――エリオがジェイル=スカリエッティ一味に組することとなった切欠はこうだった。

 本名<エリオ=モンディアル>はプロジェクトFと呼ばれる人造魔導師計画によって生み出された。
 その真実を知った時、彼は研究施設に送られたが、その一年後には偶然と運を味方にしてそこを脱走した。
 それからは、路地裏を這う虫ような生活だった。
 実の両親だと思っていた人間に裏切られ、施設で囚人のような扱いを受けていたエリオの心には、世の中の全てを憎む意思が疼いていたが、しかし所詮は子供でしかない。
 この巨大な社会という化け物の腹の中で、親の加護を失った無力で憐れな子供の行き着く先など決まっている。
 人生に捻くれた大人達に殴られ、飢えに苦しみ、そんな日々を過ごすうちにエリオは少しずつ絶望していった。

『これは運命なんだ! ボクはもうすぐ、父さんと母さんがそうしたように誰も彼もに忘れられて死ぬんだ』

 そう信じた。
 行くところはなかった。
 ひとりぼっちだった。
 心底まいっていた。
 エリオは4歳にして人生を捨てていた。

 ――そんな時だ。
 ノラ猫のようにレストランのゴミ箱を漁っているエリオの所に、少し年上の少女がたまたま通りがかった。
 名前を<チンク>と言った。
 その少女に声を掛けられた時、すでに弱りきっていたエリオは彼女が自分に何を求めようが驚く気も抵抗する気もなくなっていた。
 自分とは立場の違う裕福なお嬢様の気まぐれ、とは思えない力強い彼女の腕に引かれ、エリオは歩く。
 チンクはそのレストランにエリオを引き入れると、待ち合わせをしていたらしいテーブルの仲間に視線を送り、次いで店の給仕に向かって叫ぶように言った。

「こいつにスパゲティを食わせてやりたいんですが、かまいませんね!!」
「……え?」

 その突然の提案に、驚いたのはあろうことかエリオだけだった。
 テーブルの仲間は何を質問するわけでもなく、かといって嫌悪の表情も無く、自分に運ばれたスパゲティの皿を薄汚い小僧の前に差し出した。
 呆気に取られるエリオの頭の中は、感謝はもちろん疑念すら吹き飛んで真っ白になっていた。
 彼らの揺ぎ無い行為は憐れな子供に対する安っぽい同情心など超越した、確固たる理念を貫いていた。
 促されるままに、久方ぶりの食事を済ませ、人心地ついたエリオはチンクとテーブルについた仲間の男を交互に見る。
 男は何も喋らないので、エリオの方から尋ねた。

「何で、ボクなんかにこんなことしてくれるんですか?」

 男は、その質問に答えなかったが、感情を込めない態度でこう言った。

「そうしたいと言うのなら、しばらくオレ達の住処に泊まってもいい。
 だが、ガキは親のところへ帰るもんだ。そして学校へ行け! いいな……」

 得体の知れない乞食の小僧を受け入れる、奉仕の精神などという生温い心構えではない本当の懐の深さと、真っ当な世界へ戻そうとする厳しさを男は実感させてくれた。
 ただ人生に捻くれただけの子供なら、その言葉でもう一度正しい道へと戻れるかもしれない。
 だが、エリオは両親の元へはもう戻れないし、決して心を許すことも出来ないだろう。
 それからエリオは、独白するように自分の素性を男に話した。
 苦痛しかない行為だったが、驚くほど抵抗や反発はなく、まるで自分の抱えてきた苦しみは今この男に話す為に溜めてきたのだ、と思うほどすんなりと口から漏れた。
 全てを話し終えた時、男は立ち上がった。

