。
 留美が生まれて以降、綾香に注がれていた愛情はすべて、留美へと向かっている。それは間違いないと、綾香は確信していた。
 良夫の本質は、大して変わってはいない。ただ、愛情を向ける相手が変わっただけなのだ。
 しかし、それを綾香は認めたくない、許せない。良夫と結婚したのはあくまで綾香であって、留美ではない。
 留美なんて、結婚という甘いお菓子のおまけとして添付された、安っぽい玩具に過ぎない。
 大体、綾香は良夫と一緒にいたいと思ったことはあっても、子供が欲しいと思ったことはなかった。
 綾香が留美を生んだのは『子供が欲しい』という、良夫の強い要望によるものだ。本来なら綾香は、自由気ままな二人暮らしを望んでいた。
 良夫が子供が欲しいと言ったところで、誰が面倒を見るのかと言えば、それは結局、綾香の役目になるのだから。
 閉めた扉の向こう側から、留美の遊ぶ声が微かに聞こえてくる。プレゼントを買って貰ったばかりで、上機嫌なのだろう。
 無邪気で悪意のないその笑い声すらも、綾香には嘲笑のように聞こえた。
 唇を歪めながら、ヘッドフォンを装着する。ピンをジャックに接続して、自分で編集しておいた環境音楽を流す。
 だが、風に揺れる木々のざわめきも、可愛らしい小鳥の囀りも、刺々しくささくれ立った心を解してはくれなかった。
 相変わらず作業の進捗状況は思わしくなく、打ち込むコードも、自然とスパゲッティになる。
 いかにも虫の湧きそうな見苦しいソースコードは、まるで綾香の心中を代弁したかのようだった。
 今はこれ以上続けても、泥沼に嵌るだけだ。綾香はそう判断して、作業を一時中断する。
 気分転換に煙草でも吸おうと、上着のポケットを弄る。が、出てきたのは半分潰れたマルボロライトの空箱だけだった。
 仕方ない、買いに行こう。そう思って、疲れた目を左手で軽く揉みながら席を立った。
 途中、リビングに置かれた水色の箱が視界の片隅に入る。
 綾香はなるべくそれを見ないようにしながら、簡単な着替えを済ませ、外出した。



243 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/23(日) 00:08:48 ID:NEniwn6D
 一級市民専用施設『セントラルタワー』十階。一級市民昇格試験、最終試験場。
 智信が通されたのは、銀色を基調としたメタリックな内装の部屋だった。大して広くはなく、病院の待合室程度の面積だろうか。
 背もたれ部分の後ろに、大海原の荒波を意識したと思われる曲線が彫り込まれている、一風変わったデザインのベンチに腰掛けて、事前に受けた指示通り、名前が呼ばれるのを待つ。
 両親の反対を押し切ってまで挑んだ、一級市民昇格試験だった。
 尋常ではないプレッシャーに押し潰されそうになりながらも、智信は筆記と面接をパス。後は今日行われる、最終試験を残すのみとなっていた。
 この最終試験さえ乗り切れば、智信は晴れて、一級市民資格を取得することができる。
 智信は、膝の上で組み合わせた手を僅かに震わせながら、落ち着きなく周囲に視線を泳がせる。
 同じ境遇の人間――胸に番号札を付けて待機している受験生は、智信の他に三人いた。
 スーツを着た、サラリーマン風の中年男性。白い髭を蓄えた、壮年の男性。智信と同い年くらいの、若い女性。
 他の受験者も、かなり緊張しているらしく、傍目から見ていても挙動不審だった。
 何と言っても、この試験は、天国行きか地獄行きかを決める、人生最大の分岐点なのだから、無理もないことではあるが。
「受験番号、五番、佐々野智信さん。三番扉前までお進みください」
 事務的なアナウンスが、智信の名前を告げた。三人の視線が一斉に、智信に集まる。
 智信は油切れのロボットのようなギクシャクとした動作で立ち上がり、扉の前に向かった。
「失礼します」
 そう一声かけて、プレートに『三』と記された扉を開く。
 部屋の中には、病院のCTスキャナーや、業務用タンニングマシンを連想させる、大掛かりな装置が設置されていた。
 そしてその隣に立っているのは、白衣姿の、一級市民らしい女性。胸元のネームプレートには『朽木百合』と書かれている。
「それでは、この器具を装着して、ここに横になってください。指示があるまで、動かないようお願いします」
 言いながら、彼女が差し出したのは、メカニカルなヘッドギアだった。
 ヘッドギアには、廃屋で際限なく生長した蔦のように、様々な色をしたコードが沢山絡み付いていて、それらは全て、一台のコンピュータへと繋がっていた。
 これを頭に被って、装置の上に横になれということらしい。智信は黙って、指示に従う。
 智信が装置の上に横たわったのを確認して、百合はコンピュータに向かい、スイッチを入れた。
 装置の駆動音と、コンピュータの起動音が重なり合い、微かなノイズが鼓膜を揺さぶる。
 装置の床は智信を乗せたまま上へとスライドして、智信の体全体を機械の中に収めた。間もなく足元の出入り口が閉まり、内部は完全に密閉される。
 何が始まるのか知らないが、閉所恐怖症には厳しいかもしれないな、などと呑気に構えていると、突然、光と色の洪水が襲ってきた。
 テレビのテストパターンのような、目の痛くなるくらいの原色である。智信の周りを、多彩な色をした光が、形を成して飛び回る。
 光は数秒毎に、休む間もなくその姿形を変化させる。それは花であったり、蝶であったり、雲であったり、鳥であったりした。
 智信は体を横たえたまま、目線だけをあちらこちらに動かして、暫しの間、その幻想的な光景に見惚れていた。
 そのまま、随分長い時間、寝かされていたように思う。
 昨日の夜、充分な睡眠時間が取れなかったこともあって、少々眠気を催して来た頃、出入り口が開いて、床が下にスライドした。
「お疲れさまでした。器具を外して、右手の扉へ」
 智信は呆けた顔でヘッドギアを外して、立ち上がる。
 あのヘッドギアと、装置の中で見た映像は、一体、何の意味があったのだろうか?
 この最終試験の趣旨がいまいち呑み込めず、智信は首を傾げる。まさか、ロールシャッハテスト、というわけでもないだろうが。
 考えてみた処で、今はわかりそうもなかった。疑問を頭の奥底に押し込めて、智信は右手の扉へと歩く。

