654 :書く人:2007/06/04(月) 20:08:26 ID:+UD6aEda
駅前にコンビニすらない。そんな田舎を想像できるだろうか?
僕は想像できる。だっていつもそこから電車に乗っているのだから。
家からバスで20分の無人駅。そのバスは、一日5本。
しかもバスの時間と電車の時間が三十分以上ずれている。
だから、僕は毎日三十分を、ペンキの剥げた待合室の駅で一人で30分の時間を過ごす。
中学に上がり、電車通学になった当初は、その時間が限りなく苦痛だった。だがもう4年近くたった今では、それにも慣れた。幸いなことに読書を覚えたから。
朝夕の駅での30分と、電車に揺られる20分。計二時間近い時間は、趣味の時間となった。
ある意味、ペンキの剥げた待合室は、家にある自分の部屋よりも、落ち着ける場所になっていた。
そんな僕の領域に、この春、侵略者が現れた。

655 :書く人:2007/06/04(月) 20:18:10 ID:+UD6aEda
侵略者は金髪だった。やや釣り目で、派手な感じの女の子だった。
その彼女が、同じ駅を利用するようになった。
制服は、僕の通う高校の近くにある女子高。お嬢様校、というわけではないが、かわいい制服で有名な学校だ。
その制服を着崩した彼女は、毎朝駅舎で携帯を片手に時間を潰していた。
華やかな―――悪く言えば遊んでいる感じの、女の子。
僕は、どうにもその女の子に気おくれを感じていた。
派手目の彼女に対して、僕は地味の極みだ。髪を染めるなど夢のまた夢。
どうもとっつきにくかった。
まれに読んでいる教科書のタイトルからして、どうやら学年自体は一つ下のようだが、それでも今一苦手意識を払しょくできない。
向こうも、どうやらこちらを苦手に――ひょっとしたら嫌悪すらしているのか、話しかけるどころか、目を向けてくることすらない。

656 :書く人:2007/06/04(月) 20:25:07 ID:+UD6aEda
それでも双方に不幸なことに、駅舎にはあのペンキの剥げたベンチが一つあるだけ。
だから僕と彼女はそのベンチの両端に陣取り、それぞれ互いを見ないように本と携帯を見つめるという、実に胃に悪い30分を朝夕に過ごさなくてはならなかった。
だがそんな日々は、数ヶ月後の夏の日、唐突に終わりを迎えた。

658 :書く人:2007/06/04(月) 20:50:59 ID:+UD6aEda
初夏の台風が、僕の住んでいる町――というか村を直撃した。
学校を出た時点でかなりの風と雨があり、時に雷が鳴っていた。それでも公共交通機関は動いていて、電車は定刻道理に動いていた。
それに飛び乗り、僕と、そして彼女は駅に降り立った。
また憂鬱な30分かと、ため息をつきながら僕はベンチの右端に座る。
一方の彼女も濡れた服が不快なのか、わずかに顔をしかめていた。
その顔は、少し青ざめているようにも見える。
寒いのかもしれない。

(放って…おけないよな)

 余計なお節介かもしれない。拒絶されるかもしれないとも思ったが、良識がそれをねじ伏せた。
 仮に余計なお世話で、キモい、ウザいなどと言われたとしても、自分が嫌な思いをするだけだ。
 そう思い、僕はベンチから立ちあがり、駅舎の片隅にある、ほこりをかぶった棚に歩み寄り、そこに置いてあったブリキ缶を手に取る。
 その中身を覗いて、僕は少し安堵する。
 よかった、まだある。
 僕はそのあと、できるだけ人を安心させれるような笑顔を意識しながら、振り返った。

「あの……コーヒー飲む?」
「…はぁ?」

659 :書く人:2007/06/04(月) 20:59:31 ID:+UD6aEda
失敗だったかな、と僕は思った。
女の子は明らかに不審そうだ。
最近は通り魔的変態犯罪者がぽこぽこ出てくる世の中だ。
僕もその類と思われたのかもしれない。
けれど、彼女が続けた言葉で、勘違いだったと理解する。

「コーヒーっていったって、自販ないじゃん」
「いや、これを使う」

 犯罪者と思われたのではないと安心した僕は、先ほどより少し自然に笑顔を浮かべながら、缶の中身を取り出した。
 それはヤカンとスチールのカップと、そしてキャンプ用のガスコンロに、マッチ。
 僕はそれをベンチに置くと、マッチでコンロに火をつける。