 ――その時、男の瞳には『怒り』が映っていた。
 何に対するものか?
 少年を殴った大人達か。生まれの違いだけで隔離し、モルモットのように扱った研究者達か。あるいは、命を玩び、生み出した子供を捨てた親に対するものか……その全てであるのかもしれなかった。
 吐き気をもよおす『邪悪』とは――何も知らぬ無知なる者を利用することだ。自分の利益の為だけに利用することだ。
 自分達の欲求を満たす為にエリオを傷つけた、手前勝手な愛情を振舞う両親を含む大人達ッ! それを育む腐った社会ッ!
 それら全てに対する男の純粋な『怒り』だった――。

「事情は分かった。すまなかったな。
 オレから君に出せる選択肢は少ない。君が『働く』というのなら、オレはオレの所属する『組織』に君を推薦しよう」

 エリオはこの男が何となく堅気の人間ではないのだろうという直感が正しかったことを悟った。
 苦笑を浮かべながらチンクも立ち上がり、それにつられるようにエリオも席を立つ。
 答えは既に決まってた。
 僅かな時間でしかなかったが、一人の人間として敬意を払ってくれた男の真摯な態度をエリオは既に信頼していたのだ。
 彼について行きながら、エリオは慌てて尋ねた。その名前を。

「――ブチャラティ。ブローノ・ブチャラティだ」

 男は自らを『ギャング』と名乗った。




<リリカルなのは×ジョジョ第五部>

―眠れる運命の奴隷達―(前編)





 ――トーレが自らの『意志』というものを強く意識するようになった切欠はこうだった。

 トーレは戦闘機人<ナンバーズ>の三番目として、この世に人工的に産み落とされた。
 長い年月で経験を積み重ねることによって、人間らしい判断や自我といったものは手に出来たが、彼女には生きがいだとか心を動かすものは最初から無かった。
 どこかで誰が死のうが、たとえ自分の手足がなくなろうが、心は動かないだろう。そうなっていた。
 ただひとつ……『巨大で絶対的な者』が出す『命令』に従っている時は、何もかも忘れ、安心して行動できる。兵隊は何も考えない。
 トーレは人間ではなかったが、人間を模した故に生み出される苦悩を、その無感情な戦闘機械としての心に抱いていた。
 その一点から何かが生まれそうな気がする。
 しかし、トーレはそれを不純物と感じ、消し去りたいと思っていた。
 自分は、後の生まれた感情豊かな姉妹達とは違う――。

 ある日、彼女の創造主であるドクター・スカリエッティは稼動中のナンバーズを集めて一人の男を紹介した。

『彼が今日から君達のリーダーだ』

 その決断に至るまで一体どんな経緯があったかは分からない。しかし、スカリエッティはただ簡潔にそう告げた。
 男の名は『ブローノ・ブチャラティ』
 何の変哲も無い、魔力すら持たないただの人間だった。
 一つだけ違う点があるとすれば、それは彼の持つ『特殊能力』だったが、戦闘能力という自分達にとって最も重視すべき観点からすれば、それほど特色ともならない能力だった。
 男は強い。が、それも人間の範疇だ。
 そう分析し終えた時、トーレはブチャラティに対する興味を失った。
 絶対的な任務遂行能力。戦闘力も判断力も含めて、トーレが興味を持つものはそれだけだった。その時、彼女の自我はただ戦いの為に存在した。
 そして、当初。ブチャラティは当然のようにナンバーズには歓迎されなかった。
 いきなり自分達の上に立ち、それでいて能力的には自分達に劣っている――それが歓迎される筈は無い。
 ブチャラティもその点は弁えているのか、彼がナンバーズの戦闘訓練に干渉することはほとんどなかった。賢明な判断ではあったが、その行動をクアットロが皮肉って彼を嘲ることも何度かあった。

