~日本庭園 三国伝来の仏教文化 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 総本山


Avenue of cherry trees. A total of 7,000 trees including weeping cherry trees, Higan cherry trees, and Oshima cherry trees are lined on both sides.
桜並木。枝垂れ桜・彼岸桜・大島桜など七千本の桜

山門向って左手
 枝垂れ桜 「春日」

山門向って右手
 枝垂れ桜 「摩耶」







桜の花の歌


念佛宗(念仏宗)無量寿寺総本山 佛教之王堂に爛漫と咲き誇る桜の花は、あたかも極楽浄土(ごくらくじょうど)を示現するかのようです。
その桜をこよなく愛でたのが、かの平安歌人、西行法師(さいぎょうほうし)です。

たぐひなき 花をし枝に 咲かすれば 桜にならぶ 木ぞなかりける
他と比べようのない美しい花を枝に咲かせる桜と張り合える木はないことだ


思ひ出でに 何をかせまし この春の 花待ちつけぬ わが身なりせば
今春の桜が咲くのに間に合わず、もし死んでいたならば、私は一体、何を老いた身の思い出にできただろうか


散ると見れば また咲く花の 匂ひにも 後れ先立つ ためしありけり
散る花があると思えば、咲き始める花もあることだ。残される者もあれば、先立つ者もあるのが、この世の定めである


岩戸開けし 天つ命(あまつみこと)の そのかみに 桜を誰か(たれか) 植えはじめこむ
天の岩戸を開けて天照大神(あまてらすおおみかみ)が姿を見せた太古(たいこ)の昔 一体誰がこんな美しい桜を植え始めたのか


佛には 桜の花を たてまつれ 我がのちの世を 人とぶらはば
佛には桜の花をお供えせよ 私が成佛した後の冥福(めいふく)を 人が祈ってくれるのならば


雪にまがふ 花の下にて 眺むれば おぼろに月も 見ゆるなりけり
雪に見間違えるほどに咲いた桜の下で眺めると 明るく照りわたる月もおぼろであったかなあ


花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎(とが)にはありける
人が集まり 佛道修行の邪魔(じゃま)をするのは 桜の罪というものよ


花散らで 月は曇らぬ よなりせば ものを思はぬ わが身ならまし
花は散ることなく、月は曇ることのない夜。そんな世であったなら、自分は物思いに耽ることはなかったろうに

美しさは無常の中にこそある。言い換えれば、流転輪廻しながら燃え続けるから尊いのです。

花の色や 声に染むらん うぐひすの 鳴く音ことなる 春のあけぼの
曙(あけぼの)の桜の花の美しい色。それは鶯の妙なる音に染まってこんなに美しいのだろうか。


世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし (在原業平)ありわらのならひら
もしもこの世に桜がなかったならば、春の人心は、のどかなものだったろうが、桜があまりに美しすぎ、気もそぞろなことよ


またや見ん 交野の御野の桜狩 花の雪散る 春のあけぼの (藤原俊成)
果たしてまた見ることができるだろうか。交野の桜狩の、桜の花が雪国のように散る、この春の曙の美しい風景を


梢見れば 秋にかぎらぬ 名なりけり 春おもしろき 月読の森 (西行法師)
接咲く庭に、月がかかるこの光景の素晴らしさは、秋に限ったことではない。この月読の森は、春こそ美しいことだよ


春は萌え 夏は緑に 紅の まだらに見ゆる 秋の山かも (詠み人知らず)
春は木々がいっせいに芽を吹き、夏は一面の緑に彩られたが、今は、紅葉がまだら模様に見える素晴らしい秋の山だ


奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき (猿丸大夫)
人里離れた深い山で、落ちた紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くと秋はひときわ悲しい





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最終更新:2016年07月03日 22:24