「ちょ、か、勝手に使っていいの!?」
「大丈夫だよ。これ、僕が用意したものだから」

 冬場は近く(といっても歩いて30分)に住んでいるおじいさんが管理していて、ダルマストーブが焚かれている。だが、時にはその火が消えているときもあり、そんな時のために僕は家の倉庫にあったこれを、駅に持ち込んでいたのだ。
 冬場などは、これで入れたコーヒーを片手に、本を読んでいる。

660 :書く人:2007/06/04(月) 21:05:07 ID:+UD6aEda
 一方の女の子は、目を丸くしていてこちらを見ている。
 僕は火の大きさを調節しながら、

「迷惑…だったかな?」
「別にそんなんじゃないけど……どうして?」

 問い返されて、僕は彼女の顔を見る。前から色白だとは思っていたが、今日のその顔色はいつもよりさらに白く見える。

「どうしてって、寒そうだから」
「寒い?別にあたしは寒くなんてないわよ」
「けど、顔色悪いよ?」
「わ、悪くなんてないわよ!」

 なぜか、本当に脈絡なく、彼女が声のトーンを上げた。
 何か気を悪くしたのかとびっくりしていると、彼女ははっとしたように、再び声のトーンを下げて

「さ、寒くなんてないわ。大体、顔色だって悪くなんて…」

と彼女が言いかけたそのときだった。

661 :書く人:2007/06/04(月) 21:17:02 ID:+UD6aEda
 爆発音がして地面が揺れた。窓の外が真っ白になり、木製の駅舎の全体が軋んで音をたてた。
 雷が、近くに落ちたのだろう。
 流石に僕もこんなことは初めてで少し驚いたが、その直後、もっと驚くことが起きた。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 落雷の直後、彼女は雷に負けないほどの大きな悲鳴をあげて、こっちにタックルしてきた。どうにか踏みとどまった僕の体に、彼女は手をまわして、思い切り抱きしめてくる。

「ヤダヤダヤダヤダ!怖い怖い怖い怖い!」

 抱きついてきた彼女の体は細く、やわらかく、いい匂いがしていたが、そんなことを感じ入っている余裕がないほどに、彼女の細い体はガクガク震え、涙声で叫んでいる。

「だ、大丈夫だから、落ち着いて」
「う、うん。……?きゃぁっ!?」
「うわっ!」

 今度は、彼女は僕を突き飛ばした。
 尻もちを突く僕を彼女は見下ろしながら、自分の体を守るように抱いて、こちらを見下ろしてくる。

「な、何しようとしたのよ!?」
「……何もしてないよ」

 あまりに不条理。僕は流石に怒りを感じて彼女を見返す。
 彼女は色白の肌を、先ほどの血の気のない様子から打って変って血色良くしていた。
 何か言い返してくるかな、と思っていたら

「……ごめん。混乱してた」
「ええっ!?」
「な、何よ!その「ええっ!」って!?」
「素直に謝ってくるとは思ってなくて」
「何よそれ!悪かったと思ったら謝るにきまってるじゃない」