 ――だが、変化はすぐに訪れた。

 実戦経験を積む為の一環として、ナンバーズは他次元世界へ『任務』に向かうことが多々あった。それは重要な物資の強奪であったり、障害となる要素の排除であったりした。
 その全てにブチャラティは同行し――不思議な事に、帰還した時には『任務』を共にしたナンバーズと信頼関係を築いていたのだった。
 既に単独で任務を任される立場だったトーレには分からなかったが、チンクを始めとする他の姉妹が次々にブチャラティへの評価を改善していく様は素直に驚きだった。
 あのクアットロすら例外ではなかった。

『数値化できる能力じゃない。あの男には、言葉では伝えきれない『何か』がある。おそらく、ソレこそが私達に最も足りないものなのだろう』

 不思議な笑みを浮かべて呟くチンクの言葉を、やはりトーレは理解出来なかった。
 その疑問を解消する為にブチャラティへ模擬戦を申し込んだこともあった。
 結果はトーレの勝利だった。しかし、その戦いの中で疑問は更に深まった。
 能力値では圧倒できるはずのブチャラティに一時期は逆に追い詰められるところまで行った。
 トーレの確かな経験に基づく理詰めの戦闘予測を、ブチャラティは意外な発想とそれを実行する度胸によって尽く覆していったのだ。
 何より、ブチャラティの戦い方には理屈では説明し得ない疑問がついて回った。
 トーレは戦闘の後に尋ねた。

「お前の判断や行動は時折勝利に繋がらない場合もあった。自らの命を賭けてまで、何故そんな判断をしたのだ?」

 戦闘のダメージをおくびにも出さず、ブチャラティは服の埃を払いながら答えた。

「単なる訓練だと言われればそれまでだが、オレは戦う時に明確な目的を定めて戦っている。
 そして、その目的の為に勝利する方法は様々なはずだ。オレだけの力で何もかも勝ち抜く必要はない。オレの仲間の誰かが、オレの戦いを引き継ぎ、勝つことを想定して戦っている」
「そんな……そんな不確定なものの為に命を賭けると言うのか? ただの無駄死にになるかもしれないというのに?」
「そうだな、オレは勝利という『結果』だけを求めていない。
 大切なのは『勝利に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、たとえオレが倒れたとしてもそれを引き継いだ誰かは勝利に近づく。
 そして、これは戦闘に限ったことじゃあない。生きることは『受け継いでいく事』だ。
 何が正しく、何が間違っているのか。決めるのは自分だが、それを教えてくれるのはそれまでの自分を育んでくれた『黄金の精神』なんだ」
「……」
「オレは、自分の『信じられる道』を歩いていたい」

 ブチャラティの言葉は、トーレにとってそれまでの価値観を変えてしまうほどの衝撃に満ちていた。
 単なる一個単位の戦闘機械として歩んできたトーレにとって、自分の『意志』を別の誰かに託すという発想は全く無かった。
 戦い、負ければそこで終わる。ただそれだけだ。
 だがこの時、ブチャラティはトーレに別の道を示した。
 自分の意志を引き継ぐ者――いるとすれば、それはやはり自分と同じ血肉を分けた姉妹達ではないか? 身近な存在が彼女に更なる後押しを与えた。
 カプセルに眠る、未だ生まれぬナンバーズの後継達を眺めながらトーレは一つの革新を得る。
 この時、トーレはブチャラティの『意志』を言葉ではなく心で理解した。




 ――ノーヴェがブチャラティという男を信望するようになった切欠はこうだった。

 彼女にとっても、やはりブチャラティとの出会いは彼を侮るところから始まっていた。
 自分が生まれた時にはもうそこに居た男。リーダーでありながら、能力は自分より下。勝気な性格のノーヴェはそんなブチャラティに分かりやすく反発した。
 彼女には、教育係であるチンクが苦笑と共にそれを戒める理由が分からない。
 それを分かる切欠はすぐにやって来た。
 ある日、ノーヴェは初の『任務』を与えられ、補佐のブチャラティと共に別の次元世界へ向かうことになる。
 そして、そこで彼女は未熟ゆえにミスを犯し、窮地に立った。
 救ったのは、もちろんブチャラティだった。
 戦いや任務を成功させるものは、単なる能力の優劣や数値化されたデータではない。
 その無言の証明を見せ付けられたノーヴェは悔しさと自らへの不甲斐なさを噛み締めることになった。
 自分を気遣うブチャラティの言葉が煩わしい。冷徹で合理的な判断のように見せているが、根本にある優しさを感じ取れることが、逆にノーヴェには辛かった。