244 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/23(日) 00:12:00 ID:NEniwn6D
 扉の向こうは、コンピュータルームと言って差し支えない様子だった。部屋の約半分が、無数のコンピュータで埋め尽くされている。
 その部屋の中央に配置された大きなデスク。そこに、白衣の女性が座っていた。ネームプレートには『叶綾香』と書かれている。
「そこにかけてください」
 綾香はデスクの向かいに用意されている椅子を手で示して、智信に座るよう促した。
 智信は椅子に座り、綾香と向かい合う格好になる。先の装置の中で横になっている内に和らいだ緊張が、また蘇ってきた。
 ごくりと生唾を飲んで、試験官だろう女性――叶綾香の、第一声を待つ。
「ようこそ、ラストステージへ」
 そう言って、綾香は微笑を浮かべ、大きく両手を広げた。嫌に、芝居がかった仕草だった。
「これより、最終試験『project whitebox』を開始します」
 綾香はそう宣言すると、デスクに積まれた書類を手に取り、ページを繰っていく。
 綾香の一挙手一投足に注目しながら、智信は考える。雰囲気から察するに、最終試験も面接になるのだろうか。
 もしそうであれば、下手な言葉は命取りになる。細心の注意を払わなくてはならない。智信は姿勢を正して、気を引き締める。
「筆記試験、用紙E、設問十九番の内容を覚えていますか?」
 書類に目を落としたまま、おもむろに、綾香は質問を投げた。
 何故今になってそんな質問を? 記憶力のテストなのか?
 質問の意図が掴めず、少し戸惑うが、答えに詰まるような問いではなかった。
 記憶力には、それなりに自信がある。智信は胸を張って答えた。
「はい。確か『自分よりも弱い立場の者の為に、命を投げ打てますか』でした」
「正解です。そして――」
 一拍間を置いて、綾香は唇の端を吊り上げる。
「あなたはその設問に『YES』と回答しています」
 手にしていた書類をデスクに戻して、綾香は続ける。
「あなただけが例外、というわけではありません。
実に九割以上の受験者が、その設問に『YES』と答えています。それが本当なら、とても素晴らしい世の中になるでしょうね。
それこそ、一級市民による管理など、必要ないかもしれません。ふふ……これは失言でしたか。忘れてください」
 どこか嫌味たらしい口振りではあったが、言いたいことはわかる。確かに、その設問への回答はどうしても、受験者の本音とは考え難いのだろう。
 実際、智信もそうだった。自分がどう行動するかなど関係ない。これは試験なのだからと割り切って、先方が望むであろう答えを書いただけだ。
 筆記試験や面接試験なんて、大抵はそんなものだ、と智信は思う。
 良く就職面接で、我が社の志望動機は?なんて質問があるが、あんなもの九割九分九厘嘘だ。
 面接官の前では『環境問題への取り組み等、御社の崇高な理念に心を打たれ~』と云うような、歯の浮くような美辞麗句を並べ立てるが、本音を曝け出してみれば『仕事が楽そうだったから』だったり『給料が良いから』だったり『なんとなく』だったりする。
 聞いた話ではあるが『受付嬢に一目惚れしたから』なんて理由まで出てくる始末だ。そこまでいい加減だと、会社にとってはいい迷惑だろう。
「受験者の発言と行動が一致するか否かは、実際に試してみるまでわかりません。そして、この『project whitebox』は、言葉に潜む欺瞞を見抜いて、受験者が真に一級市民として相応しい人格を持っているかどうか試すものです」
「……それは、どういった形で試すのでしょうか」
 綾香は、よくぞ聞いてくれたといった表情で、頬を緩める。
「欺瞞を見抜くとは言っても、別に、ポリグラフのような前時代の遺物を使おうというのではありません。仮想空間内に生み出された『もう一人のあなた』に、極限状況を体験してもらいます」
 仮想空間。もう一人のあなた。予想もしていなかった展開に、智信は驚きを隠せない。


