地蔵堂

念仏宗無量寿寺(念佛宗) 総本山 佛教之王堂〜三国伝来の佛教美術

概略


高さ13.9m(基壇、棟飾り込)
桁行(幅)10.9m
梁間(奥行)10.9m 全高3.9m

中華人民共和国、工芸美術大師・佘國平佛師制作の地蔵菩薩像が祀られている。
地蔵菩薩は、釈尊御入滅後、弥勒菩薩が世に現れるまでの五十六億七千万年の間、衆生済度を委ねられた菩薩。
日夜、六道界を駆け巡り、四十八の化身をもって、人々へ佛縁を結んで救いへと導き、ことに、子供たちを守る佛様として知られている。
二十四孝、十二の干支の精緻な彫刻欄間を始めとする717点の彫刻が四囲を飾り、人の道と悠久の時の流れを教えている。


念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 地蔵盆


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念佛宗【念仏宗】無量寿寺 佛教之王堂 地蔵堂 『二十四孝彫刻』 兵庫県加東市
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お地蔵様の御縁に触れて〜念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂

手水舎で身と心を清め、参道に戻ると、対面に静かに御堂が佇んでいる。
両脇に石灯籠を配したこの御堂は、昼夜を分かたず日々一切の衆生を救わんと、六道界を駆け巡る地蔵菩薩をお祀りする念佛宗(念仏宗)の地蔵堂。
中国故事に源流を持つ「十二支」や親孝行物語「二十四孝」を象った、聖地な欄間彫刻を始め,七百十七点の彫刻が御堂の四囲を飾り、悠久の時の流れの中で、多くの聖人達が説き示された「天地の理(ことわり)や「人の道」を教えている。


二十四の親孝行物語を刻む 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 地蔵堂


哭竹生笋(こくちくせいしゅん)

主人公の孟宗は、中国の三国時代、呉(222〜280 年)の江夏郡(現在の湖北省)の人で、幼い頃に父を亡くしてからは、
父に代わって母を養い、長年孝養を尽くしてきました。
ある冬の日のこと、「筍(たけのこ)が食べたい」と病気がちの老母が嘆くのを聞いた孟宗は、すぐに竹林に行き、筍を必死に探すものの、厳冬の雪の中、筍などあるはずもありません。孟宗は途方に暮れ、一人、竹にすがって声を上げて泣いていました。
すると、突然地が裂け、筍がたくさん生えて来たのです。孟宗がその筍を吸い物にして母に食べさせると、母は多いに喜び、病も癒えました。
これは天が孟宗の孝心に感じて起こしたのだろうと言い伝えられており、孟宗竹(もうそうちく)の由来ともいわれています。


郭巨埋児(かくきょまいじ)
郭巨は、母と妻、幼子と貧しい家で暮らしていました。母は孫を可愛がり、
郭巨も家族を大切にしていました。
しかしある時、郭巨は思いつめて妻に告げました。
「母に食事も満足に食べさせられず、母はその少ない食事さえ孫に分けて、大変辛い思いをしている。
子はまたいつか授かることがあろう。たった一人の母をもっと満足させたい」
妻は大変悲しく思いましたが、夫の気持ちを理解して、夫婦で子を連れて山へ行きました。
郭巨が泣きながら子を埋めるための穴を掘ると、地中から黄金の釜が出てきました。
そこには、「孝行な郭巨に天より釜を与える」と書かれています。郭巨と妻は大喜びし、子を埋めるのを止め、黄金の釜を持ち帰り、母に益々孝行を尽くしました。


刻木事親(こくぼくじしん)