「あたしのことなんかほっとけよ!」
「そうはいくか。いい加減拗ねるのをやめろ。失敗から学んでいけばいい。長い人生で経験することに比べれば、こんなものは失敗の一つでしかないんだ」
「うるせえ、知ったような口聞くな! あたし達は『戦闘機人』……戦うための、兵器だ! 戦って勝ち抜く以外の生き方なんて――ねぇんだよッ!!」

 叫んだ。その瞬間、ブチャラティはノーヴェを凄まじい剣幕で怒鳴りつけた。

「甘ったれた事言ってんじゃあねーぞッ! このクソガキがッ! もう一ペン同じ事をぬかしやがったら、てめーをブン殴るッ!」

 ノーヴェは悔しさも忘れて呆気に取られていた。
 何故、彼は突然怒り出したのか?
 それから任務が終わり、アジトに戻っても、ノーヴェの心にはその時の衝撃と彼の怒りがもたらした不思議な感覚が残っていた。
 以来、訓練の時も座学の時も、いつも考えるのは彼の『怒ってくれた事』だった。

 ――なぜ、彼はイキナリ怒ったのだろう?

 でも、あの怒りは『恨み』だとか『嫌悪』だとか、人を『侮辱』するようなものは何もない怒りだった。
 初めての任務で敵対した者達から感じた『敵意』 あの時のように敵が『怒る』時とは大違いだ。
 マジになってこのあたしを怒ってくれた。彼には何の得もないのに……。
 彼のあの態度の事を考えると勇気がわいてくる。
 不思議な感覚だった。まだ成熟し切れていない、幼い精神しか持たないノーヴェは、その暖かい想いを理由も分からないまま受け入れていた。
 そうして、自然と自分の中で一つの人生観が生まれていった。
 戦う為に生み出された人工の生命<戦闘機人>――。

『戦闘機人っていうのは、ああいう人の為に働くものだ』……ひたすら、そう思うようになった。誇らしさすら感じていた。

 それは創造主の思惑さえ越え、一つの人格として生きることへの意義を見出した瞬間だった。
 以来、ノーヴェにとってブチャラティはチンクに並ぶ、仰ぐべき師であり兄となったのだ。





 ブチャラティとの邂逅から幾年月。ナンバーズも着々と目覚め始め、全ての予定は順調に消化される日々だった。

「予定は順調。素晴らしいことだ」
「そうだな」

 小洒落たティーポットで紅茶を注ぎながら、満足そうに呟くチンクにトーレが相槌を打つ。

「予定と言えば、昨日の任務で予定外のモノを拾ってきたそうじゃないか?」
「エリオのことか? 問題ない。我々の新しい仲間となる予定だ。今、ブチャラティがドクターに会わせている最中だろう」
「フン、ものになるといいがな」
「ブチャラティに任せておけば、何も問題ないさ」

 そんなやりとりとする年長組とは別のテーブルで、クアットロとノーヴェという珍しい組み合わせの二人が顔を突き合わせていた。
 ノーヴェの手元にはノートとテキスト。訓練スケジュールに組み込まれていない、個人的な勉強を行っているのだ。
 しかし、そんな向上心溢れる気概とは裏腹に、視線を彷徨わせるノーヴェの様子から既に飽きが来ていることは容易に分かった。