245 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/23(日) 00:13:17 ID:NEniwn6D
「先程、別室でヴァーチャルブレイン用のギアを身に付けましたね? あの時に、あなたの脳のコピーがコンピュータ内に作成されました」
「コピー……ですか」
「そう、コピーです。これから、そのコピーに簡単な記憶処理を施した上で、仮想の体を与え、極限状況の中に放り込みます。そして、仮想空間内でのあなたの行動から、その人間としての器を量ります」
 綾香はそこで一つ、咳払いをする。
「ここまで、理解できたでしょうか」
 智信は黙って頷くしかなかった。
「それでは、本題である、その『極限状況』の内容についての説明に入ります。こちらのスクリーンを見てください」
 綾香が手元のリモコンを弄ると、デスクの後方にある大きなスクリーンに、光が灯る。
 そこには、暗闇に浮かぶ真っ白な立方体と、一人の少女の姿が映し出されていた。
「コピーには、外部から隔離された部屋で、少女と二人きりになってもらいます。この少女も、過去に実在の人間からコピーされた脳で動いており、条件はあなたのコピーと同じです」
 言いながら、綾香はリモコンのスイッチを押す。と、カメラは、白い立方体に向かってズームインした。
 俯瞰視点故、宙に浮かぶ巨大なサイコロのようにしか見えなかった立方体が、スクリーン全体を覆い尽くす。
 カメラはそのまま壁をすり抜けて、立方体の内部に潜入した。
「部屋に存在するのは、ベッド、トイレ、それから、箱に詰められた僅かばかりの食料のみです。また、コピーを動揺させる、ルールと呼ばれる仕掛けも用意されています」
 パイプベッド、水洗トイレ、包装された箱、液晶画面。カメラは目まぐるしく切り替わる。
「これはサバイバルではありませんから、コピーの体調、生存日数などは一切評価に影響しません。評価対象となるのは、あくまで『行動』です」
「今まで合格された方は……どういった行動を取って、評価されたのでしょうか?」
 智信は恐る恐る、そう聞いてみた。
「そうですね。試験の趣旨、ルールの特性を併せて考えると『少女よりも先に死ぬ』のが最大の条件になってくるのではないでしょうか。生への執着は、大きな失点に繋がります」
「わ、わかりました……ありがとうございます」
「他に質問はありますか?」
 智信が、いえ、と首を振ると、綾香は一息ついて、椅子に寄りかかり、足を組み替える。
「さて……これで概要の説明は終了となりますが、現在、コピーの記憶処理中です。もう少し時間がかかりますので、それまで待機していてください」
 そこで綾香は、デスクに置かれたランプが点灯しているのに気付いた。
 もうコピーの記憶処理が完了したのかもしれない。綾香はボタンを押して回線を開き、相手からの言葉を待った。
 智信は、視線を下に向けて、綾香に聞こえないよう、小さく息を吐く。最後の最後でなんというテストだ……そう思わずにはいられなかった。
 はっきり言って、智信は率先して弱者を助けようと思うような人間ではないし、生への執着だって、人一倍ある。それは本人が一番良くわかっていた。
 それでも……ここまで来てしまった以上は、止めますとも言えない。もう、奇跡でも起きてくれることを願うしかないのだろうか。
 絶望に打ちひしがれながら、智信は口の中で、もごもごと呟く。

「畜生、なんてことだ……」

「なんてことだ……」

「頼む……!」

「頼む……死ぬんだ。死んでくれ……!」

 綾香は、おかしい、と思った。回線を開いた筈なのに、いつまで経っても、声が聞こえて来ない。そして、ランプの表示を確認して、自分の間違いに気付く。
 どうやらボタンを押し間違えて、タワー内を繋ぐ回線ではなく、仮想空間内への回線をONにしてしまっていたようだった。しかも、性質の悪いことにボリュームはマックスである。
 もしかすると、記憶処理済のコピーに室内の雑音が届いてしまったかもしれない。試験に影響を及ぼさないといいのだが……
 自分らしくない、馬鹿げた失態に眉を顰めてから、素早くボタンを押し直す。 
「叶博士。後一分弱で、五番コピーの記憶処理完了します。コンピュータの準備をお願いします」
「わかった」
 答えを返しながら、綾香はほっとする。まだ記憶処理は終わっていないらしい。 
 記憶処理の最終段階で、処理中の記憶は消去される。仮に、何か聞こえていたとしても問題はない。

247 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/23(日) 00:16:37 ID:NEniwn6D
「お待たせしました。それでは、これより試験を開始します」
 綾香は回線を切り、コンピュータを起動させると、智信に向き直った。
「左手の扉から退室して、案内人の指示に従ってください」
 智信は返事を返すと、力なく立ち上がった。目礼をして、部屋を立ち去る。
 扉の外には、既に案内人と思われる若い女性が待機していた。ベルガールのような衣装の上に白衣を着込んでおり、どこかミスマッチだ。ネームプレートには『草加碧』と書かれている。
 女性――草加碧は、智信の姿を認めるなり、早口で喋り始める。
「ええっと、最終試験の概要は中で、叶博士に聞きましたね?」
「は……はい」
 碧はごそごそと白衣のポケットを探り、メモを取り出して、朗読する。
「えっとえっと。機器にかかる負荷の関係から、等速以上の速度で処理することは不可能ですので、試験は長期間に及びます。
受験者専用の部屋を用意していますので、これより試験終了まで、そちらに寝泊りしていただきます。食事はこちらで手配しますので、心配は要りません。
また、室内に備え付けのモニターで、コピーの様子を二十四時間確認できます!」
「はあ……」
 受験者は部屋で、コピーの活躍をリアルタイムで見守るらしい。
 それにしても、なんというか……個性的な人だ。
 最終試験の内容を聞いて、気分が落ち込んでいた智信にとっては、彼女の妙なテンションは毒にしかならなかった。
 とはいえ、彼女も一級市民である。今回のような試験の場合、案外こういうタイプの方が、裏表がなくて良いのかもしれない……智信は疲労した頭で、そんなことを考える。
「それでは、一名様お部屋にご案内しまーす。ついてきてくださいね」
 ここには『一名様』以外来ないだろう……という突っ込みも空しく、智信を先導するようにして歩き出す。
 碧は廊下を歩きながら、先のメモをポケットに戻して、新しいメモを取り出す。
「それからそれから。仮想空間内における整合性保持の為、脳のコピーを取ると同時に、受験者の体格、網膜すい体細胞の感度等のデータも取得していますが、合否に関わらず、試験終了後それらは全て破棄されますのでご安心を!」
 読み終わったかと思うと、やおら立ち止まって振り向き、ノーリアクションの智信の顔を覗き込む。
「……ご安心を?」
「あ……はい」
 終始、そんな調子である。それほど長い道のりではなかったのだが、智信は部屋に到着する頃には、大分消耗していた。
「それでは、ごゆっくり~」
 呑気な声と共に、ぱたん、と扉が閉められる。
 智信はがっくりと肩を落としながらも『project whitebox』と刻印されたモニタのスイッチを点ける。
 画面の中には、眠っている少女を起こそうとしている『もう一人の智信』が映っていた。
 データを取ったというだけあって、体格こそ似ているが、顔は殆ど別人のものだった。
 智信は化粧台の前に置かれていた椅子をモニタの前まで引き摺ってきて、そこに陣取り、固唾を飲んで、コピーの動向を見守った。