丁蘭(ていらん)は、母がなくなった際、別れを昨しんで母の姿を木像に象り(かたどり)、生前の母に仕えるかのように、木像に孝行を尽していました。
ある時、丁蘭の妻が木像の顔を火で焦がしてしまうと、木像の顔は瘡(かさ)のように腫れ、膿が出てきました。
さらに、その二日後、妻の髪が突然刀で切られたように落ちたため、妻は驚いて木像に謝っていましたが、丁蘭も不思議に思い、木像を大通りに祀り、妻に三年間詫びを続けさせました。
するとある夜、雨風の音がして、木像が家に帰ってきたのです。
それ以降、丁蘭は、どんな時も母の木像に話しかけ、大事にしました。
こうした不思議なことが起きるほど孝行を尽くした人は類まれでありましょう。


単衣順母(たんいじゅんぼ)

閔子騫(びんしけん)は孔子(こうし)の門弟で、その中でも特に優れた高弟(こうてい)として知られます。
子騫の母が亡くなると、父は再婚し、その中でも弟が二人生まれました。継母は二人の弟ばかり可愛がり、子騫を虐げました。
寒い冬、継母は二人の弟には温かい綿入りの上着を着せましたが、子騫には薄っぺらな服しか与えませんでした。
父は、子騫が寒さで震えていることに気づき、妻と離縁しようとしましたが、子騫は父を諌(いさ)めて言いました。
「もし母がいなくなれば、三人の子がみな凍えることになります。私一人、寒さを堪えれば済むことです」
その言葉を聞いた継母は、己の過ちを大変後悔し、以来、実の子のように子騫に接するようになりました。
人の善悪は自らの心にありと、古来伝えられるのも道理でありましょう。


扼虎救父(やくこきゅうふ)

楊香(ようこう)は、父を深く敬愛していました。
ある時、楊香が父と一緒に深い山を歩いていると一頭の虎が現れました。
その虎は、額が白く荒々しく、今にも襲いかからんばかりの鼻息でした。
楊香は大切な父を守ろうと、虎を扼(おさ)えつけますが、なおも虎は父に襲いかかろうとします。
そこで楊香は、虎に身を投げ出して叫びました。
「どうか私だけ食べて、父を助けて下さい」
その志の深さに、願いが天に届いたのか、今まで猛り狂っていた虎が突然尻尾をすぼめて逃げ出したため、父子共に虎口(ここう)の難を免れて無事に家に
帰ることができました。
父への孝行の思いが深いため、このような奇特なことが起きたと伝えられています。


湧泉躍鯉(ゆうせんやくり)

主人公の姜詩(きょうし)は、後漢(二五〜二二〇年)の時代、広漢群(現在の四川省)
の人です。姜詩は、母が河の清水と魚の膾(なます)を好んでいたため、妻と共に、毎日三キロの道のりを歩いて、魚をとり、母に食べさせていました。
ある日、妻が水を汲んで帰るのが、大風のために遅くなった時、姜詩は、妻が母を蔑ろにしていると思い込み、妻を離縁してしまいました。しかし、妻は離縁後も変わらぬ孝養を続けたため、母はすぐに復縁させました。
妻が帰ってきたその日のこと、家の庭から突然清水が湧き出て、中から鯉が飛び跳ねました。以来、姜詩はこの泉から清水を汲み鯉をとるようになりました。天が、姜詩夫妻の孝行に感じて、このような不可思議を起こしたと言い伝えられています。




念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 地蔵堂「瓦」について


念佛宗(念仏宗)無量寿寺の地蔵堂の屋根を見上げると、中央に「閤魔大王」、左右に「桃太郎」と「桃」が見られます。
地蔵菩薩と閤魔大王について、『今昔物語』(こんは次の逸話(いつわ)を伝えています。
ある尼が、死んで冥土に行った際、閤魔大王に生前の罪を取り調べられ
ました。尼が一心不乱に「南無帰命頂礼地蔵菩薩」と唱えると、地蔵菩薩が現れ、閤魔大王に掛け合い、尼を生き返らせました。このことで大いに信心を深めた尼は、八十歳を過ぎても心乱れることなく、念佛を唱えながら入滅したということです。