「何か今日は気分が乗らないんだよなぁ。今日の訓練って座学がメインだったしさぁ、一日ぐらい自主勉しなくてもさぁー」
「……あのね、ノーヴェ」

 元々体を動かす方が好きなノーヴェがそわそわとし出すのを優しく嗜めるように、クアットロはその背中にそっと手を回した。
 落ち着かせるように撫でる。

「あなたは立派よ。一般的な数学なんてデータ共有で簡単に記憶できるのに、自分の力で一から理解したいから『教えてくれ』なんてなかなか言えるものじゃあないわ……。
 そして『九九』だってちゃんと覚えたじゃない?
 教えたとおりにやればできるわ。あなたならちゃんとできる」

 優しく、そして強く言い聞かせ、クアットロは書きかけのノートを手に取った。
 そこには『16×55』と式が書かれている。ノーヴェが今まさにぶつかっている『算数』の問題だ。

「さあ、いいかしら? 6かける5はいくつ?」
「6かける5は、ろくご……えと、ろくご……」

 ノーヴェは脳に直接データを書き込む方法とは全く勝手の違う、おぼろげな記憶を探りながら答えを搾り出す。

「……30?」

 確証の持てない呟きだったが、黙って見守っていたクアットロは途端に破顔した。

「そうッ! やっぱりできるじゃあない! もう半分できたも同然よ!」
「そーかッ! ろくご30ねッ! よしっ!」

 正解に気を良くしたノーヴェがやる気になってノートに向かい合うのを満足そうに見つめ、クアットロは微笑んだ。
 その時、唐突にまた別のテーブルから別の妹の怒鳴り声が上がった。

「何のマネっすかこりゃあ~~~!?」

 椅子を蹴って立ち上がるほど肩を怒らせているのはウェンディだった。
 同じテーブルに座ったセインが、不思議そうに彼女の怒りの元凶らしい皿の上の物を見つめた。

「何って、イチゴケーキじゃない。紅茶のお茶請けなんだから、好きなの選べば?」
「イチゴケーキだっつーのは見りゃわかるっす! チョコケーキでもなきゃチーズケーキでもないっすからね。
 そうじゃあねえっすよ! ケーキが『4つ』じゃないっすか! このあたしに死ね! っつーんすかぁ!?」

 美味しそうな『4切れ』のケーキを指して怒り狂うウェンディの言動が理解できず、セインはしばし呆然と促されるままにケーキを眺めていた。

「……『4切れ』じゃ足りないの? もっと食いたいの?」
「知らないんすかッ、マヌケッ! 『4つ』のものからひとつ選ぶのは縁ギが悪いんすよ!
 5つのものから選ぶのはいい! 3つのものから選ぶのはもいい! だけど『4つ』のものから選ぶと良くない事が起こるんっすよ!」

 ウェンディは何も分かっちゃいない、という嘆きすら見せて、怒りの矛先をセインに向けた。
 既に呆れ始めているセインを尻目に、深刻な表情で語り始める。

「クア姉だってナンバーズの『4番』だから起動が遅れちゃったし、挙句あんな性格破綻者になっちまったんすよぉ~」
「ウェンディちゃん。あとでちょっとお話しましょうね」

 こめかみに青筋を立てながらクアットロは言った。もちろんウェンディは聞いていない。

「そんなの迷信だよッ! 冷静に考えて、1個ずつケーキが減っていったら誰かがいずれ『4つの中』から選ぶはめになるんだから!」
「そこなんすよッ! こーゆー場合、お茶請け用意したセインが気をきかして3コにすべきなんっす……! まったく察して欲しいっすね!」
「もうォ~、じゃあ食べなきゃいいでしょォ~?」
「イチゴケーキが食いたいんすよ、あたしはッ!!」