「そだよね。ごめん」

 ふくれっ面をしながら、そっぽを向く彼女に、僕は自分の失礼を謝りながら立ち上がり、転んだ時に取り落としたやかんを拾い…

「……ひょっとして、顔色悪かったのって、雷が怖かったから?」
「そ、そんなわけないじゃない!」

図星だったらしい。

662 :書く人:2007/06/04(月) 21:22:11 ID:+UD6aEda
 僕は真っ赤になって反論してくる彼女を見て、少し笑った。

「ば、馬鹿にしたわね!」
「違うよ。雷を怖がるなんてかわいいな、って思ったんだ」

 そういう僕の返答に、彼女は顔を少ししかめる。

「何それ、ナンパ?」
「ち、違うよ!」

 今度は僕が赤面させられた。ナンパなど、地味道一直線の僕には縁のない言葉だ。
 そんな僕を、彼女は値踏みするように見てから。

「ま、確かに、そんなことできそうに見えないもんね。子供っぽいし」

 一つとはいえ年下の少女にそんなことを言われると、流石にきつい。
 一方言った方は少し機嫌が良くなったらしく、ベンチに座ってこう続ける。

「ま、とにかく。付き合うわよ?」
「へ?」

 ナンパにってことか?
 そう思った僕の思考を読んだのか、それともただの偶然か、彼女はこう続けた。

663 :書く人:2007/06/04(月) 21:26:41 ID:+UD6aEda
「コーヒー、淹れてくれるんでしょ?」

 それこそが、僕―――喜沢弘文が初めて見た彼女―――椎名マリアの笑顔だった。






 反応次第で続きを書くかもしれません。

730 :書く人:2007/06/17(日) 02:35:11 ID:oH5EQbW3
 切っ掛けとは、とても大切なものだと実感した。襟を開いてみれば、椎名さんはとても話しやすい人だった。
 椎名さんはコーヒーを飲みながら、色々と自分のことを教えてくれた。
 自分がハーフで、父親が日本人、母親がフランス人。一番印象に残る特徴である金髪は、その母親譲りの天然だそうだ。
 日本に考古学の研究(初めて知ったことだが、世界最古の土器は日本から出土したらしい)に来ていた母親と、大学で神道の勉強をしていた父親が出会って、ということらしい。その父親は、この春この村にある神社の神主を引き継いだらしい。

「つまり家は神社。どう?金髪巫女さんよ?」
「…?」

 そう言われて、僕は首をかしげた。言葉としては彼女の言っていることは分かったが、その意味が分からなかったからだ。
 素で混乱する僕の様子を見て、なぜか椎名さんの顔が赤くなり

「ちょ、ちょっと待った!アンタってオタクとかそう言うのじゃないの!?」
「……えっと…一応インドア派だけど…」

 どうやらソッチ系の人間と思われていたらしい。まあ、時々、その道に堕ちた友達から借りたラノベを読んだりしてたから、それを見て椎名さんもそう思ったのかもしれない。
そう言えば、と僕は思い出す。ラノベを貸してきた奴が『金髪貧乳巫女さん萌ぇぇぇぇっ!』って叫んでたことがあった。
 椎名さんは制服の上からでもわかる位に豊満な体つきだから、貧乳という項目から外れるけれど、金髪と巫女さんというところでは一致する。
 そうか。椎名さんは自分は『金髪で巫女だけど、オタクのあなたとっては『萌える』存在でしょ?』という意味で言ったのだろう。
 さらにそこから一つの結論が導かれる。

「椎名さんって…ひょっとしてオタクとかに詳しいの?」
「なっ!なわけないでしょ!?ア、アンタがオタクっぽいからそれに合わせてあげようとしただけなんだから!」

 怒られた。
 椎名さんはそっぽを向くと「ったく…一美の奴、男はそう言えばイチコロだって…つか、なんで私、こんな奴をイチコロにしようと…」と呟く。
 どうしたものかと途方にくれる僕。
 どうでも良いけど、どうして僕は年下らしき女の子にさん付けをするだけにとどまらず、アンタ呼ばわりされてるんだろう?
 現実逃避気味に考えていると、椎名さんが顔はそっぽを向いたままでこちらを見てきた。

「で、アンタはなんて名前なのよ?」
「あ、そっか。まだ名前を言ってなかったよね」

 だからアンタ呼ばわりだったのか。
 そう言えば互いの自己紹介の最中だったと、僕は自分の紹介を行う。
 と言っても、特に言うことはなかった。
 名前は喜沢弘文という、どこにでもあるありふれた名前。
 運動は少々悲惨。成績は多少自慢できる程度。身長はやや高め。顔は不細工ではないが、ぱっとしない。
下手に個性があるため、ある意味『全てが平凡』というプロフィールよりもよほど相手の記憶に残らないタイプ。
 唯一個性と言い切れる点と言えば、自他共に認めるほどの読書好き、という点かもしれない。

「あ、それから両親は医者と薬剤師」
「うわっ!実はお金持ちのお坊ちゃんだったの、ヒロフミは?」
「そうでもないよ」

 結局、椎名さんは僕のことを下の名前で呼び捨てにすることにしたらしい。
 ひょっとしたら同い年以下と思われてるのかも。

731 :書く人:2007/06/17(日) 02:35:59 ID:oH5EQbW3
 ま、いいか。
 別に敬称で呼んでもらいたいわけでもないし、椎名さんみたいな女の子に、下の名前で呼び捨てにされるのも、悪くない。
 そのくらいの下心、コーヒー一杯分の代金として認めてもらえるだろう。
 そんな風に理論武装している僕をまるで咎めるようなタイミングで、鋭い光が照らした。
 雷だ。
 