閣魔大王
古代インドの神話では、閤魔は、人類最初の死者であり、善行(ぜんこう)を積んだ者のいく天上界(てんじようかい)の支配者でした。
後に地獄の主になり、唐の末期には、死者の裁判官として最も権威づけされ、「閤魔大王」と呼ばれるようになりました。
『日本霊異記』には「我は閤魔王、汝が国に地蔵菩薩という是れなり」とあり
地蔵菩薩の変化身(へんげしん)とされています。

桃太郎
有名な桃太郎の昔話は、川を流れてきた桃を、おじいさんとおばあさんが
拾いあげ、その桃から生まれた桃太郎が長じて、猿、犬、雉(きじ)を引き連れて、鬼退治を果たすというお話です。
父母を縁とし、人間として生まれたら、「鬼」即ち、貧欲・瞋恚・愚痴の三毒の
煩悩と闘い、人間として生まれてきた目的を果たすことが大切であるということを教えています。


二十四孝 にじゅうしこう

『地蔵菩薩本願経』「閤浮衆生業感品」には、地蔵菩薩の前生である光目という修行者について説かれています。
地獄にいる母を救うため、光目が、佛を供養したところ、母はまず、光目の家人として生まれ変わりました。
そして、さらに佛に一切衆生済度を誓うと、母の長寿と浄土への往生の約束を得たということです。即ち、地蔵菩薩は、母への思いを方便(ほうベん)とし
て衆生済度に向かわれたのです。
そして堂内欄聞(らんま)には、「父母の思」に報いる二十四の親孝行物語、「二十四孝」(中国の伝承)が、描かれています。

孟宗 もうそう
病み老いた母を懸命に養ってきた孟宗は、ある時、筍(たけのこ)を食べたがる母のために真冬にもかかわらず、竹林に出掛けました。雪の中で必死に街を探しましたが、掘っても掘っても見つかりません。涙ながらに天に祈ると、見る見る雪が融け、土から街がたくさん生えてきました。母が口にすると、たちまち病も癒えたということです。孟宗竹の語源となった故事です。

漢文帝 かんぶんでい
前漢第五代皇帝であった文帝は、母の薄太后(はくたいごう)に対して孝行を尽くし、母の食事の際は自らの危険をも顧みず、毒見をしたほどでした。孝行は誰もが知っていますが、実行はなかなか難しいものです。それに対し、皇帝の地位にありながらの漢文帝の孝行は、神のごとき志(こころざし)と賞されました。
そのような文帝の時代は、国栄え民が安心して暮らせる世でありました。

臥氷求鯉 がひょうきゅうり
王祥(おうしょう)は、幼くして母を亡くしました。
父が再び妻を要ったため、王祥は継母に育てられました。世の常で、継母は父に子を憎ませるように仕組みます。
ところが父に憎まれても、王祥は全く父を恨まず、継母に対しても、孝行を尽くしました。
ある真冬の寒い日、継母が生魚をどうしても食べたいというので、王祥は河へ行きましたが、一面が氷に閉ざされ、魚を捕まえることができません。
そこで王祥は、裸になって体温で氷を融かそうと、氷の上にふしました。
すると驚くことに、氷がわずかに融け、魚が二匹躍り出たため、王祥はすぐに捕まえ、継母に食べさせました。
これは孝行の力で起きたこととされ、以来、毎年同じ場所に、人のふした形ができると伝えられています。


十支 じゅうにし

地蔵堂の広縁の蛙股(かえるまた)には、御堂を四方から囲むように十二支の彫刻が配されている。
十二支は三千年以上前、中国の殷(いん)で生まれたとされ、もともとは草木の成長過程を十二段階で表したもので、後に動物の名が当てられたものとされている。
干支(えと)は、十干と十二支を組み合わせたもので、五や十、十二や六十など、あらゆる周期で、方角や時間などの天地の摂理(せつり)を表現している。
日本には、佛教伝来と同じ頃に伝えられたとされている。




最終更新:2016年07月02日 17:22