 もはや子供の癇癪になっているウェンディの主張を尻目に、クアットロのテーブルではノーヴェが悪戦苦闘を経て問題を終了させていた。

「やったーッ! 終わったよ、クアットロ。……どう?」
「出来たの……どれどれ?」

 自信満々で差し出されるノートに書かれた成果を見る。
 クアットロの顔から暖かい笑みが消え去り、急激に温度が低下していった。

「何これ……?」

 ノートには『16×55=28』という式が描かれていた。
 抜け落ちたかのような無表情の問いに気付かず、ノーヴェは既に答えは正解だと過信した笑顔を浮かべている。

「へへへ♪ 当たってる?」

 さあ、褒め称えてくれッ! 言わんばかりのノーヴェの顔に、次の瞬間クアットロは無言でフォークを突き刺した。

「ぁぎゃああああーーーッ!?」

 予想だにしない不意打ちに、血を撒き散らしながらノーヴェは悲鳴を上げた。頬には刺さったフォークがブラブラ揺れている。
 痛々しいその姿に対して、むしろクアットロは怒り狂っていた。

「この格闘バカが、私をナメてんのかッ! 何回教えりゃあ理解できんだ、コラァ!」

 普段の淑女らしい丁寧な言葉遣いも、艶のある穏やかな物腰も消え去り、顔面に血管をピクピク浮かせながら凶相へと変貌したクアットロは容赦なくノーヴェの頭を掴み上げた。
 髪がブチブチと引き千切れ、無理な角度に曲げられた首の骨が悲鳴を上げようが無視して思い切り顔を逸らせる。

「ろくご30ってやっておきながら、なんで30より減るんだ? この……」

 そのまま殺意さえ感じる怒りと共にテーブルへと振り下ろした。

「ド低脳がァーーーッ!!!」

 派手な激突音に顔面の骨とテーブルが軋む音が混ざり、周囲に響き渡った。
 うつ伏せになったノーヴェの頭を中心に血が広がる。
 しかし、そんな突然の惨状にも周囲の反応のほとんどは冷めたものだった。
 癇癪を納めたウェンディが『あ~あ、切れた切れた。またっす』と呆れたように紅茶を啜る。トーレとセインに関しては完全に無視を決め込んでいる。
 毎回の事だからだった。
 ただ一人、チンクだけが二人の姉妹喧嘩というには少々激しい諍いを止めようとその場でオロオロしていた。

「低脳って言ったな……。殺す、殺してやる! 殺してやるぜぇ~、クソ姉!」
「年上への口の利き方がなってないわねぇ……気に入らないなら言い方を変えるわ。ブチ殺すわよ、クサレ脳みそが!」
「こ、こら! 二人とも止めるんだ、それに使っていいのは『ぶっ殺した』だけだ!」

 完全に殺意にまみれた二人だけの世界に没頭する傍らで、背の低いチンクが必死になって半ばワケの分からないことを言っている。
 そんな一触即発の状況下へ、チンクの願いに応えて事態を収拾し得る人物がやって来た。



「てめーらッ! 何やってんだ――ッ!?」


 張り上げられたブチャラティの声に、誰もが動きを止めた。
 この数年で培った彼への信頼とリーダーとしての威厳はナンバーズの間で揺ぎ無いものとなっている。
 一度切れたら止められない血気盛んなノーヴェも、傲慢不遜なクアットロも、この一喝には従わざる得ない。

「チンクから聞いてると思うが、新しい仲間を連れてきた! エリオ・モンディアルだ!!」

 諍いの最中にあった緊張感を敏感に感じ取り、オドオドとした気弱な様子でエリオが一歩前に歩み出す。
 酷く気まずい空気を味わっていた。
 ブチャラティの紹介に対して、先ほどまであれだけ騒いでいたナンバーズ達の反応は薄い。誰もが無言で、自分を計るように見つめている。