「ひいっ!?」

 もし雷がその語源通り神様が鳴らすもので、邪念を抱いた僕に対する警告だとしたら、それは思い切り方法選択をミスしている。
 なぜなら煩悩を増長するからだ。
 椎名さんが顔色を変えると、こちらに飛びついてくる。
 流石に胸に飛び込んではこないが、僕の腕を掴んで抱きしめる。
 直後、稲妻に遅れること一秒程で雷鳴が届く。

「…っ」

 僕の腕を抱きしめる強さが増す。
 夏服の薄い生地越しに伝わってくる柔らかさと、震え。
 僕は邪念を払いながら、椎名さんに気遣いの言葉をかける。

「大丈夫?」
「あ、あた、あたりまへじゃなひ」

 呂律が回ってない。
 本気で怖がっている彼女には悪いけれど、その様子はとても可愛かった。

「大丈夫だよ。雷なんてそんな怖いものじゃ……」
「子供の頃、ね」

 苦笑交じり僕の言葉を遮って、椎名さんが俯いたまま言う。
 表情は見えないが、声の調子からして無表情で喋ってるように思われる。

「子供の頃、母さんに連れられて山に行ったの。大学の研究班の人達と一緒でね。遺跡の発掘だったの。
その中で、お母さんと仲の良いお姉さんがいてね。よくアメをくれる人でね。その日も一緒だったのよ。
けど、突然山の天気が悪くなって、雨が降って、雷になって、慌てて道具を取りに行ったお姉さんが……どかーんって…」

 そこまで言って沈黙する椎名さん。
 どうしよう。思ったよりハードだ。
 椎名さんは僕の腕を掴んで俯いたまま、口を開いた。

「だから……雷だけはどうしてもだめで…それ以外は大丈夫なんだけど…ね」

 雨音に混ざって消えてしまいそうなほどにか細く、頼りない声。
 苦笑とはいえ笑ってしまったことを僕は恥じる。
 少しでもその恐怖とトラウマが和らぐようにするにはどうすればいいかと考えた時だった。
 ガタガタと、駅員がいたころ事務室として使われていたらしい部屋から物音がした。
 そして、例によって例のごとく

「イヤァァァァァァァァァァァァァァッ!」

 椎名さんが悲鳴を上げた。
 彼女は今度は僕の首に抱きつくと、左右にガクガクとシェイクする。

「ナニナニナニナニ!?お化け?お化け!?ダメダメダメェッ!」
「お、おち、おちつ、落ち着いて!」

 僕が椎名さんを宥め終るより早く、事務室の扉が開いた。

732 :書く人:2007/06/17(日) 02:36:49 ID:oH5EQbW3
「―――!?」

 恐怖に息を止める椎名さんと、首を絞められ息が止まる僕。
 そんな二人の前に現れたのは

「ワン」
「――――犬?」

 涙目を見開きながら、椎名さんは事務室の横開きの扉を、器用に前足で開けて入ってきた柴犬を見る。
 腕の力が緩んだ隙をついて呼吸を確保した僕は、椎名さんに説明する。

「き、近所の安田さん家で飼われてるチコだよ。時々逃げ出してくるんだ。
 最近は安田さんがしっかり鎖を付けるようになってて来なかったんだけど…」

 見ればチコの首輪にはロープがついており、その先には杭が結わえつけられていた。
 この雨で地面が緩んだ所を、引っこ抜かれたらしい。
 が、その辺りはどうでも良いだろう。
 どうせ明日の朝になれば、安田さんがチコを回収に来る。目下の最大の問題は

