ぽつり、ぽつりという降り方だった雨も、学校を出てから500メートルも走らないうちに本降りになってきてしまった。
 傘はない。というか盗まれている事に気付いたときは、思わず暴れだしそうになった。

 今あたしは、放置されて朽ちかけているトタンの物置きの中ににいる。雨宿りのためだ。
 雨が止むまでとは言わない。せめて、雨足が弱まってから急いで帰ろう。
 天気予報では、昼過ぎから雨だといっていた。午後の降水確率は80%だそうだ。そしてこの、スコールじみた大雨。
 あたしは雨が地面を打ち付ける様子を、ウォークマンで音楽なぞを聴きながら眺めている。
 降られるのは勘弁だが、この光景があたしは好きだ。ほら、蛙がユーモラスにぴょこぴょこと横切る。

 不意に、視界が暗くなる。
 黒いズボンがあたしの目の前で立ち尽くしていた。
「あ……、ええと……」
 見上げて、そうどもる顔と制服を確認する。あたしと同じ学校の人だ。制服だけでそう判断する。
 しかし見ない顔だ。よく見ると校章が、彼が同じ学年である事を示していた。
「雨宿り?」イヤフォンをはずし、きいてみる。
「あ、……うん、まあ」
「あたしも。――あなたも、濡れたままってわけにはいかないでしょ? 入りなさいな」
「え……、いい、の?」
「この雨の中に人を放り出してまで雨宿りするほど、あたしは鬼じゃないよ」
「そっか……。悪ィな、お邪魔する」
「どうぞ」
 それからあたしとあとから来た人は、暫く一言も言葉を交わさなかった。
 彼は携帯電話を、あたしはMDで音楽を聴きながら、『ダ・ヴィンチ・コード』を読み進める。
 そろそろ間が保たなくなってきたかな、というところで、あたしはイヤフォンをはずす。
 するとそれを待っていたかのように、彼が携帯電話から顔を上げ、こちらを見ずに口を開けた。
「何聴いてたんだ?」
「ん、洋楽」あたしも顔をそちらに向けず、
「へえ、例えば?」
「ヒラリー・ダフとか、レアン・ライムズとか」
「ふぅん……。パドル・オブ・マッドとかは?」
「知らない」あたしは首を横に振る。
「そっか。あ、俺、1組のアズマ。そっちは、3組の西原さんだろ?」
 あたしは驚いて、首を勢いよく彼――アズマくん――の方に向けた。
「え……。何で知ってんの、あたしの名前」
 アズマくんは依然として、こちらを向かず、いや、ちらりとこちらを見たきり、正面を向いたままだ。
「俺結構3組に出入りしてるんだけど、俺って無闇に人の名前覚えるの特異でさ、覚えちまった」
「え、誰の関係者?」
「ナミシン。陸上の」
「ああ、ナミシン」クラスメイトの呼称だが、無論、あだ名である。
 そういえばそのナミシンくんとよく話している人がいたな。《見ない顔》ではなく、意識してないから覚えていないというだけだった。
 まあ、それはそれでひどいとは思うが。
「んぃっくしっ!」
 唐突のくしゃみに、あたしはそちらを見た。「う――、ちくしょい……」と鼻を鳴らすアズマくん。
「ブレス・ユー」そう言っておいて何だが、あたしはクリスチャンではない。
「んあ?」
「んーん、何でもない。――風邪?」
「さあね。本降りン中突っ切ってきたから、冷える冷える」
「まあ、そうだね。……ティッシュ要る?」
「お、悪り」
 鞄から出したポケットティッシュを彼に渡し、「それ、あげる。どうせまだ3袋あるし」と言っておく。
「持ちすぎじゃね?」
 彼はそう言って、鼻をかむ。
「あたしもそう思う。だからあげたんだし」
 言って、2人微笑い合う。彼は、すぐに正面を向いて、再び携帯電話に目を落ろした。メール、だろう。
 あたしも、栞を挟んだページに目を移す。これで、互いに不可侵の状態に戻ったのだ。
「雨」
 『ダ・ヴィンチ・コード』の上巻を読み終え、一息ついたとき、そう声を掛けられた。
 少し前に携帯電話を閉じる音が聞こえていた。
「うん?」
「やまねぇな」
 外は、少なくともスコールよりは弱まったものの、雨脚が強い事に変わりはない。
「――うん」
「……夜までこの調子だってよ」
「えっ」絶句する。当然だ。「ちょっ、誰からの情報?」
「ヤンマー」
「へ?」
「ヤン某マー某天気予報」
「……あ~、どうしよう……」頭を抱える。
「なんだよ、――何かあんの?」
「いや、無いけどさぁ……」夜まで雨って事は、ここから出られない、という事だ。
 思わず、自らの腕をさする。
「あン? 寒いか?」
「……本降りの中突っ切ってきたからね」
「あんたもか。はぁ~、俺も、どうすっかなー……」
 2人してつく溜息。
 外から流れ込んでくる空気に、微細な水滴が混じっている。だから、あたしの服も彼の服も、乾かない。