268 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/28(金) 00:15:43 ID:GI1AHl8r
 智信は一人、用意された部屋で項垂れる。
 智信の一級市民昇格試験は、最悪の形で幕を閉じようとしていた。
 先程まで、白い部屋が映し出されていたモニタは、黒く染まったままで、もう何の変化もない。コピー二人の死を以って、最終試験は終わりを告げたのだ。
 なまじ終盤までは期待を持たせる展開だっただけに、落胆も一入だった。
 食料を分け合い、手を取り合って過ごした。少女に手を出すこともしなかった。なのに……最後の最後、ルールCの罠にかかった。
 いくらなんでも、あれは反則だ。相手と一緒に死ぬか、相手を殺して自分だけ生き残るか、では、誰だって後者を選ぶに決まっている。
 生存本能にすら打ち勝てる強い精神力を持っていなければ、一級市民になる資格はないと言いたいのだろうが、それにしても理不尽だ。
「畜生……これで、人生終わりか」
 呟いて、窓際へと歩く。窓の外に目を遣る。セントラルタワーの十階からは、マシン・シティが一望できた。
 いつもは見上げるだけだったこのタワーから、一級市民となって街を見下ろす。それが、智信の夢だった。
 その夢はもう、叶わない。永遠に手の届かない処へと、消えてしまった。
 いっそのこと、この窓から飛び降りて死んでやろうか。冗談半分、本気半分でそんなことを考えて、智信は突き出し窓に手をかけた。
 そのまま、窓を全開にしようとしたが、半分も開かない内に止まってしまう。はめ殺しになっていて、一定以上は開かないようだった。
 腕は通るが、頭は半分も入らなくて、顔を出すことすらできない。
 もしかしたら、以前一級市民昇格試験に落ちた受験者が、ここから身を投げたとか、そんな因縁があるのかもしれない。
 と、後ろで部屋のドアをノックする音がして、智信は振り返る。
 顔を出したのは、智信をこの部屋に案内した女性――草加碧だった。
 例によって例の如く、白衣のポケットからメモを取り出して、読み上げる。
「お疲れさまでした。結果の発表は明日の朝になりますので、それまで自室で待機をお願いします」
 碧はそれだけ言うと、メモをポケットにしまって、智信の方を見た。
「……わかりました」
 智信が、大分覇気の失われた声で返事をする。碧は、ぺこりと頭を下げて部屋を出て行く。
 智信は、モニタの前に置いていた椅子を化粧台の前まで戻して、ベッドの上に倒れ込んだ。
 セントラルタワーの豪華な食事とも、今日限りでお別れだ。試験中はモニタが気になって満足に味わえなかったが、今夜くらいは、料理に舌鼓を打つとしよう。
 何せ、これが……智信にとって、最後の晩餐になるのだから。明日からは、ヒエラルキーの最下層、五級市民としての生活が始まる。そしてそれは、一生終わることはない。
 ふと、智信は、ギリシャ神話のイカロスを思い出す。イカロスは蝋で固めた羽を身に付けて天を目指したが、父親の忠告を無視して太陽に近付き過ぎた結果、熱で蝋の羽が融解、墜落死した。
 その神話は、両親の忠告を聞かず、分不相応にも一級市民を目指して、五級市民に落ちた智信の境遇と重なる。
 そんなくだらない感傷に浸りながら、智信は枕に顔を埋めた。



269 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/28(金) 00:16:31 ID:GI1AHl8r
「碧」
「は、はい!?」
 廊下を歩いていた碧は、急に背後から名前を呼ばれて、素っ頓狂な声をあげた。
 強張った顔をして振り向くが、声をかけてきた相手の顔を確認すると、途端に表情が緩む。
「なんだ、蒼兄かあ……びっくりした。仕事はどうしたのー?」
 碧に声をかけたのは、碧の兄、草加蒼だった。
 一級市民としては、蒼は碧の先輩で、一級市民内での地位も蒼の方が高い。一大派閥を指揮する蒼と比較してしまうと、碧はまだ駆け出しだ。
 本来なら立場上、顔を合わせることすら滅多にないのだが、そこはそれ、身内の好というやつで、蒼は時折こうして、碧の様子を見に来る。
 蒼は昔からそうだった。人一倍責任感が強く、いつも年下である碧を気にかけていた。子供の頃、混雑する場所に二人で出かける時などは、碧の手をぎゅっと握って離さなかった。
 碧は、そんな兄の背中を追いかけて一級市民になったと言っても過言ではない。
「少し早めの昼休みだよ。これから昼食を食べに行くところ」
 蒼はそう言って、視線を腕時計に落とす。
「それはそうと、本日の、最終試験経過について聞かせてくれないか」
「えーっとね……」
 碧はいつものように、白衣のポケットからメモを取り出す。
「新規入室はなしで、試験終了が、十三号室と、十八号室の二名かな」
「大丈夫そうか?」
「うん。多分。一人は大人しそうな女の人だし、もう一人の男の人も落ち着いてたから……」
 蒼の言う『大丈夫そうか』とは、つまり、本日試験終了を迎える受験者が、問題行動を起こす心配はないか?ということだ。
 一級市民昇格試験は、受験者の大多数が不合格となる、難関試験である。そして、不合格となった受験者を待ち受けるのは、ともすれば刑罰よりも過酷な運命。
 必然、受験者たちの精神状態は不安定になる。以前から、試験の結果を悲観しての自殺者、脱走者などは度々出ていた。中には、食事用のナイフで職員に襲い掛かる者まで居た。
 対応に苦慮した試験管理委員会は、試験期間中、食事に微量の鎮静剤を混入するなどの策を講じたが、それでも、トラブルは後を絶たなかった。
 受験者たちの案内人兼世話役として、試験の前後、受験者に直接接触する碧は、かなり危険な立場に置かれているのだ。
 勿論、不足の事態も想定して、碧が受験者の部屋に入室する際には、外に護衛を待機させたりしてはいるのだが……そんな措置では、とても安全とは言い切れない、と蒼は思う。
 大体、こういう危険を伴う仕事は、屈強な男性が適任だ。見た目が厳ついほうが、抵抗の抑止力にも繋がるだろうに。
 何故、碧が案内人兼世話役をやらされているか、と言えば、現在、新一級市民の人事決定権の大半を握っているのが叶派だからに他ならない。
 諸々のリスクを認識した上で、あえて、綾香は碧を受験者の応対に回させている。草加派の会長、草加蒼の実妹である碧を、だ。
 まったく、陰湿な真似をする……綾香のあの、嫌らしい笑みを思い浮かべて、蒼は背筋が薄ら寒くなるのを感じた。
「ならいい。頑張れよ」
 だが、そんな嫌悪はおくびにも出さず、蒼は碧に微笑んで見せる。碧も薄々勘付いているだろうが、派閥間の柵なんて、話して楽しい話題でもない。
「はーい」
 碧が元気よく返事をするのを見届けると、景気付けか、蒼は碧の肩をぽんと叩いて、廊下の奥へと消えた。