「で、幽霊とかも駄目なの?」

 至近距離で見つめる椎名さんの横顔。椎名さんは少し表情を引きつらせた後、先ほどの雷のトラウマを話した時と同じように、表情が見えないように俯いて

「子供の頃、お父さんに連れられて―――」



 とりあえずこの日、僕は金髪の彼女の名前が椎名マリアであることと、強気そうな物腰とは裏腹に結構臆病で可愛いこと、そして、離してみると結構面白いと言うことを知った。
 その夜以来、僕の朝夕駅舎で過ごす三十分は、以前と異なるものになった。本以外の楽しみができたのだ。
 それは椎名さんと過ごすことだ。
 とはいっても、いつも三十分おしゃべりをし続けるわけでもない。
 その時間の大半は会話もなく、ただペンキの剥げたベンチで一緒に座っているだけだ。
 けれど、その時間はとても居心地がよかった。
 誰かが隣にいると言う事実と、時折交わされる会話。
 朝の時間はいつも一緒だが、夕刻はそれぞれの予定が異なるために、会えないこともしばしばある。
 あの嵐の夜までは、むしろ安心を覚えた独りの時間が、今ではとても物足りなく、寂しいものに思われるようになっていた。
 弾み歌うような彼女の声音と喜怒哀楽の感情。
 それらがたまらなく心地よく、彼女といることが好きになっていった。
 自分の抱いている感情が恋心であることに気づくまで、時間はいらなかった。
 そのまま一か月半の時間が過ぎた。

733 :書く人:2007/06/17(日) 02:39:00 ID:oH5EQbW3
七月の半ば過ぎ、もうすぐ夏休みという頃だった。
下校中、アスファルトの照り返しに辟易していた僕の耳が、声を拾った。

「そこのヒロフミ!ちょっと待ちなさい!」

 ヒロフミ違いと言う可能性は限りなく低かった。
 理由は呼ばれた声に聞き覚えがあったからだ。

「椎名さん?」

 振りかえった僕の視界にはいつの間にか間近まで近づいていた椎名さんの顔があった。
 勝気な印象のある目と金髪。
 至近距離で見た椎名さんの表情に、少しドギマギしながらも僕はどうしたのかと聞こうとして、手を掴まれた。

「え?」
「先生確保したわよ!」

 椎名さんは振り返ると、僕の右手を持ち上げながら振り向いて声を上げる。
 その先に、椎名さんと同じ制服を着た女の子達が三人いた。

「……どういうこと?」

 僕の質問に、椎名さんは質問で返してきた。

「ヒロフミの学校って二学期制で、夏休みの前に期末ないわよね?」





 事の発端は、半月ほど前に帰ってきた全国模試の結果らしい。
 成績表と一緒に配布される上位者名簿。その二年の部、数学の項の末席に、僕の名前が載った。
 友人は、この結果をひっさげて親になんか買ってもらえと言っていたが、残念ながらうちの両親の方針は
『勉強は自分のためであり、成績が良かったからと言ってなぜ褒美を与えねばならんのだ』
 そんな僕にとっては見て励みにする以上の意味を持たなかったそのデーターを、

「見つけた時はこれだ、って思ったのよ。ヒロフミこそ、私達を補修地獄から救ってくれる救世主に違いない、ってね」
「わ、私は別に教えていただかなくても補修なんてなりませんわ…!」

 学校の近くの学校の近くの図書館で、僕は椎名さんから事情を聞いていた。
 その説明に際して、椎名さんの友達の一人――円谷さんが抗議したが、上げてしまった声は思いのほか大きくなったのを自覚し押し黙る。
 もっとも、周囲に人影はなく、咎められることはなかった。それでも反省して身を縮める辺り、真面目な人なのだろう。

 椎名さんの話によると、椎名さんとその友達を含めた四人のうち、円谷さん以外の三人は中間テストで惨憺たる結果を残したらしい。
 このままでは夏休みは補修でつぶれることが必至と言うことで、円谷さんに連れられて図書館で勉強会と言うことになったらしい。しかし円谷さんにもテストがあり、椎名さん達にかまってばかりもいられない。
 そこで、道端で見かけた僕を呼びとめた、ということらしい。

734 :書く人:2007/06/17(日) 02:39:55 ID:oH5EQbW3
「いいじゃない、美咲ちゃん。せっかく教えてくれるんだし~」
「そのとーり。男子一人に女の子四人の勉強会ってのは、シナリオ分岐イベントの王道じゃないかね?」

 椎名さんの説明に不服そうな円谷さんに、左右から声が掛けられる。
 全体的にのんびりとした口調の背が高い女の子のフォローと、それとは対照的に小学生と言われても違和感ない身長の女の子の微妙なフォロー。
 なんというか、こういった言い方はなんだが、円さんとは異なりどことなく、お馬鹿な印象を受ける。
 特に背のちっちゃい方の子からは、なにやら前述したオタ系の友人と同じ雰囲気が伝わってくる。
 そのちっちゃい子の方が、こちらを見てニヘラ、という感じの笑顔を浮かべ