「おお、というとエリオはドクターに認められたわけだな?」
「ああ、まだ若いが一緒に訓練にも参加してもらうことになっている」

 唯一、チンクだけが我が事のようにエリオの参加を祝福していた。
 その笑みに後押しされ、エリオは背筋を正して頭を下げ、自己紹介した。もう随分錆び付いた動作だ。

「エリオ・モンディアルです。よろしくお願いします」

 トーレ、クアットロ、ノーヴェ、ウェンディ、セインの五人の視線が一同にエリオの緊張に強張った顔を捉え――そして、また思い思いの方向へ逸れていった。

「ごめんよ、クア姉。あたし、一生懸命勉強するよ。だから、また教えてくれよ」
「私の方こそ、許してちょうだいねノーヴェ」
「ねえ、トーレ姉。その食べかけのケーキ残すっすか? 食べるっすか?」
「勝手に食え」
「♪」

 各々好きに話したり、紅茶を飲んだり、音楽を聴いたりと、エリオの挨拶に全く反応を示さない。
 分かりやすい無視に、エリオは更に小さく縮こまって、その様子を見ていたチンクとブチャラティはこめかみを押さえた。

「おい、おまえらッ! このブチャラティが連れて来たんだ、愛想良くしろよッ! ドクターの許可も貰ってるんだッ!」
「すまない、エリオ。姉妹の間では仲の良い奴らなんだが、その分他人には排他的なんだ。姉からも後で言っておく」
「い、いえ……気にしてませんから」

 二人のフォローの甲斐なく、落ち込んだ様子で笑うエリオ。
 しかし、そんなエリオの下へおもむろにクアットロが微笑みながら歩み寄った。
 意外といえば一番意外な人物である。ブチャラティとチンクは思わず顔を見合わせた。

「いいですとも、仲良くしましよう。エリオ君でしたっけ?」
「は、はい」
「クアットロよ。よろしくね♪」

 優しげな笑みと共に差し出された手を、希望の光のように捉えて、エリオはぎこちなく笑みを返しながら自らも手を伸ばした。
 ――途端、その手をするりと避けて、クアットロの右手がエリオの股間を掴み上げた。

「ひぎぃっ!!?」
「よ・ろ・し・く・ね」

 握り潰す寸前の握力で掴まれ、エリオはそのまま泡を吹いて気絶した。
 テーブルの方から全員の大爆笑が巻き起こる。

「やったッ!」
「さすがクア姉! わたしたちの出来ないことを平然とやってのけるっすッ!!」
「そこに痺れる憧れるゥ!」
「……ふん、男は不便だな」
「てめーらなァーッ!!」
「あらん、リーダー。怒らないで、ほんの親愛の情よ?」
「ああ、駄目だ。完全に気絶してる……」

 ――出会いには必ず騒動があった。
 だが、この人間臭いやりとりもまたブチャラティという男に触れることで得たものだと、彼女達はまだ気付かない。
 一人の少年を加え、ナンバーズとブチャラティの『任務』をこなす日々はまた過ぎていく。





 ある日の夜、ノーヴェは休憩室で酒を飲むブチャラティを見かけた。
 初めて見る光景だった。彼は姉妹達の前で酒や煙草を嗜んだことは一度も無い。
 それに、グラスの中身を定期的に口に含んで飲み込む姿は、まるで薬でも飲んでいるような作業的なものだった。とても酔いを楽しんでいるようには思えない。
 なんとなく声の掛けづらい状況の中、佇むノーヴェにブチャラティの方がいち早く気付く。

「ノーヴェか」
「ああ、その……ブチャラティ、どうかしたのか?」
「どうかって?」
「なんか、様子がおかしいし……」
「……そうか」

 そう言って、ブチャラティは笑った。ノーヴェには好きになれない、寂しい微笑だった。
 ブチャラティは、時折こうして考え込むことがある。何かに疑問を持っているような顔をすることがある。
 それが何なのかは分からない。
 自分は、あまり頭が良くない。脳にインプットされた高度な魔法の術式や数式などに関係なく、物事の機敏というものに疎い。
 ナンバーズの誰も真似できないような発想と判断で、常に正しい結果を導き出してきたブチャラティこそ真に賢い者だとノーヴェは確信している。
 だから、きっと彼の考える深遠な悩みは、自分では到底解決し得ないものだ。
 そう理解し、ただ納得だけは出来ない歯痒さを感じながら、ノーヴェは立ち竦んでいた。