 それから暫く、あたしたちはしりとりなんぞをしながら、暇を潰していた。
 いつもはまだまだ明るい頃合なのだが、分厚い雨雲のせいでいつもより暗くなるのが早い。
 天気図によれば、温暖前線と寒冷前線を伴う低気圧の中心がこの地方の上空にあるようだ。
「今何時?」あたしは外を見ながら、真綿で首を締め付けるかのように奪われる体温を皮膚への摩擦で補っていた。
「ん、5時、45分」もうひとりの《雨宿[あまやど]リスト》が無気力に言う。しりとりやマジカルバナナのネタはもう切れてしまっていた。

 沈黙。それは本来、気まずさか心地良さを生み出すはずの現象だが、幸か不幸か、あたしたちはそこまで親しい間柄でもない。
 会話が途切れても、別段気にするような事ではない。
 しかし、あたしは気付いてしまった。何度か彼が、あたしの様子を伺っている事に。
 何度かのうちの、ほんの2、3回、目が合った。既に自らの行為が相手に筒抜けになっている事に気付いたのか、それ以降の同様な行為はみられない。
 こうなると、主にその行為を行っている人がだが、沈黙が気まずくなってくる。

 ―――不意に、彼がこちらを向いた。
「なあ、西原」
 その真剣な声に、あたしはどう反応すればいいのか、分からなかった。だから、努めていつもと変わらない反応をした。
「――うん?」
「……」
 唇を少し動かしただけ。白々しかっただろうか? いや、そうではなかった。逡巡している彼の心に、そう感じるだけの余裕が無いというだけの事のようだ。
「……」
 だからあたしも沈黙を続ける。