「とは言った物の、すでに彼はマリリンルートに一直線!って感じかなぁ?」
「な、なんで私の名前が出てくるのよ!?」
「声が大きいですわよ!」

 注意する円谷さんだが、椎名さんは聞く耳を持たないようだ。
 うわ、本当に「ですわよ」なんて語尾を使う人がいるんだ、と感心する僕の目の前で、マリアの追及を背の小さな女の子はのらりくらりとと交わしてゆく。

「んー、けれどねえ。わざわざ別の学年の順位表をすべてチェックするとは、なかなかにあり得ませんよー?」
「だ、そ、それは知り合いだから…」
「知り合いだから、って?下手な言い訳だなー。
ともあれお兄さん。かなり好感度は高いですよ?このまま着実にフラグを立てていけばアイキャッチ画面がマリリン単独の絵になるのは遠くないよー?」
「ア、 アイキャッチって……えっと……」
「ああ、私は長曽我部 一美。らき☆すたのこなたに似てるって言われるおにゃのこです!」
「一美ちゃん、それってどういう意味?」

 いや、なんとなく意味はわかる。つまり現状を恋愛シミュレーションに例えるなら、僕が椎名さんとくっつくようなエンディングに向かっている、ということなのだろう。
 けれど今一確信が持てず、訊き返す。が、僕の問いに帰ってきたのは一美ちゃんからの返事ではなく、別方向からの追及だった。

「一美……『ちゃん』?」

 椎名さんだった。
 彼女の眼は少し釣り目勝ちで、ただ見られているだけでも時々睨まれているような錯覚を受けるが、この瞬間、僕は確実に睨まれていた。

「えっと……。な、何か質問?」
「ん?えーあるわよ先生ぇ、質問が。なんで一美だけちゃん付なのか、とか?」

 ……なぜと言われて、僕は首をひねる。
 いや、理由は単純だった。苗字が呼びにくいからだ。長曽我部なんてリアルで見たのは初めてな名前だ。
 それに外見的にも小学生な上、全体的に寝起きの子猫のような愛嬌なる造詣の顔をした彼女に『さん』付はイメージに合わない。
 深い理由はなかった。
 が、それを説明するより早く

「……ロリコン。
 美咲、ここ教えて」

735 :書く人:2007/06/17(日) 02:41:17 ID:oH5EQbW3

 釈明の暇もありはしない。
 冷たい目で僕を一瞥した後、椎名さんは円谷さんに向けて参考書を広げる。
 円谷さんは少し戸惑ったように視線を僕と椎名さんとの間で行き来させたが、結局椎名さんが向けてきた参考書を覗き込んだ。

「おやおや~。フラグを立てちゃったかな~?」

 にへら、とした表情をさらに溶けたようなもの変えつつ言う一美ちゃん。
 フラグ、とはプログラムにおける発動条件から転じて、出来事が起こるための条件を指す言葉らしい。
 そう言われると、少し嬉しい気がした。
 確かに冷たい態度や視線は居心地が悪いものだが、しかしひょっとすればそれは、椎名さんの嫉妬のようなものなのかもしれない。

「あの~、喜沢センパ~イ。
 ここ、教えてくれませんか?」

 聞いてきたのは最後の一人、背の大きな女の子―――高木良子さんだ。
 180センチ近くあるのではないだろうか?スタイルもハーフである椎名さんを上回るほどのモデル体型。
 こう書くと近寄りがたいようなイメージだが、その印象をのったりとした挙措動作と喋り方が侵食し、中和している。

「あ、うん。えっと…高木さん」

 危うく良子ちゃんと呼びかけて(印象が彼女も子供っぽかったから)、ギリギリで名字で呼ぶ。その直後に横――椎名さんが放っていたプレッシャーが落ちる。
 その事に少し安堵しながら、僕は渡された教科書を見る。
 化学だ。

「この酸と塩基っていうのが分からないんですけど~、混ぜるとどうしてこうなるんですか?」

 高木さんが聞いてきたのは、化学の基礎とも言える中和反応についてだった。
 話を聞くと、なぜ塩酸と水酸化ナトリウム水溶液を混ぜると、塩酸とナトリウムが、元々付いていた水素や水酸化物イオンと別れてまでくっつくのかが理解できないらしい。