270 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/28(金) 00:17:21 ID:GI1AHl8r
 食堂で日替わり定食を食べていた蒼は、どこからか注がれる視線に気付いて、顔を上げた。
 見れば、蒼の座っているテーブルの真正面、食堂の入り口付近に、マークスがこちらを向いて立っていた。
 おかしい、と蒼は思う。いつもマークスは食堂ではなく、向かいのレストランで食事をするのではなかっただろうか……と。
 そんなことを考えている間にも、マークスは蒼のテーブルへと近付き、すれ違いざまに、一枚の紙切れを蒼に手渡した。
 そして、そのまま踵を返して、何事もなかったかのように食堂を後にする。
 蒼は右手で炭酸飲料の入ったカップを口元に運びながら、左手で器用に折り畳まれた紙切れを開く。
『重要な話がある 食後 誰にも見られず 八階第二会議室まで』
 八階の第二会議室と言えば、長い間使われていない部屋だった。そこならば、邪魔が入る心配はないと、そういうことだろう。
 マークスが叶派から重用される『project whitebox』導入後の合格者――通称『白組』でありながら、草加派と協力して、叶綾香が過去に犯した犯罪について調査しているのは知っていた。
 マークスから蒼に接触してくるとすれば、まず間違いなく、その件についての報告だ。
 蒼は手早く食事を終えてしまうと、急ぎ足で第二会議室へと向かった。

「一つ、頼みたいことがある」
 八階、第二会議室。入ってきた蒼の姿を見るなり、マークスはそう切り出した。
「まずは、これを見てほしい」
 鞄の中から、書類封筒を取り出して、束になった大量の書類を机の上に広げる。
 蒼はその中の一枚を手に取り、軽く内容に目を通して、仰天する。
「これは……『project whitebox』システム概要のコピーじゃないか……! 何の目的があるか知らないが、機密データをフロア外に持ち出したと知れたら大事になるぞ!?」
 書類を机に戻して、信じられないといった風に首を振る。
 マークスが持ち出していたのは、フロア外への持ち出しを禁じられている、機密データだった。仰々しく、書類の各所に赤い判が捺されている。
 これは派閥など関係なく、誰もが遵守しなければならない規律である。ただ、その規律の所為で、叶派の牙城である最終試験の暗部が隠蔽されている側面も否定できないが。
「まったく。今は叶博士告発へ向けての地盤固めをしている大切な時期なのに、何を考えているんだ? 最悪、叶博士の前に、君の首が飛ぶかもしれない」
「構わない。それより重要なことも時にはある」

271 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/09/28(金) 00:18:09 ID:GI1AHl8r
「構わない、か。剛毅なことだ」
 蒼は肩を竦めるが、マークスは構わず、話を先に進める。
「蒼は、叶博士に勝るとも劣らないくらい、プログラムに造詣が深いと聞いた」
「ああ。それなりに。使用言語も、名の知れたものは概ねカバーしている」
 蒼が答えると、マークスは、懐からプラスティックケースを取り出す。
「それを見込んで、頼みがある。このディスクには『project whitebox』の基礎データが入っている。このディスク内のデータと、システム概要が書かれた書類を参考にして――」
 マークスの頼みは、理解し難いものだった。一言で言ってしまえば、コピーして持ち出した『project whitebox』基礎データの大幅改鼠、である。
「できないことはないが……そんなものを俺に作らせて、どうするつもりだ? 持ち出された機密データから作成されたプログラムなど、公開できないだろう」
 それに、個人使用が目的だったとしても、セントラルタワークラスの設備がなければ『project whitebox』は走らない。一人で持っていても、宝の持ち腐れだ。
「できれば、何も言わずに頼みを聞いてほしい。それで、草加派への貸しは帳消しで構わない」
 マークスの言う『草加派への貸し』とは、言うまでもない、叶派であるマークスが、今回草加派に全面協力している件を指しているのだろう。
「……わかった。やってみよう。君を信用して引き受けるんだ。くれぐれも、悪用はしてくれるなよ」
「悪用などするつもりは毛頭ない。これは、私の自己満足だ。ともあれ、恩に着る」
 正直言って、腑に落ちない頼みではあったが、蒼は引き受けることにした。
 叶派のトップシークレットとして、名前とは対照的に、長らくブラックボックスになっていた『project whitebox』その中身を覗いてみたい、という知的好奇心もあった。
 尤も、この話を持ってきたのが、叶綾香や朽木百合あたりならば、機密データの持ち出しそのものが蒼を嵌める為の罠であると考え、書類に手を触れることすらしなかっただろうが。
 無愛想で、何を考えているか良くわからない男と取られがちなマークスだが、結局の処、大人の嘘――社交辞令が苦手なだけなのだ。それが、何度かマークスと顔を合わせての、蒼の結論だった。
「それでは、頼んだ」
 マークスは、机に広げた書類を手際よく封筒に戻すと、その上にプラスティックケースを重ねて、蒼に差し出す。
 蒼はマークスから受け取った書類封筒とデータディスクを自分の鞄に詰め、第二会議室を後にした。