「……ノーヴェ、『運命』ってヤツを信じるか?」
「『運命』?」

 ブチャラティの唐突な問い掛けに、ノーヴェは答えることも出来ず混乱した。

「よくわかんねーケド、それが『自分の生きる道が決まってる』っていう意味なら……信じない。
 あたしはアンタに教わったんだ。戦闘機人として決まっていた道筋を、自分なりに選んで進めるようになったんだ」

 悩みながらも精一杯のノーヴェの答えに、ブチャラティはもう一度笑みを浮かべた。
 それはもう寂しくは無く、手の掛かる教え子が満足のいく答えを出してくれた喜びに浮かべる教師のような笑みだった。
 途端に気恥ずかしくなって、ノーヴェは赤くなった。

「そうだな。その通りだ。
 オレにとっての『運命』は諦めて受け入れることじゃない。何か意味のあることを切り開いて行くことで見つかる道のことだ。
 そうして得た結末なら、例え死であろうとオレは受け入れる……」

 ブチャラティはもう一度酒を含んだ。

「オレにとって、『此処』に来る前がそうだった――。
 ある仲間が死に、ある仲間が生き残った。その果てで得た『運命』にオレの死もあった。なのに……ッ」

 後悔の滲んだ表情で、ブチャラティは拳を握り締める。
 ノーヴェの初めて見る表情だった。

「オレはまだおめおめと生きている……。死んでいった仲間達が、『運命』から逃げ出したオレを責めているような気がしてならないんだ」

 ある日突然現れ、今やナンバーズにとって無くはならない存在であるブチャラティの心の内を、ノーヴェは垣間見たような気がした。
 彼の過去を知る者は、おそらくドクターだけだ。詳しいことは何も分からない。
 ただ、彼の苦しみの一端だけは理解することが出来た。
 その苦しみを消してやることは、やはり自分には出来ないのだろう。
 無力感を感じながら、それでもノーヴェは必死に口を開く。言葉を紡ぐ。

「……あたし達とのことを『運命』だと思ってくれないのか?」
「ノーヴェ?」
「ブチャラティと昔の仲間にある絆に比べたら、今のあたし達の間にあるものは全然薄っぺらいのかもしれないけど……あたしは、アンタとの出会いを『運命』だと思いたい。
 アンタが生き残ったのは、あたし達と出会う為だった……そう考えても、いいんじゃねえか? あたしじゃあ、役不足かもしれないけど……」
「……」

 ブチャラティはしばし沈黙し、俯いたノーヴェを見つめていたが、おもむろに酒瓶の蓋をして立ち上がった。

「……ああ、かけがえのない仲間だったよ」

 ノーヴェが顔を上げる。
 いつも通りの、頼りがいのある男としての笑みがブチャラティの顔に戻っていた。

「そして、お前らはお前らだ。このブローノ・ブチャラティの新しい仲間だ」
「――おうッ!」

 ノーヴェは満面の笑みを浮かべて頷いた。



 そして、日々は過ぎていく。
 その過ぎ去った時間を『運命』と呼ぶ者もいるかもしれない。人は皆、『運命の奴隷』である。
 新たな道を開いたブチャラティの『運命』
 それによって更に道の開かれたナンバーズの『運命』
 新たな道を踏み出すことは『苦難の道』の始まりでもある。定まった道を諦めと共に受け入れることこそ『安楽』なのかもしれない。
 だが、ノーヴェは選んだ。
 彼女達は選んだ。



 そんな彼女達の道の先に待つ『苦難』を表すかのように――『別れの時』もまた唐突に訪れたのだった。





To Be Continued……→

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2008年09月23日 14:35