 どれくらい経っただろう。外はもう真っ暗だ。
 辛うじて、彼の唇の動くのが見えた。自ら作り出した沈黙を自ら破り、声帯を震わせる。
「……お前は―――」
 アズマくんの唇の動くのが見えた。自ら作り出した沈黙を自ら破り、声帯を震わせる。
「……お前は―――」
 微弱な外からの光が、彼の瞳の動きをあたしに意識させる。視線が泳いでいる。
「――何?」
 この一言が助け舟になるのかならないのかは、あたしには分からない。瞬きが多くなる。
「―――付き合ってる人とか、いるか?」
 思わず吹き出しそうになる。同時に、胸が高鳴る。
 自惚れかも知れないが、彼があたしに好意を抱いているであろう事が伺えた。ここまで思わせぶりだと、正答を教えている推理小説のようなものだ。
「……いるように見える?」
 上擦りそうになる声を、なんとか押し留める。あたし自身、動揺しているからだろう。
「……どう、だかな……」その答えに苦笑……「なんつーか、美人だとは、思うけど」
「!」
 雨の音が一切強くなる。
 何を、言っているんだ? この男は頭がおかしいのか? それともあたしの気が狂[ふ]れたのか?
「え……何を……?」
 呟く声は、多分彼には届かない。
「あの、さ、……っ、付き合って、くんないかな」
 彼が上半身を、こちらに向けた。
 今度はあたしが唇を固める番だった。
 何を、言おう?
「……俺は、お前が好き、……でさ」
 ああ、その事に関してはよく分かっている。アズマくんがその身を以って無意識的に教えていたから。
「お前は俺の事、何も知らないだろうけど……」
 そう、何も知らない。というか、あたしがキミの存在を知ったのはつい2時間ほど前だ。
「……これから、知ってくって事で。それで、好きかどうか、決める。……駄目、か?」
 理想的な答えは、イエスかノー。この二者だ。しかし……
 正直言って、あたしは彼の事を好いているわけではない。かといって嫌っているわけでもない。そのどちらかの感情を彼に抱く事が出来るほど、彼と関係ったわけでもない。
「あの……」
「――うん?」彼の期待に満ちた声が、あたしの心を萎縮させる。
「……分かんない」
「え」
「分かんないよ」あたしは彼から目を逸らす。「だって、付き合うって、お互い好き合ってそうなるんでしょ!? 付き合ってから好きになるか決めるって、なんか……違うよ」
 彼は押し黙る。
「そういうの……あたしは、――いや」まるで、実験みたいで。
「そういうの……あたしは、――いや」あたしは頑なな表情で、アズマくんを睨んだ。「あたしは実験台じゃない」
 出しかけた声が漏れる。彼の絶句。
「アズマくんは、自分が実験台に見られるの、耐えられる? ――あたしは駄目。そんなの、拷問以外の何物でもない」
 本心が出た、のだと思う。思考が思うように動いていない事が自分でも分かった。
「……そ、……か」
 傷付けた。その事実が、あたしの顔を険しくする。あたしの心を締め付ける。
 アズマくんの表情は見えない。彼の顔をまともに見れない。見られるほどの、勇気がない。
「もう、出るよ」
 彼の声が聞こえた。途端に、心が外界に引きずり出される。
 雨の音が、聞こえた。
「え……っ、まだ、雨が……」
「いいから」
 一切低い彼の声に、あたしは一瞬呼吸を止める。
「……悪かったな。なんか……変な事言っちまって」
 表情は見えない。
「そんな……誰だって、好きだって言われればそれなりに嬉しいよ」
「……そんなもんなのか?」
「うん。でも、あんまり、急いじゃ駄目、かな」
「――そうだな。……じゃ、もう出る」
「……雨、降ってるよ?」
「知ってる。今は、頭冷やしたいから」
 言って、彼は歩みを進めた。
 ガタッ!
「あ」
 大きな音と、小さな声。
 その両者が聞こえたと思ったら、あたしの世界は横転していた。身体の前後から衝撃が走る。
「ひゃっ!」「だぁっ!」
 何かに足を取られたのか、転んだようだった。それにあたしが巻き込まれた、という事だ。
 気が付くと、胴体に重みを感じる。
 見ると、胸の辺りに頭があった。
「ちょっ、アズマくん!?」
「ってて……。え……?」
 目が、合う。目線はそのまま、下に向かっていった。
 ああ、そうか。豪雨に降られて、しかもあまり乾いてないから、ブラウスに下着が透けているのか。あたしは存外冷静に分析する。
「なに、見てんのさ……」
 ふと気付く。左ひざには彼の股間が触れているのだが、その形が徐々に変わっていく。
 それに気付いてしまってから、一気に危機感が高まっていく。
「あの、さ、起きたいんだけど。……どいてくれないかな」
「……西原……」
「ね、どいて」
 アズマくんの目が、怖い。遠くの光源からの僅かな光しか入らないこの小屋の中で、何故か彼の目だけが煌々と輝いていた。
 あたしは両手でアズマくんの体を押す。闇に目が慣れてくると、彼の表情が見えるようになる。
 それは、熱病に犯された人の表情[かお]だった。目が曇っている。ただ、普通見下げて見られる筈のものが上にあるというのは、殊に奇妙な事だ。
 腕に力を入れる。しかし彼はあたしの左腕を掴んで、地面に押し付けてしまった。
 恐怖からか、自分自身の呼吸しか聞こえない。それでもあたしの頭の中では、始終冷めた自分が状況を傍観している。
 左手の地面に接触している部分が痛い。仕方無しにあたしは右手だけで彼の体を押した。
「ねえ、どいてよ」
 彼の呼気が近づいてくる。
「何やってんのさ、はやく、起きようよ」
 彼の双眸に自分の貌が映っている。
「ねえ、ちょっと……」
 不意に、彼の目に生気が戻った。そして間近の空気が震える。「……西原、――ごめん」
 それから数秒間、あたしは自分が何をされたのか分からなかった。
 分かるのは、左の首筋から全身に広がる得体の知れない感覚と、その周辺の筋肉が収縮する感覚。
 ぞわぞわ。体中を蟲が這っている。ぞくぞく。脳を介さない運動器官の反射が、何かに阻まれて遂[おお]せない。
 いつの間にか、右手に入っていたはずの力は大幅に軽減されていた。
 呼気がそこから離れ、外気に触れる。気化熱が左の首筋の体温を局所的に奪い、先程とは違う痙攣が起こる。

 何をされた
 ――嘗められた?
 どこを
 ――左の首筋を?

 ……何だって?
 口を開いてその事への文句のひとつでも言おうかというところで、今度は別なところが狙われた。
 ひゅっ!
 これが息を呑む音なのか、と、脳内の第三者的自分が表情を変えずに思考する。
 普段暖かさや多少の粘性のある液体に触れる事のない箇所。耳。今度はよく分かった。先刻の――首筋に比べるとまだ蟲の這う感覚は弱い。
 右手が、地面に触れる。これでもう、完全に組み伏せられた形になった。
 アズマくんは首を集中的に攻めてくる。鎖骨から顎関節の付近、特に鎖骨の少し上あたりを重点的に。
 両腕は組み伏せられたまま。当然だ。弱いながらも、あたしは抵抗しているのだから。
 身を捩じらせ、その舌から逃れようとする。でも叶わない。そして体力的に敵うとは思えなかった。
 ふと、首からかれの頭が離れた。そうかと思うと、ブラウスから露出している鎖骨の間を嘗めてくる。未曾有の感覚だった。
 左手の拘束が解かれる。彼の右手はそのまま、あたしの左胸に移動していった。
「いやっ!」
 初めての、明確な拒絶。左手で彼の右手を払った。
 しかし彼は無言で、あたしの左手を再び押さえつける。そして今度は、顔を胸に近付けていった。
「あ……、あぁ……」
 ブラウスと下着ごしに、彼は噛み付いてくる。あたし自身、胸が大きいというわけではないから、それはそれはやりにくいであろう事は容易に想像できた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2007年08月13日 17:17