291 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/10/03(水) 00:18:32 ID:LjRGawoU
◆合格者と不合格者

「あああ、どうするんだよ、これ……」
 多々良朝人は、受験者用に用意された部屋のベッドの上に座り込み、頭を抱えていた。
 最終試験の経過を映し出す筈の大きなモニタは、ポルノ映画同然の情景を映し出している。
 朝人の性格は、他ならぬ朝人自身が一番理解している。昼間、試験官から試験の内容を聞いた時から、嫌な予感はしていた。
 しかし、開始一日目の夜から、不合格を確信する羽目になろうとは、誰が想像しただろうか。
「酷過ぎる……いくらなんでも、こんなのは……」
 眠っている間に悪戯をしようとして気付かれた挙句、開き直って暴力を振るい、そのまま乱暴する。
 朝人のコピーが留美のコピーに対して取った行動は、この試験の趣旨を鑑みると、最悪の行動と言ってしまって差し支えなかった。
 朝人の苦悩を置き去りにして、モニタの中の朝人のコピーは、留美の小さな口にペニスを捻じ込み、恍惚の表情で胸をまさぐっている。
 その映像を見て性的興奮を覚えている現実の自分もまた同様に、情けなくて仕方がない。
「お前は知らないだろうが、これは一級市民昇格、最終試験なんだ! 人生がかかってるんだ! どうしてくれる! クソ!」
 マットレスに拳を叩きつけながら、モニタに向かって毒を吐いてはみるが、元々が自分の思考ルーチンの集大成である。
 正に、身から出た錆以外の何物でもなく、怒りをぶつけた処で、空しさが募るばかりだった。
 と、ベッドの端でゴトリ、と何かが落ちる音がして、画面全体が乱れた。今までコピーの蛮行を映し出していた画面に、白い部屋の壁が大写しになる。
 画面右上には『AUTO→FIX1』の表示が点滅している。
「な、なんだ!?」
 慌てて、ベッドから這い降りる。ベッドの下に、リモコンらしきものが転がっていた。
 朝人はそれを拾い上げる。どうやら、ベッドを叩いた所為でモニタを操作するリモコンが床に落下。その衝撃でカメラが自動から固定に切り替わったらしい。
「ああ、ったく! なんだよ! もうどうでもいい!」
 カメラを元に戻す気にもならなくて、朝人は頭まで布団を被り、不貞寝を決め込んだ。

↓ IN ↓

 朝人は、まだうとうととしている留美を起こすと、無理矢理手を引いて、自分のベッドの前まで連れて来た。
 そのまま、目の前に立っているように命令して、自分は服を脱いでしまうと、全身を執拗に触り始める。

292 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/10/03(水) 00:19:11 ID:LjRGawoU
 髪から頬へ、頬から首へ、首から肩へ、肩から胸へ……
「また……するんですか?」 
 感情を失ったような、抑揚の無い声で、留美が聞く。
 昨夜だけで、二度も精を吐き出したのだから、今日は干渉しないでいてくれる。留美はそう思っていた。
 そもそも、こんな奇妙な状況に置かれているというのに、話し合いを持つわけでもなく、こう何度も体を求められるとは考えてもいなかった。
 軽蔑。嫌悪。忌避。羞恥。あらゆる負の感情を含んだ視線が、朝人に突き刺さる。
 しかし、異常なシチュエーションに理性の箍が外れた朝人にとっては、そんな視線は、興奮剤にしか過ぎなかった。
 返事もせずに、留美を抱き寄せて、首筋に吸いつくと、舌を這わせる。勃起した性器を、留美の下腹部に擦り付ける。

↓ OUT ↓

 朝人はのそのそと、ベッドから身を起こした。ベッドサイドに置かれた時計は、午前六時三十分を示している。
 点けっ放しのモニタは、まだ白い壁を映していて、そこから音声だけが流れてくる。
 洋服の生地が擦れる音と、拒絶する少女の声だ。
「朝から……何やってるんだ……」
 カメラは明後日の方向を映していたが、何が行われているのかは明白だった。
 肩を落としながら、リモコンを操作して、カメラを自動に戻す。
 映し出されたのは、全裸で留美に抱きついて、腰を振っている朝人のコピーと、顔を背け、それを引き剥がそうとささやかな抵抗をしている留美の姿だった。
 まるで、盛りのついた雄犬だ……そう朝人は思う。自分のことながら、ここまでくると呆れてしまう。
 確かに、女日照りだった。少女の容姿も好みだった。それにしても、人生の一大転機に、この、あまりにあまりな醜態はなんだろう。
 寝起きのはっきりとしない頭で、その様子をぼうっと眺めている内、朝人は自暴自棄になってきた。
 ああそうか、これが多々良朝人という人間の本質だっていうのか。それならそれで、上等だ。
 心の中で啖呵を切って、リモコンのボタンを連打する。
 画面右上の表示が、目まぐるしく切り替わっていく。
 ……『FIX1→FIX2』……『FIX2→FIX3』……『FIX3→FIX4』……
 固定カメラの視点を何度も動かして、留美の全身が映るアングルを探す。
 ベストのアングルを見付けると、ズボンのベルトを緩め、下半身を露出させる。
 朝人のペニスは、起床直後である所為か、或いは性的刺激を受けた所為か、最大限に勃起していた。
 画面を凝視しながら、それを扱く。直ぐに、亀頭周辺に粘液が溢れてくる。
 画面の中で、コピーが呻き声をあげた。留美を抱き締める腕に、力が籠ったのがわかった。
 朝人のコピーが留美のスカートに精液を吐き出すのと同時に、現実の朝人も果てた。