「えっとね。これは電気陰性度と酸性度っていうか…」

 教科書通り説明しながら高木さんの表情を見てみる。

「………」

 フリーズ。
 それはそうだ。教科書通りの説明で理解できるなら聞いてくるはずもない。
 よし、ならばイメージに訴えてみよう。
 僕は教科書の一ページを指して

「えっと…この表によると塩化物イオンの方が水酸化物イオンより酸として強いってのは分かるね?」
「はい」
「それと、ここによれば水素イオンよりナトリウムの方が塩基として強いよね」
「……はい」

 どうやら、ここまでは分かってくたようだ。

「だからさ、この酸性度と電気陰性度とかっていうのはそれぞれ相手を引っ張る力で、これが強い者同士が真っ先にくっつきあうから…」
「けど、最初はこの子たちは、それぞれ水素やOHとくっついてたんですよね~?」
「くっついてたって言っても一緒の溶液の中にいるだけだから。
 それに、この塩化物イオンもナトリウムイオンも、たまたま相手がいなかったから、一緒にいた水酸化物イオンや水素イオンと仕方なくくっ付いていただけで…―――」


―――仕方なく。


 自分で言ったその言葉に、僕ははっとなる。

736 :書く人:2007/06/17(日) 02:42:00 ID:oH5EQbW3
 相手を引っ張る力の強い塩基であるナトリウムイオンは、仕方なくその場にいた水素イオンと一緒になっていた。
 相手を引っ張る力の強い酸である塩化物イオンは、仕方なくその場にいた水酸化物イオンと一緒になった。
 ならば……

「……あの~センパイ~?」
「えっ。あ、うん。とにかく、そういうこと。分かった?」
「はい~。教え方が上手ですね」

 繕う僕に、高木さんはお礼をいってくる。
 けれど、僕はその内容をほとんど聞いていなかった。

 僕は隣を見る。
 そこには椎名さんがいた。
 機嫌が治った、というより一美ちゃんとのやり取りが既に意識の外に置き去られてしまったのか、頭を抱えながら円谷さんの問題解説を受けている。
 シャーペンの恥を口にくわえて脹れっ面で参考書を睨みつける椎名さん。
 そんな表情ですら見苦しさより可愛らしさが前に出ている。
 椎名さんは、そんな可愛い女の子だ。それに対して、僕は冴えない男。
 駅で二人が言葉を交わすような関係になったのは、偶然そこに二人しかいなかったから。

 さながら、ナトリウムイオンと水酸化物イオンだ。
 地味で誰も引きつけることのない僕と言うイオンがいる、駅と言うビーカーの中に、椎名さんと言う引き寄せる力の強いイオンがやってきて、僕を引きつけた。

 ―――仕方なくに、だ。

 けれど、それは二人きりになったから。椎名さんに言わせれば、きっと仕方なくのことに違いない。
 ビーカーの外には、僕よりはるかに引く力の強いイオンに溢れかえっている。
 外に零れてしまえば、椎名さんに引き寄せられる、僕よりはるかに魅力的なイオンがたくさんいて、椎名さんは僕に見向きもしないだろう。
 現に、円谷さん達と話をしている椎名さんは、いつも以上に嬉しそうで輝いて見えた。

 ああ、何を勘違いしていたんだろう。僕にとって彼女が特別な存在であったとしても、彼女にとって僕が大切な存在である根拠にはならないと言うのに。
 いや、それどころか、すでに彼女には恋人か、あるいは好きな人がいるかもしれない。

 冷水を頭から浴びせられたような気分だ。
 女の子に少し声をかけられて、その友達にはやし立てられただけで、すぐにのぼせて、いい気になっていた。
 僕など椎名さんにとっては、二人きりに『なってしまった』相手に過ぎない。
 偶然と不可抗力の結果である僕が、椎名さんにとって特別な意味がある存在であるはずがあるだろうか?
 


「あの…喜沢さん?こちらの数式なんですが…」
「…うん。どうしたの」

 円谷さんに言われて、僕は現実の問題の方へと意識を向けた。
 


 解散の時、椎名さんは僕にテストまでの家庭教師を頼んできた。僕はそれを承諾した。
 少しでも椎名さんの隣を占有していたい。理由は、そんな悪あがきにも似たものだった。
 この日を境に、椎名さんとの時間が少しだけ憂鬱になった。

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最終更新:2007年08月14日 11:37