霧間誠一著作集

+ 心の中の叫び―多重人格について
この症例は日本では極めて少なくて、ほとんど見られない

人間の可能性は善にも悪にも開かれている。
二流の社会生活に押さえつけられた可能性が独立して存在を主張するのが多重人格だと私は考えている。
それがどんなに病的で本人や周囲に対して破壊性のあるものでも、可能性に善悪の区別はない。

「ブギーポップは笑わない」より
+ 人が人を殺すとき
本文なし

「ブギーポップは笑わない」より
+ 殺戮者は気が変わる
本文なし

「ブギーポップは笑わない」より
+ 退屈する悪夢
本文なし

「ブギーポップは笑わない」より
+ "知らない"の増殖
本文なし

「ブギーポップは笑わない」より
+ VSイマジネーター
可能性、もしくは想像力と我々が呼んでいるものの九九%までは偽者で、
本物は残る一%にすぎない。
しかも問題は、それが同時に邪悪とも呼ばれることだ

もしも君が善良たろうとするなら、
未来などには関わらぬことだ。
それはほとんどの場合、歪んだ方向にしか向いていない

恋をするのは人の勝手だ。私としては、
それが互いの精神のつぶしあいにならぬことを祈るだけだ

自分の仕事を疑うのはよしたまえ。
たとえどんなに意味不明で甲斐のない仕事に見えても、
実際にその通りだという事実に直面するよりはマシだ

何故に闇を恐れる?
生きていること自体が既に“お先真っ暗”だというのに

気楽になるのは容易いことだ。魂を無くせばそれですむ

すべての混乱は解消されるとは限らない。
ときにそれらは、混沌のまま確固とした存在になって
世界を律することがある。
さながら論理的背景を持たないまま効果を発揮する呪いのように・・・・・・

・・・・・・確かに何かがいる。人に『かくあらねばならない』と思いこませている何者かが。
それは人々の間に入り込み、いつのまにか世界を軋ませている。
・・・・・・人間の生涯に、何らかの価値があるとするならば、それはその何者かと戦うところにしかない。
自分の代わりにものごとを考えてくれるイマジネーターと対決するVSイマジネーター
――それこそが人々がまず最初に立たねばならない位置だろう

新しい可能性は、
ときに自分に似たすべてのものを喰い尽くし・・・・・・あげくに自滅する

悪夢は知らないうちに始まってしまうもので、
予測、予防することはきわめて困難である

自分は正しいか、と自問するより、
自分のどこが間違っているのかと考える方がずっと事実に近いはずだ、
ほとんどの人間はいつでも正しいことはできていない

タイトル「ブギーポップは笑わない」「VSイマジネーター」より
各文「VSイマジネーター」より




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最終更新:2012年02月08日 07:10
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