293 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/10/03(水) 00:20:18 ID:LjRGawoU
 マークスは、朝食のサンドウィッチを齧りながら、浮かない顔でモニタを見つめていた。
 モニタには、マークスの亡骸に縋って泣く、留美の姿が映し出されている。
 一緒に閉じ込められた少女を助けて、少女よりも先に逝く。マークスにとっては理想の結末で、最終試験は幕を閉じようとしていた。
 それでも、マークスの気分は晴れない。
 永遠にこの閉じられた世界――白い牢獄に幽閉されて、死を繰り返す少女。
 今まで、そしてこれからの彼女の運命を思うと、素直に合格を喜ぶ気分にはならなかったのだ。
 そういった感情を抱くのは、おかしいことなのかもしれない。所詮、彼女の存在はデジタルデータ、無機質な数字の集合体なのだから。
 彼女は血の通った人間ではないのだ――そう考えようとしても、どこか、やりきれないものを感じてしまう。
 何故なら、彼女のデータは、無から生み出されたものではない。抽出元は、人間だ。ならば、構成要素が有機物か無機物かに何の違いがある?
 これでは人間の心を、コンピュータの中に封じ込めたも同じではないか……?
 マークスは、そう思わずにはいられなかった。

↓ IN ↓

 留美はベッドの上に横たわるマークスの亡骸に縋って、泣いていた。ぽろぽろと零れた雫が、マークスの服の襟元を濡らす。
「なんで……こんなこと……」
 留美は、日に日に衰弱していくマークスに気付けなかったことを、心の底から悔いていた。
 いくらでも、気付くチャンスはあったはずだった。
 それほど日数も経っていないのに、体が動かなくなって、声も出なくなってきて……明らかにおかしかった。
 なのに『私は子供の頃から病弱なんだ』そんな、今思えば見え透いた嘘を鵜呑みにしてしまっていて、それ以上追求しなかった。
 いかに自分のことだけで手一杯だったとはいっても、これは私の怠慢だ、そう留美は思う。
 もし、彼の真意に気付けたとしたら。そんなこと止めてください、二人で一緒に助かりましょう、そう言って、彼の行為を止めることができたのに。

294 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/10/03(水) 00:21:15 ID:LjRGawoU
「私……こんなことより……マークスさんが生きていてくれたほうが……嬉しかった……」
 声をかけた処で、もうマークスは返事をしない。残されたのは、一枚のメモ。それから、水色の箱に丸々残った、水と食料。

 二人では三十日を生き延びられない。だが、水と食料を一人に集中させれば、生き延びられる可能性はある。
 ルールAを見た時点で、マークスはすぐにそう判断を下した。
 そして同時に、マークスは決意した。
 留美には秘密で、水と食料を全て残しておこう……と。
 マークスは自らの意志で、留美生存の為の捨て駒となる道を選んだのだ。
 水と食料を残しておくと一言で言っても、それは決して簡単なことではなかった。
 何といっても、殺風景な部屋である。互いの動向以外に、観察するものなどない。箱にまったく手をつけなければ、不審に思われる。
 故に、マークスは定期的に箱を開けては、水を飲んでいる振り、食料を食べている振りをしなければならなかった。
 ペットボトルに口をつけて、飲んでいる振り。カロリーメイトの箱だけ開けて、食べている振り。
 その度に、強烈な渇きと飢えに襲われた。本来の目的を忘れて、ペットボトルの中身を一気に飲み干してしまいたくなったのも、一度や二度ではない。
 それでもマークスは、何とか初志を貫徹した。折れそうになる心を奮い立たせて、水、食料を文字通り死守した。
 最後の数日間。死が足音を殺して忍び寄ってくるのを実感しながらも、恐怖は微塵もなかった。それどころか、達成感に満たされてすらいた。
 だからだろうか。マークスの死に顔は、極限状況の中で死んだとは思えないくらいに、とても安らかなものだった。

 留美はマークスの残したメモを手に取って、広げた。
『もっと一緒にいたかったが、ここまでのようだ 水と食料は残しておく 君は必ず生き残って、ここを出られると信じている』
 彼らしいと言えば彼らしい、簡潔な文章だった。でも、その飾り気のない一行に、マークスの優しさが凝縮されているような気がした。
 目の前がまた、涙で霞んで見えなくなる。
「マークスさん……」
 留美は途切れ途切れ、マークスに語りかけた。
「最初の日、マシン・シティの郊外にある小さな美術館の話、してくれたじゃないですか……」
「とっても素敵な場所なんだって。今度連れていってあげるって、約束してくれたじゃないですか……」
「だから、お願いです! 起きて……! 私を一人にしないでください……!」
 暫くの間、留美の嗚咽だけが、白い部屋に響いていた。

↓ OUT ↓

 サンドウィッチを食べ終え、皿をキャスターテーブルに戻すと、マークスは立ち上がった。
 モニタに近付いて、そっと手を触れる。微弱な静電気の感触が、手の平に伝わってくる。
「私は、ここにいる」
 そう呟いても、聞こえるわけもない。そんなことはわかっている。溜め息を一つついて、モニタに背を向ける。
 受験者である、マークスのコピーは死んだ。もうこれ以上は、蛇足に過ぎない。
 一刻も早く、モニタの中の閉じられた世界を終わらせてほしい。マークスはそう願った。
 一人残された少女の嘆きは、まるで、自分が犯した罪のようだったから。

295 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/10/03(水) 00:22:30 ID:LjRGawoU
◆牢獄の崩壊

叶派会長逮捕! 戦慄の『娘殺害依頼』

 六日未明、一級市民、叶派会長、叶綾香博士が殺人教唆の疑いで逮捕された。
 今月四日、麻薬密売容疑で逮捕された四級市民、牧田享一が、取調べの際、二年前に発生した中二少女轢き逃げ事件に関与したことを自供。
 未解決のままであった轢き逃げ事件が、朝霧留美さんの実母、叶綾香博士によって依頼された『計画的犯行』であることを明らかにした。
 叶博士は全面的に容疑を認めており、五級市民への降格は決定的となりそうだ。
 叶博士が一級市民昇格試験の試験内容にも深く携わっていることなどから、各方面からは、一級市民昇格試験の内容の妥当性、透明性を問題視する声があがっている。
 一級市民の、常軌を逸した『娘殺害依頼』に、マシン・シティ全体に衝撃が広がっている。



 一級市民昇格最終試験、第一管制室。
 蒼は感慨深げに、部屋をぐるりと見回した。
「ここにも間もなく、捜査の手が入る。叶博士が管理していた機材も全て押収されるだろう。これで『project whitebox』も終了だ。技術だけは最高峰だったというのに、勿体無い」
「これでいい。もし『project whitebox』がこのまま続いていれば、女性にも同様の試験が採用される予定だった」
 と、マークス。
「今度は『幼い少年』を生贄にした試験だ。いかに俗世と乖離した世界とはいえ、こんなプランが高く評価されていたのは、狂気の沙汰としか言いようがない」
「手段はともかく、人格適性検査としての精度だけは、俺は買っているが」
「一級市民としての器を量る、というだけでなく、他方面での利用も検討されていた。メディア有害論の検証等も行うつもりだったらしい」
 言いながら、マークスは自分が使用していた机の引き出しを開けて、鞄へと私物を詰め込む。
「……見ての通り、叶派は会長の逮捕で総崩れだ。どうだ、マークス。草加派に宗旨替えするつもりはないか?」
「今回の件で、派閥というものにほとほと愛想が尽きた。私はもう、どこにも所属するつもりはない」
「ほう。尽きる愛想なんて、あったのか?」
「……ふん」
「さて。私物は大方、鞄に詰めただろう? 撤収といこうか」
 蒼はそう言って、部屋の入り口に視線を向けた。が、マークスは首を振る。
「いや……まだ、最後の仕事が残っている」
「最後の仕事?」
 怪訝な顔をする蒼に、マークスは意味深な笑みを浮かべてみせた。
「以前、私が蒼に頼んだ『project whitebox』のデータ、覚えているか」
「ああ、覚えているが……」
「全てが終わった今こそ、それの出番というわけだ」
 マークスは叶博士のデスクへ向かうと、コンピュータを操作した。
 データディスクをトレイに入れて、保存されている『project whitebox』のデータを、蒼が改鼠したものに差し替える。
「おい――」
 何をするつもりなんだ、蒼がそう口にする前に、マークスは、プログラム実行のボタンを押した。
 コンピュータの起動音が、部屋に響く。システムモニタを、文字列が流れていく。

 virtual brain ver1.3 ……ok
 virtual body ver1.5 ……ok
 datafile loading ……ok

 project whitebox start……

296 :白い牢獄 ◆SSSShoz.Mk:2007/10/03(水) 00:24:12 ID:LjRGawoU
◆エピローグ

 『私は誰?』
      『今どこにいる?』
              『何をしている?』

 気が付いたら、私は、大きな建物の前に立っていた。
 寝坊した朝みたいに、記憶がはっきりしなかった。
 私は……なんで、ここにいるんだろう? 暫く考えてみるけれど、どうしても思い出せない。
 そのまま、玄関の前で立ち尽くしていると、きいっと音を立てて、ひとりでに扉が開いた。
 まるで、中に入ってきてって誘っているみたい。
 私は吸い寄せられるようにして、その建物の扉をくぐった。
 建物に入って最初に目にしたのは、見るからに高価そうな調度品と、有名画家の描いた絵画。
 建物は、どうやら美術館みたいだった。
「すみませーん……だ、誰かいませんかー?」
 恐る恐る、声をあげてみるけれど、返事はない。広い館内に、私の声だけが反響している。
 受付にも、人の姿はなかった。
 今日は休館日なのだろうか? もしかして……鍵をかけ忘れてしまった、とか。
 それは、美術館にしては無用心過ぎる気もする。でも、もしそうなら、勝手に入ってしまってまずかったかなあ。
 そんなことを思いながらも、私は、美術品の数々を眺めながら、順路に従って進む。
 異変が起こったのは、順路の一番奥にひっそりと飾られた、花畑の絵を見た時だった。
「え?」
 目の前の花畑の絵が、美術館が、突然、消滅した。
 そして、その代わりに、私の目の前に広がっていたのは、一面の花畑。
「あ……」
 感嘆の声しか、出てこない。まるで、夢の世界に迷い込んでしまったみたいだった。
 そうだ。これはきっと、明晰夢なんだ。だから、美術館が消えて、花畑になったりするんだ。私は、一人で納得する。
 ふと、頬を熱いものが伝った。涙だった。
 どうして、私は泣いているんだろう?
 確かに、この花畑は、とても広くて、とても綺麗で……
 でも、泣くほどのことじゃない。それなのに……
“留美”
 不意に、誰かが私の名前を呼んだ。
 その声は、初めて聞いた筈なのに、どこか懐かしかった。
“――さようなら、留美”
 私に語りかけてくる、優しくて、少しだけ悲しい声。
 ……お父さん? いや、違う。この声は――
 その声の『正体』に思い至った瞬間、言葉を紡ぐ暇すらなく、私の意識はホワイトアウトした。

白い牢獄 ……END

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最終更新:2007年10月08日 19:34